池上彰が解説「日本のスパイ能力」の実態、米英の機密情報共有の輪に加われるか

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スパイのイメージ写真はイメージです Photo:PIXTA

東西冷戦終結後も、スパイの存在はなくなりません。むしろ、情報をめぐる争いはITやAIを駆使して一層激しくなっており、さらに防諜が求められる時代に――。では、日本のスパイ能力はどうなのでしょうか?

(注記)本稿は、池上 彰『世界史を変えたスパイたち』(日経BP)の一部を抜粋・編集したものです。

日本のインテリジェンス能力は

「耳の長いウサギになれ」

日本の情報活動のあるべき姿はこうたとえられます。常に周囲の情報に耳を傾け、危機を敏感に察知する。自身にはオオカミやトラのような攻撃力はないけれど、その分、情報には人一倍敏感であるべきだ。そんな発想から出てきたのでしょう。

戦前の日本は、陸軍中野学校という軍のスパイ養成組織を持っていました。中野学校は、日露戦争で諜報・謀略任務に就いていた陸軍の軍人・明石元二郎(あかしもとじろう)を一番の手本としていました。その功績は目覚ましいものでした。巨額の工作資金を元手にロシア国内で攪乱工作などを行い、対日戦争の意思を挫折させることに成功しています。まるで冷戦期のCIAのような働きぶりです。

中野学校はこれに倣(なら)い、「秘密戦争こそが戦争である」という考えに基づく教育を行っていました。出身者には、ゲリラ戦の教育を受け、終戦後もフィリピンのルバング島で戦闘を続けていたところを発見され、1974年に帰国した小野田寛郎(おのだひろお)氏がいます。小野田氏は「上官の命令があるまで戦えと言われたからここまでやってきた。終わる時も上官の命令がなければ帰国しない」と言い、戦時中の上官が直にフィリピンに帰還命令を伝えに行ってようやく帰国がかなった、というエピソードがあります。

戦後は解体され、わずか7年しか存在しなかった中野学校ですが、「青白きインテリが多い」と言われる現在のCIAなどと同じように、優秀な大学の学生たちが声をかけられて入校したケースが多く、高い分析力を持っていたようです。

戦後、アメリカの占領下でCIA(中央情報局)やMI6(秘密情報部)のような対外工作、秘密工作を遂行する機関や組織はなくなり、日本の対外情報能力は著しく低下しました。しかし、戦後すぐから共産主義との闘いが始まったことで、国内の共産主義者の監視のための組織が必要になります。これは日本だけでなく、むしろアメリカも望んでいたことでした。

しかし日本軍は解体してしまったため、国内の諜報活動は警察が、海外については外務省が中心となって行うことになります。その後、日本の再軍備化によって防衛庁・自衛隊が誕生してからはソ連など共産圏に関する情報収集や分析を、自衛隊も担うようになります。

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