2015年12月24日15:54
■しかく大会名『第133回IWA定期戦スペシャル』
■しかく会場 登戸ジム(U-FILE CAMP登戸)
■しかくチケット料金
【一般】3000円(全席自由席)
【当日券】500円増し
【高校生】1000円(当日のみ)※(注記)要学生証
※(注記)中学生以下は入場無料
大会情報⇒gankopro.blog78.fc2.com
【全対戦カード】
▼第4試合 シングルマッチ60分一本勝負
大久保一樹 vs グラップリングマシン
▼第3試合 「頑固プロレススペシャル
藤原秀旺・大復帰戦」シングルマッチ30分一本勝負
ザ・マミー vs 藤原秀旺
▼第弐試合 変則タッグマッチ30分一本勝負
ヤマダマンポンド&バンビ vs 自称頑固プロレスのスターK&sakura&遠藤マメ
▼第1試合 タッグマッチ30分一本勝負
ジョータ&高杉祐希 vs 浪口修&タケシマケンヂ
※(注記)出場選手の怪我や都合により変更になる場合もございます。
- カテゴリ:
- 頑固プロレス&大久保一樹
2015年12月18日08:33
◎にじゅうまる1974年12月5日 全日本プロレス 東京・日大講堂
☆N.W.A認定世界ジュニアヘビー級選手権試合 60分3本勝負
ケン・マンテル(1−1)ジャンボ鶴田
1 マンテル(12分39秒 体固め)
2 鶴田(4分44秒 片エビ固め)
3(3分2秒 両者リングアウト)
※(注記)マンテルがの防衛。
連載第50回はまさかの鶴田がジュニアヘビー級に挑戦した一戦です。
前回取り上げた馬場vs.ブリスコは鹿児島大会の結果に関わらず東京大会でのダブル
タイトルマッチが決まっていました。
それは次回に取り上げますが、この日日本プロレス史上最初で最後となるN.W.A世界
ヘビー級とジュニアヘビー級のタイトルマッチが同時に行われたのですが、そのジュ
ニア王座の挑戦者に選ばれたのが鶴田でした。
わたしもプロレスファンになって3〜4年の頃に知ったのですが、最初は信じられま
せんでした。
後のスーパーヘビー級の鶴田を見ている世代からすると「何言ってんだ?」な話しで
すが、当時の鶴田はまだ108〜110Kgだったそうです。
全日では今も昔もジュニアヘビー級のリミットが105kgなので予め決まっていれば
減量可能な体重ではあったわけです。
それにしても鶴田をジュニア王座に挑戦させようという発想が凄いですね。
馬場としては史上初のN.W.A2階級開催を全日が誇るスター2人で挑戦(馬場は王者
になったけど・・・)したかったのでしょう。
試合は1−1から両者リングアウトに終わっています。
マンテルと鶴田の実力を考えれば、まだデビュー2年弱だったとは言え鶴田が勝って
当然と思いますが勝てませんでした。
おそらくこの試合が長く続く鶴田の善戦マン時代の幕開けだったと思います。
実力やキャリアで上回るドリー、ブリスコ、テリー、レイス、ニック、ロビンソンに
引き分けまではいくけど勝てないのはある程度納得いきます。
しかし今回のマンテルはキャリアは上ですがジュニアの選手ですし、後にケリー・
フォン・エリックやリック・マーテルといったキャリアも実力も下の相手に勝てな
かった時のガッカリ感たるやファンとして数ヶ月のリハビリが必要なくらいに落ち込
みます。
前回N.W.Aという組織は世界ヘビー級王座だけが大事と書きました。
では今回の世界ジュニアヘビー級王座はどうかと言えば、極論すればオクラホマの有
力プロモーター、レロイ・マクガークが管理・運営している個人所有のようなタイト
ルです。
マクガーク自身が現役時代に同王者だった思い入れもありますが、日本以上にヘビー
級偏重だったアメリカマット界にとってはジュニア王座はあってもなくてもどうでも
いいという認識でマクガークが管理したいのならば任せておけという現状でした。
しかし任されていたマクガークはキチンと運営していたので、全米に複数存在したN.
W.A世界タッグ(N.W.A本部は未公認)と違ってこの時代はひとつのベルトしかなくて
ジュニア王座としての権威は腐っても世界一だったと考えられます。
ただし、わたし個人のと言うか多くの日本のファンの認識としては本連載時から3年
1ヵ月後に藤波辰巳がW.W.W.F認定ジュニアヘビー級王者になって防衛ロードを重ね
るまではという注訳付きですが。
結局、ベルトの価値って巻いている王者が上げたり下げたりするものです。
藤波が巻いてからはW.W.Fジュニア王座が世界一のジュニア王座だったのは絶対に間
違いありません。
☆N.W.A認定世界ジュニアヘビー級選手権試合 60分3本勝負
ケン・マンテル(1−1)ジャンボ鶴田
1 マンテル(12分39秒 体固め)
2 鶴田(4分44秒 片エビ固め)
3(3分2秒 両者リングアウト)
※(注記)マンテルがの防衛。
連載第50回はまさかの鶴田がジュニアヘビー級に挑戦した一戦です。
前回取り上げた馬場vs.ブリスコは鹿児島大会の結果に関わらず東京大会でのダブル
タイトルマッチが決まっていました。
それは次回に取り上げますが、この日日本プロレス史上最初で最後となるN.W.A世界
ヘビー級とジュニアヘビー級のタイトルマッチが同時に行われたのですが、そのジュ
ニア王座の挑戦者に選ばれたのが鶴田でした。
わたしもプロレスファンになって3〜4年の頃に知ったのですが、最初は信じられま
せんでした。
後のスーパーヘビー級の鶴田を見ている世代からすると「何言ってんだ?」な話しで
すが、当時の鶴田はまだ108〜110Kgだったそうです。
全日では今も昔もジュニアヘビー級のリミットが105kgなので予め決まっていれば
減量可能な体重ではあったわけです。
それにしても鶴田をジュニア王座に挑戦させようという発想が凄いですね。
馬場としては史上初のN.W.A2階級開催を全日が誇るスター2人で挑戦(馬場は王者
になったけど・・・)したかったのでしょう。
試合は1−1から両者リングアウトに終わっています。
マンテルと鶴田の実力を考えれば、まだデビュー2年弱だったとは言え鶴田が勝って
当然と思いますが勝てませんでした。
おそらくこの試合が長く続く鶴田の善戦マン時代の幕開けだったと思います。
実力やキャリアで上回るドリー、ブリスコ、テリー、レイス、ニック、ロビンソンに
引き分けまではいくけど勝てないのはある程度納得いきます。
しかし今回のマンテルはキャリアは上ですがジュニアの選手ですし、後にケリー・
フォン・エリックやリック・マーテルといったキャリアも実力も下の相手に勝てな
かった時のガッカリ感たるやファンとして数ヶ月のリハビリが必要なくらいに落ち込
みます。
前回N.W.Aという組織は世界ヘビー級王座だけが大事と書きました。
では今回の世界ジュニアヘビー級王座はどうかと言えば、極論すればオクラホマの有
力プロモーター、レロイ・マクガークが管理・運営している個人所有のようなタイト
ルです。
マクガーク自身が現役時代に同王者だった思い入れもありますが、日本以上にヘビー
級偏重だったアメリカマット界にとってはジュニア王座はあってもなくてもどうでも
いいという認識でマクガークが管理したいのならば任せておけという現状でした。
しかし任されていたマクガークはキチンと運営していたので、全米に複数存在したN.
W.A世界タッグ(N.W.A本部は未公認)と違ってこの時代はひとつのベルトしかなくて
ジュニア王座としての権威は腐っても世界一だったと考えられます。
ただし、わたし個人のと言うか多くの日本のファンの認識としては本連載時から3年
1ヵ月後に藤波辰巳がW.W.W.F認定ジュニアヘビー級王者になって防衛ロードを重ね
るまではという注訳付きですが。
結局、ベルトの価値って巻いている王者が上げたり下げたりするものです。
藤波が巻いてからはW.W.Fジュニア王座が世界一のジュニア王座だったのは絶対に間
違いありません。
- カテゴリ:
- 野村聡史
2015年12月11日09:59
◎にじゅうまる1974年12月2日 全日本プロレス 鹿児島県立体育館
☆N.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 60分3本勝負
ジャイアント馬場(2−1)ジャック・ブリスコ
1 馬場(11分47秒 体固め)
2 ブリスコ(5分39秒 足4の字固め)
3 馬場(3分20秒 体固め)
※(注記)馬場が第49代王者となる。
連載第49回は全盛期中の全盛期だった猪木の勢いの前に防戦一方だった馬場が放っ
た起死回生の特大ホームランと言える日本人初のN.W.A王座奪取の快挙です。
この試合内容については過去にも書いているので割愛します。
ではなぜ馬場がN.W.Aを奪取する事が特大ホームランで、何が快挙だったのでしょう
か?
それはひとえにこの時代の日本のプロレスファンにおけるN.W.A幻想があったからで
す。
N.W.Aこそが世界最大のプロレス団体で、N.W.A世界王座こそが世界最高峰だと信じて
疑わなかったからです。
そして力道山も馬場も猪木も坂口も鶴田も獲れなかったこのベルトを日本人が巻く事
はないだろうと思われていたからです。
当時36歳で下り坂と思われていた(今の感覚では考えられない)馬場がN.W.Aを
獲った事は「まさか!」であり、だからこそ特大ホームランであり快挙だったわけで
す。
ではN.W.Aとはどんな組織なのでしょうか?
N.W.Aの正式名称は「ナショナル・レスリング・アライアンス」(全米レスリング同
盟)です。
よくAをアソシエーション(協会)だと誤解しがちですが、ちょっと違います。
簡単に言えば全米のプロモーターの親睦組合です。
本連載で何度も書いていますが、当時のアメリカには20〜30のプロモーターが各
州・各都市単位で独自に興行を行っていました。
広大な全米で全国ネットで放送される団体はなく各テリトリーが地元のテレビ局の時
間帯を買い取ってテレビマッチを宣伝に使って会場に足を運んでもらう事が収益の基
本でした。
そんな各テリトリーに世界王者が定期的(基本は3ヶ月に1回、1週間単位)サー
キットして地元の人気者が挑戦する方が特別感があっていいビジネスになるという認
識の元に結成されたのがN.W.Aです。
なのでN.W.A加盟のプロモーターにとって重要な事はいかに集客力のある世界王者を
担ぐかって事なのです。
この点がガニアの個人商店の延長なA.W.Aや、マクマホン一家の個人商店のW.W.W.Fと
は決定的に違います。
現在のW.W.Eが世界的企業に発展したとしても基本はマクマホン一家のファミリー企
業なのです。
しかしN.W.Aはプロモーター同士の横の繋がりなので、どんなに力のあるプロモー
ターでも世界王者を独占したり勝手にサーキットさせたり出来ません。
そして全盛期には全米の80%の地区がN.W.A会員であり、メキシコ・日本・ニュー
ジーランドからも加盟があったという事実を踏まえると世界最大のプロレス組織だっ
たのは間違いありません。
プロレスはボクシングと違って世界中で行われてはいません。
この当時はアメリカ(カナダを含めて北米)、メキシコ、日本、西ドイツくらいしか
定期的に興行が行われていませんでした。
丁度、日本では野球が国民的スポーツで盛んですが、世界的に見ると北中米カリブ海
と東アジアだけなのと同じ現象だと思ってください。
なのでアメリカでの力関係がイコール世界だと言っていいスポーツなのがプロレスで
す。
日本人のN.W.A幻想とは始祖・力道山が最初にその価値を多いに語った事から始まっ
ています。
もちろん力道山時代のN.W.Aは最も価値が高い時代でしたが、力道山の中ではN.W.A=
ルー・テーズなところもありました。
テーズが王座転落するとロサンゼルスのW.W.Aをビジネスパートナーにして、オコー
ナー・ロジャースといったN.W.A王者を呼ぶ努力をしなくなります。
もっともバディ・ロジャースは人気があり過ぎてとても日本まで呼ぶのは不可能だっ
たわけですが。。。
しかし力道山の思惑とは裏腹に日本人の中には「N.W.Aこそ世界最高峰」という幻想
を生き続けます。
それがリング上とは別の形で本連載進行時に問題を呼びます。
新日は昭和48年から毎年N.W.Aに加盟申請しますが拒否され続けます。
馬場は妨害工作をした事はないと言っていましたが、親交のあるプロモーターに暗に
働きかける事で結果的に新日は加盟出来なかったので妨害したと言っても正解だと思
います。
日本のファンは年に1回のN.W.A総会を世界のプロレス界の趨勢を決める会のように
思っていましたが、実際にはプロモーター組合の慰労会で顔合わせと無用な興行戦争
防止と世界王者を誰にするかが話し合われるだけで、出席者にとっては会議後のラス
ベガスでのカジノが楽しみな親睦会だったんですけどね。
これは日本人が国連に過大な幻想を持っていて国連総会こそが世界の正義を決める場
だと思っていたのと同じですね。
新日が加盟できなかったのは「馬場があまりいい顔しないから門前払いしておく
か。」程度の認識で、加盟が認められたのはビンス・マクマホンやマイク・ラベール
といった背広派が独禁法違反とか難しい法律を持ち出してきたので「面倒だから入れ
ちゃえよ。」程度の問題だったわけです。
長々と書いてきましたが、馬場のN.W.A奪取は本当に価値ある快挙なのは間違いあり
ません。
わたしはリアルタイムでこの試合を見た世代ではありませんが、後にVTRで見た時に
は感動しました。
「試合を見て感動する。」それがプロレスにおける不変の価値だと思います。
☆N.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 60分3本勝負
ジャイアント馬場(2−1)ジャック・ブリスコ
1 馬場(11分47秒 体固め)
2 ブリスコ(5分39秒 足4の字固め)
3 馬場(3分20秒 体固め)
※(注記)馬場が第49代王者となる。
連載第49回は全盛期中の全盛期だった猪木の勢いの前に防戦一方だった馬場が放っ
た起死回生の特大ホームランと言える日本人初のN.W.A王座奪取の快挙です。
この試合内容については過去にも書いているので割愛します。
ではなぜ馬場がN.W.Aを奪取する事が特大ホームランで、何が快挙だったのでしょう
か?
それはひとえにこの時代の日本のプロレスファンにおけるN.W.A幻想があったからで
す。
N.W.Aこそが世界最大のプロレス団体で、N.W.A世界王座こそが世界最高峰だと信じて
疑わなかったからです。
そして力道山も馬場も猪木も坂口も鶴田も獲れなかったこのベルトを日本人が巻く事
はないだろうと思われていたからです。
当時36歳で下り坂と思われていた(今の感覚では考えられない)馬場がN.W.Aを
獲った事は「まさか!」であり、だからこそ特大ホームランであり快挙だったわけで
す。
ではN.W.Aとはどんな組織なのでしょうか?
N.W.Aの正式名称は「ナショナル・レスリング・アライアンス」(全米レスリング同
盟)です。
よくAをアソシエーション(協会)だと誤解しがちですが、ちょっと違います。
簡単に言えば全米のプロモーターの親睦組合です。
本連載で何度も書いていますが、当時のアメリカには20〜30のプロモーターが各
州・各都市単位で独自に興行を行っていました。
広大な全米で全国ネットで放送される団体はなく各テリトリーが地元のテレビ局の時
間帯を買い取ってテレビマッチを宣伝に使って会場に足を運んでもらう事が収益の基
本でした。
そんな各テリトリーに世界王者が定期的(基本は3ヶ月に1回、1週間単位)サー
キットして地元の人気者が挑戦する方が特別感があっていいビジネスになるという認
識の元に結成されたのがN.W.Aです。
なのでN.W.A加盟のプロモーターにとって重要な事はいかに集客力のある世界王者を
担ぐかって事なのです。
この点がガニアの個人商店の延長なA.W.Aや、マクマホン一家の個人商店のW.W.W.Fと
は決定的に違います。
現在のW.W.Eが世界的企業に発展したとしても基本はマクマホン一家のファミリー企
業なのです。
しかしN.W.Aはプロモーター同士の横の繋がりなので、どんなに力のあるプロモー
ターでも世界王者を独占したり勝手にサーキットさせたり出来ません。
そして全盛期には全米の80%の地区がN.W.A会員であり、メキシコ・日本・ニュー
ジーランドからも加盟があったという事実を踏まえると世界最大のプロレス組織だっ
たのは間違いありません。
プロレスはボクシングと違って世界中で行われてはいません。
この当時はアメリカ(カナダを含めて北米)、メキシコ、日本、西ドイツくらいしか
定期的に興行が行われていませんでした。
丁度、日本では野球が国民的スポーツで盛んですが、世界的に見ると北中米カリブ海
と東アジアだけなのと同じ現象だと思ってください。
なのでアメリカでの力関係がイコール世界だと言っていいスポーツなのがプロレスで
す。
日本人のN.W.A幻想とは始祖・力道山が最初にその価値を多いに語った事から始まっ
ています。
もちろん力道山時代のN.W.Aは最も価値が高い時代でしたが、力道山の中ではN.W.A=
ルー・テーズなところもありました。
テーズが王座転落するとロサンゼルスのW.W.Aをビジネスパートナーにして、オコー
ナー・ロジャースといったN.W.A王者を呼ぶ努力をしなくなります。
もっともバディ・ロジャースは人気があり過ぎてとても日本まで呼ぶのは不可能だっ
たわけですが。。。
しかし力道山の思惑とは裏腹に日本人の中には「N.W.Aこそ世界最高峰」という幻想
を生き続けます。
それがリング上とは別の形で本連載進行時に問題を呼びます。
新日は昭和48年から毎年N.W.Aに加盟申請しますが拒否され続けます。
馬場は妨害工作をした事はないと言っていましたが、親交のあるプロモーターに暗に
働きかける事で結果的に新日は加盟出来なかったので妨害したと言っても正解だと思
います。
日本のファンは年に1回のN.W.A総会を世界のプロレス界の趨勢を決める会のように
思っていましたが、実際にはプロモーター組合の慰労会で顔合わせと無用な興行戦争
防止と世界王者を誰にするかが話し合われるだけで、出席者にとっては会議後のラス
ベガスでのカジノが楽しみな親睦会だったんですけどね。
これは日本人が国連に過大な幻想を持っていて国連総会こそが世界の正義を決める場
だと思っていたのと同じですね。
新日が加盟できなかったのは「馬場があまりいい顔しないから門前払いしておく
か。」程度の認識で、加盟が認められたのはビンス・マクマホンやマイク・ラベール
といった背広派が独禁法違反とか難しい法律を持ち出してきたので「面倒だから入れ
ちゃえよ。」程度の問題だったわけです。
長々と書いてきましたが、馬場のN.W.A奪取は本当に価値ある快挙なのは間違いあり
ません。
わたしはリアルタイムでこの試合を見た世代ではありませんが、後にVTRで見た時に
は感動しました。
「試合を見て感動する。」それがプロレスにおける不変の価値だと思います。
- カテゴリ:
- 野村聡史
2015年12月04日09:48
◎にじゅうまる1974年11月25日 全日本プロレス 福岡・飯塚市体育館
☆60分3本勝負
ジャンボ鶴田(1−1)パット・オコーナー
1 オコーナー(5分30秒 体固め)
2 鶴田(8分7秒 体固め)
3 (6分22秒 両者リングアウト)
連載第48回は歴史の狭間に埋もれがちな知られざる名勝負です。
まず全日のリングで鶴田vs.オコーナーが実現していた事に驚きます。
元N.W.A世界王者のオコーナーとのシングルで地方会場とは言えメインイベントを務
めた事は、当時デビュー1年半のスーパールーキー鶴田がいかに非凡な選手だったか
を如実に表しています。
オコーナーは当時47歳で、今のプロレスラーの感覚で言えば決してロートルではあ
りませんが、この頃は36歳の馬場でもベテラン扱いだったので大ベテランと言うか
引退目前と日本のファンは思っていた事でしょう。
N.W.A世界王者から転落して10年以上経過していて来日回数も少なかった事から
「凄い選手だけど年寄り」扱いだった事は否めません。
試合タイムはトータルでも20分でスタミナ的には少々難があったのでしょうが、ま
だまだ鶴田が勝てる相手ではなかったのが現実です。
この年に鶴田はブリスコ、モラレス、ドリー、オコーナーと4人の世界王者経験者と
対戦しています。
鶴田のプロレス人生において大きな財産となった事は間違いないでしょう。
☆60分3本勝負
ジャンボ鶴田(1−1)パット・オコーナー
1 オコーナー(5分30秒 体固め)
2 鶴田(8分7秒 体固め)
3 (6分22秒 両者リングアウト)
連載第48回は歴史の狭間に埋もれがちな知られざる名勝負です。
まず全日のリングで鶴田vs.オコーナーが実現していた事に驚きます。
元N.W.A世界王者のオコーナーとのシングルで地方会場とは言えメインイベントを務
めた事は、当時デビュー1年半のスーパールーキー鶴田がいかに非凡な選手だったか
を如実に表しています。
オコーナーは当時47歳で、今のプロレスラーの感覚で言えば決してロートルではあ
りませんが、この頃は36歳の馬場でもベテラン扱いだったので大ベテランと言うか
引退目前と日本のファンは思っていた事でしょう。
N.W.A世界王者から転落して10年以上経過していて来日回数も少なかった事から
「凄い選手だけど年寄り」扱いだった事は否めません。
試合タイムはトータルでも20分でスタミナ的には少々難があったのでしょうが、ま
だまだ鶴田が勝てる相手ではなかったのが現実です。
この年に鶴田はブリスコ、モラレス、ドリー、オコーナーと4人の世界王者経験者と
対戦しています。
鶴田のプロレス人生において大きな財産となった事は間違いないでしょう。
- カテゴリ:
- 野村聡史
2015年11月27日11:43
◎にじゅうまる1974年11月21日 国際プロレス 大阪府立体育会館
☆A.W.A認定世界ヘビー級選手権試合&I.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分
3本勝負
バーン・ガニア(1−1)マイティ井上
1 ガニア(17分17秒 裸絞め)
2 井上(4分55秒 体固め)
3 (8分59秒 両者リングアウト)
※(注記)ガニアがA.W.A王座防衛。
※(注記)井上がI.W.A王座2度目の防衛。
連載第47回は短かったマイティ井上時代のハイライトと言える一戦です。
井上が地元大阪で自身の保持するI.W.A王座を賭けてガニアのA.W.A王座とのダブルタ
イトルマッチです。
ちなみに前々回に取り上げたガニアvs.ロビンソンでロビンソンが王座奪取していた
場合は井上vs.ロビンソンになっていました。
前々回と言う事が矛盾しますが、ロビンソンとは以前にも対戦している井上にとって
も興行を行う国プロにとってもガニアとの対戦の方が新鮮で価値があるのは間違いな
いので、井上と国プロ的にはガニアが防衛していて良かったと思ったでしょう。
試合ではガニアが得意のスリーパーで先制しますが、井上も得意のサンセットフリッ
プで取り返して1−1のタイスコアから3本目は両者リングアウトに終わって、双方
がタイトルを防衛して終わりました。
2連戦のタイトルマッチで結果的には誰にも傷がつかなかったし、3者共に評価を上げ
たのでめでたしめでたしと言っていいかと思います。
しかし、めでたかったのはリング上だけでリング外では実にめでたくない事態となり
ます。
このシリーズを最後に国プロはA.W.Aとの提携を打ち切ります。
理由はまず高額なブッキング料です。
ガニア経由のA.W.A圏の選手には選手へのファイトマネーもアメリカマットでの格が
あって高額な上にガニアへも高額なブッキング料が発生します。
TBSからの放映権料が入っていた時代はまだ何とかなっていたみたいですが、東京1
2チャンネルからの放映権料ではとてもペイ出来なかったそうです。
そんな高額の選手を呼んで観客動員が増えるとか、視聴率が上がればいいですが、決
してそんな事はなかったそうです。
簡単に言えば費用対効果が採算ベースで合わないって事です。
これは後年の全日でもN.W.A王者やA.W.A王者が来日してタイトルマッチを行っても観
客動員・視聴率共にさしたるプラスがなかったのと同じです。
それは迎え撃つ日本人選手に魅力がなかったからなのは明白です。
猪木全盛期の新日は猪木のN.W.F防衛戦だけでビジネスが上がり調子だったのと対比
すればよくわかります。
吉原社長は「ガニアには尻の毛まで毟り取られた。」と語っているのでA.W.Aに未練
はなかったと思われます。
前回にも書きましたが、ガニアからニックに王座移動した事でニックをあまり評価し
ていなかった吉原社長にとってはA.W.A王座の魅力も失せたのでしょう。
そしてジョー大剛をブッカーに変更してジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマ
タ、アレックス・スミルノフ、ザ・サモアンズといったラフファイター中心の来日サ
イクルを確立します。
そういった外国人選手と手の合うラッシャー木村が井上に代わってI.W.A王者となっ
て最後の6年間は木村時代が続くことになります。
吉原社長の決断は費用対効果を考えれば企業経営者として賢明な選択だったと思いま
すし、木村は金網デスマッチや流血戦で国プロを支えていたと思います。
ただ、ライバルの全日がN.W.Aを独占してA.W.Aとも交流して両方の世界王者が来日し
て馬場や鶴田が挑戦する。新日が少し後にW.W.Fと本格的に提携してW.W.F王者に坂口
や猪木や藤波が挑戦するといった夢があったのに対して、いつも看板のI.W.A王座の
防衛戦だけというのは夢がなかったように思えます。
1970年代の日本のプロレスファンにとってはアメリカにある世界3大王座(N.W.
A、A.W.A、W.W.F)への幻想は大きく、いつか日本人レスラーが世界王者になるのを
夢見ていた事を考えると国プロには夢がありません。
馬場がN.W.Aを獲って、猪木がW.W.Fを獲って、木村がA.W.Aを獲れば3団体のファン
みんなが幸せだった事でしょう。
しかし実際にはA.W.Aを獲ったのは鶴田でした。。。
プロレスというビジネスがファンに夢を売るという要素が大きいと考えると、国プロ
にとってはA.W.Aを手放したのは痛恨の極みだったと思います。
実は5年後の昭和54年〜55年にかけて東京12チャンネルからのてこ入れ要請で
吉原社長は渋々ニックを2度招聘して木村と大木が挑戦しますが、この時にはもう遅
きに失した感がありました。
つくづく残念でした。
☆A.W.A認定世界ヘビー級選手権試合&I.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分
3本勝負
バーン・ガニア(1−1)マイティ井上
1 ガニア(17分17秒 裸絞め)
2 井上(4分55秒 体固め)
3 (8分59秒 両者リングアウト)
※(注記)ガニアがA.W.A王座防衛。
※(注記)井上がI.W.A王座2度目の防衛。
連載第47回は短かったマイティ井上時代のハイライトと言える一戦です。
井上が地元大阪で自身の保持するI.W.A王座を賭けてガニアのA.W.A王座とのダブルタ
イトルマッチです。
ちなみに前々回に取り上げたガニアvs.ロビンソンでロビンソンが王座奪取していた
場合は井上vs.ロビンソンになっていました。
前々回と言う事が矛盾しますが、ロビンソンとは以前にも対戦している井上にとって
も興行を行う国プロにとってもガニアとの対戦の方が新鮮で価値があるのは間違いな
いので、井上と国プロ的にはガニアが防衛していて良かったと思ったでしょう。
試合ではガニアが得意のスリーパーで先制しますが、井上も得意のサンセットフリッ
プで取り返して1−1のタイスコアから3本目は両者リングアウトに終わって、双方
がタイトルを防衛して終わりました。
2連戦のタイトルマッチで結果的には誰にも傷がつかなかったし、3者共に評価を上げ
たのでめでたしめでたしと言っていいかと思います。
しかし、めでたかったのはリング上だけでリング外では実にめでたくない事態となり
ます。
このシリーズを最後に国プロはA.W.Aとの提携を打ち切ります。
理由はまず高額なブッキング料です。
ガニア経由のA.W.A圏の選手には選手へのファイトマネーもアメリカマットでの格が
あって高額な上にガニアへも高額なブッキング料が発生します。
TBSからの放映権料が入っていた時代はまだ何とかなっていたみたいですが、東京1
2チャンネルからの放映権料ではとてもペイ出来なかったそうです。
そんな高額の選手を呼んで観客動員が増えるとか、視聴率が上がればいいですが、決
してそんな事はなかったそうです。
簡単に言えば費用対効果が採算ベースで合わないって事です。
これは後年の全日でもN.W.A王者やA.W.A王者が来日してタイトルマッチを行っても観
客動員・視聴率共にさしたるプラスがなかったのと同じです。
それは迎え撃つ日本人選手に魅力がなかったからなのは明白です。
猪木全盛期の新日は猪木のN.W.F防衛戦だけでビジネスが上がり調子だったのと対比
すればよくわかります。
吉原社長は「ガニアには尻の毛まで毟り取られた。」と語っているのでA.W.Aに未練
はなかったと思われます。
前回にも書きましたが、ガニアからニックに王座移動した事でニックをあまり評価し
ていなかった吉原社長にとってはA.W.A王座の魅力も失せたのでしょう。
そしてジョー大剛をブッカーに変更してジプシー・ジョー、キラー・トーア・カマ
タ、アレックス・スミルノフ、ザ・サモアンズといったラフファイター中心の来日サ
イクルを確立します。
そういった外国人選手と手の合うラッシャー木村が井上に代わってI.W.A王者となっ
て最後の6年間は木村時代が続くことになります。
吉原社長の決断は費用対効果を考えれば企業経営者として賢明な選択だったと思いま
すし、木村は金網デスマッチや流血戦で国プロを支えていたと思います。
ただ、ライバルの全日がN.W.Aを独占してA.W.Aとも交流して両方の世界王者が来日し
て馬場や鶴田が挑戦する。新日が少し後にW.W.Fと本格的に提携してW.W.F王者に坂口
や猪木や藤波が挑戦するといった夢があったのに対して、いつも看板のI.W.A王座の
防衛戦だけというのは夢がなかったように思えます。
1970年代の日本のプロレスファンにとってはアメリカにある世界3大王座(N.W.
A、A.W.A、W.W.F)への幻想は大きく、いつか日本人レスラーが世界王者になるのを
夢見ていた事を考えると国プロには夢がありません。
馬場がN.W.Aを獲って、猪木がW.W.Fを獲って、木村がA.W.Aを獲れば3団体のファン
みんなが幸せだった事でしょう。
しかし実際にはA.W.Aを獲ったのは鶴田でした。。。
プロレスというビジネスがファンに夢を売るという要素が大きいと考えると、国プロ
にとってはA.W.Aを手放したのは痛恨の極みだったと思います。
実は5年後の昭和54年〜55年にかけて東京12チャンネルからのてこ入れ要請で
吉原社長は渋々ニックを2度招聘して木村と大木が挑戦しますが、この時にはもう遅
きに失した感がありました。
つくづく残念でした。
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- 野村聡史
2015年11月20日08:56
◎にじゅうまる1974年11月21日 国際プロレス 大阪府立体育会館
☆A.W.A認定世界タッグ戦主権試合&I.W.A認定世界タッグ選手権試合 61分3本
勝負
レイ・スチーブンス&ニック・ボックウインクル(2−1)グレート草津&ラッ
シャー木村
1 木村(14分22秒 体固め)ニック
2 ニック(7分19秒 体固め)木村
3 外人組(3分50秒 反則勝ち)日本組
※(注記)反則決着のためタイトル移動なし。
スチーブンス&ニック組がA.W.A認定世界タッグ王座防衛。
草津&木村組がI.W.A認定世界タッグ王座9度目の防衛。
連載第46回は国プロの総力を結集した豪華シリーズのハイライトである大阪決戦で
のタッグWタイトルマッチです。
国プロにとっての1974年(昭和49年)はエースだったストロング小林の離脱に
始まりTBSのレギュラー放映が打ち切られるというドン底を味わい、東京12チャン
ネル(現在のテレビ東京)の放映開始で息を吹き返して井上のI.W.A世界王座奪還で
加速して迎えたこのシリーズでA.W.Aの世界ヘビー級王者ガニアと世界タッグ王者ス
チーブンス&ニックを同時招聘して勝負に出ました。
日本のプロレス史においてA.W.Aのシングル・タッグ両王者が同時に来日して防衛戦
を行ったのはこの時が最初で最後です。
後にA.W.Aは全日と密接なビジネスを展開しますが、この展開はありませんでした。
N.W.Aは正式な世界タッグを認定していなかったので元より不可能で、W.W.Fと提携し
ていた頃の新日でも実現していません。
何気に物凄い快挙だったわけです。
試合は木村とニックが1本ずつ取って3本目が日本組の反則負けに終わります。
アメリカのタイトルマッチが反則絡みでは移動しないのはこの時代の常識でしたが、
実はI.W.Aもこのルールを採用していたので王座移動はありませんでした。
このシリーズにおいてスチーブンスは井上のI.W.A王座に挑戦していますがニックは
挑戦していません。
ニックがA.W.A王者になるのは翌昭和50年で、この時点ではパートナーのスチーブ
ンスの方がアメリカマットでも格上でタッグチームとしてもチームリーダーでした。
後にA.W.A王者として長期政権を築き日本でも鶴田・木村・大木と防衛戦を行い、
ダーティーチャンプながら名レスラーとして日本のファンにも評価が高いニックです
が、意外にも国プロの吉原社長の評価は芳しくありませんでした。
レスリング出身の吉原社長ならばニックの玄人好みのレスリングは好きなんじゃない
かと思われますが、なぜかお好みではなくニックがA.W.A王者の時も積極的に招聘し
ようとしませんでした。
前出の木村と大木の挑戦は東京12チャンネルからの要請に渋々従ったという話しを
聞いたことがります。
ここらへんの感覚はレスラー独特で一介のプロレス好きには理解出来ないですね。
ニックの評価が高くないのは実は馬場も同じです。
馬場は実は本格派のレスラーが好きで本格派の試合をする事を喜びとしていました。
N.W.Aにおいて明らかに後輩のフレアーへ挑戦する気にならなかったというのは納得
できますが、同年代で本格派のニックのA.W.Aには1度も挑戦せず、シングルマッチ
も昭和53年と55年の最強タッグでの特別試合のみ(2度とも両者リングアウト)
という素っ気無さも意外です。
もうここまでくると一流レスラーならではの嗅覚としか言いようがない気がします。
☆A.W.A認定世界タッグ戦主権試合&I.W.A認定世界タッグ選手権試合 61分3本
勝負
レイ・スチーブンス&ニック・ボックウインクル(2−1)グレート草津&ラッ
シャー木村
1 木村(14分22秒 体固め)ニック
2 ニック(7分19秒 体固め)木村
3 外人組(3分50秒 反則勝ち)日本組
※(注記)反則決着のためタイトル移動なし。
スチーブンス&ニック組がA.W.A認定世界タッグ王座防衛。
草津&木村組がI.W.A認定世界タッグ王座9度目の防衛。
連載第46回は国プロの総力を結集した豪華シリーズのハイライトである大阪決戦で
のタッグWタイトルマッチです。
国プロにとっての1974年(昭和49年)はエースだったストロング小林の離脱に
始まりTBSのレギュラー放映が打ち切られるというドン底を味わい、東京12チャン
ネル(現在のテレビ東京)の放映開始で息を吹き返して井上のI.W.A世界王座奪還で
加速して迎えたこのシリーズでA.W.Aの世界ヘビー級王者ガニアと世界タッグ王者ス
チーブンス&ニックを同時招聘して勝負に出ました。
日本のプロレス史においてA.W.Aのシングル・タッグ両王者が同時に来日して防衛戦
を行ったのはこの時が最初で最後です。
後にA.W.Aは全日と密接なビジネスを展開しますが、この展開はありませんでした。
N.W.Aは正式な世界タッグを認定していなかったので元より不可能で、W.W.Fと提携し
ていた頃の新日でも実現していません。
何気に物凄い快挙だったわけです。
試合は木村とニックが1本ずつ取って3本目が日本組の反則負けに終わります。
アメリカのタイトルマッチが反則絡みでは移動しないのはこの時代の常識でしたが、
実はI.W.Aもこのルールを採用していたので王座移動はありませんでした。
このシリーズにおいてスチーブンスは井上のI.W.A王座に挑戦していますがニックは
挑戦していません。
ニックがA.W.A王者になるのは翌昭和50年で、この時点ではパートナーのスチーブ
ンスの方がアメリカマットでも格上でタッグチームとしてもチームリーダーでした。
後にA.W.A王者として長期政権を築き日本でも鶴田・木村・大木と防衛戦を行い、
ダーティーチャンプながら名レスラーとして日本のファンにも評価が高いニックです
が、意外にも国プロの吉原社長の評価は芳しくありませんでした。
レスリング出身の吉原社長ならばニックの玄人好みのレスリングは好きなんじゃない
かと思われますが、なぜかお好みではなくニックがA.W.A王者の時も積極的に招聘し
ようとしませんでした。
前出の木村と大木の挑戦は東京12チャンネルからの要請に渋々従ったという話しを
聞いたことがります。
ここらへんの感覚はレスラー独特で一介のプロレス好きには理解出来ないですね。
ニックの評価が高くないのは実は馬場も同じです。
馬場は実は本格派のレスラーが好きで本格派の試合をする事を喜びとしていました。
N.W.Aにおいて明らかに後輩のフレアーへ挑戦する気にならなかったというのは納得
できますが、同年代で本格派のニックのA.W.Aには1度も挑戦せず、シングルマッチ
も昭和53年と55年の最強タッグでの特別試合のみ(2度とも両者リングアウト)
という素っ気無さも意外です。
もうここまでくると一流レスラーならではの嗅覚としか言いようがない気がします。
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- 野村聡史
2015年11月13日08:42
◎にじゅうまる1974年11月20日 国際プロレス 東京・蔵前国技館
☆A.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
バーン・ガニア(1−1)ビル・ロビンソン
1 ガニア(20分48秒 裸絞め)
2 ロビンソン(15分15秒 体固め)
3 (9分35秒 両者カウントアウト)
※(注記)ガニアが防衛。
連載第45回は国プロ史上最高の名勝負と誉れ高い至高の外国人対決です。
本連載を始めるにあたり、「昭和49年はあまりにも名勝負が多過ぎて省略するのが
惜しい。」と書きましたが、まさに今回のガニアvs.ロビンソンを埋もれさせたくな
いから本連載を始めたと言っても過言ではありません。
本場アメリカA.W.A直輸入のドル箱カードであると同時に国プロ経由でA.W.A入りした
ロビンソンのサクセスストーリーを知る日本のファンにとっては二重の意味で堪らな
い一戦です。
そして21世紀の現在から振り返って見れば翌年の猪木戦と並んでロビンソンのキャ
リアにおいても全盛期の集大成と言っていい名勝負だったと思います。
この素晴らしいカードで勝負に出た国プロは蔵前国技館を使用しますが、観客動員は
4,000人前後だったと言われています。
遠く九州から駆けつけたマニアもいたそうですが、つまりはどんな豪華カードでも外
国人対決では商売にならない時代だったと言うことです。
新日の大物日本人対決がブームになった年ですが、やはり基本は日本人vs.外国人
だった時代で、やっぱり国プロは早過ぎたんですね。
試合は1本目をガニアが得意のスリーパーホールドでギブアップを奪い、2本目はロ
ビンソンがワンハンドバックブリーカーでフォールを奪います。
3本目はロビンソンのダブルアームスープレックスやワンハンドバックブリーカーを
自力でキックアウトするガニアのスタミナと言うか底力に敬服します。最後はタック
ルで両者共に後頭部を強打したために立ち上がれずに両者カウントアウトの裁定でガ
ニアの引き分け防衛に終わりました。
第2のホームリング、第2の故郷である日本でロビンソンが遂にA.W.A奪取か!とい
う期待は叶わなかったものの内容的にはクリーンでテクニカルなストロングスタイル
の名勝負だったと思います。
そして同時にロビンソンの限界と言うかガニアの評価の厳しさを思い知らされます。
上記した通りガニアvs.ロビンソンはA.W.Aでドル箱カードでした。
そのロビンソンを獲得できたのは国プロのお陰です。
つまり国プロとロビンソンのお陰で散々金儲けをしたにも関わらず最後までガニアは
ロビンソンにベルトを渡さなかったという事です。
遠い日本で一時的にベルトを明け渡してもミネアポリスで奪回すれば、それはそれで
ビジネスになったと思います。
それすらも許さず最終的にガニアは後継者にニックを選び、ニックの長期政権下でも
ロビンソンの王座奪取を許さなかったのは歴史が証明しています。
後年、ロビンソンと長期のビジネスを続けた馬場もロビンソンをレスラーとしての強
さでは認めても王者としては評価しませんでした。
なのでU.NやP.W.Fを奪取させても長期政権は許しませんでした。
ロビンソンは全日時代はフロリダでも活躍していてN.W.A王座にも何度か挑戦してい
ますが、やはり王座奪取には至りませんでした。
フロリダのプロモーター、エディ・グラハムはN.W.A主流派の大物ですのでグラハム
のプッシュがあれば王座奪取も可能だったと考えられますが、単に王者がフロリダを
サーキットした時の挑戦者の一人でしかなかったようです。
それがプロモーターのロビンソンへの評価なのでしょう。
ファンとレスラーとプロモーター全てに評価される超一流レスラーは稀有な存在なの
だと痛感しますね。
☆A.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
バーン・ガニア(1−1)ビル・ロビンソン
1 ガニア(20分48秒 裸絞め)
2 ロビンソン(15分15秒 体固め)
3 (9分35秒 両者カウントアウト)
※(注記)ガニアが防衛。
連載第45回は国プロ史上最高の名勝負と誉れ高い至高の外国人対決です。
本連載を始めるにあたり、「昭和49年はあまりにも名勝負が多過ぎて省略するのが
惜しい。」と書きましたが、まさに今回のガニアvs.ロビンソンを埋もれさせたくな
いから本連載を始めたと言っても過言ではありません。
本場アメリカA.W.A直輸入のドル箱カードであると同時に国プロ経由でA.W.A入りした
ロビンソンのサクセスストーリーを知る日本のファンにとっては二重の意味で堪らな
い一戦です。
そして21世紀の現在から振り返って見れば翌年の猪木戦と並んでロビンソンのキャ
リアにおいても全盛期の集大成と言っていい名勝負だったと思います。
この素晴らしいカードで勝負に出た国プロは蔵前国技館を使用しますが、観客動員は
4,000人前後だったと言われています。
遠く九州から駆けつけたマニアもいたそうですが、つまりはどんな豪華カードでも外
国人対決では商売にならない時代だったと言うことです。
新日の大物日本人対決がブームになった年ですが、やはり基本は日本人vs.外国人
だった時代で、やっぱり国プロは早過ぎたんですね。
試合は1本目をガニアが得意のスリーパーホールドでギブアップを奪い、2本目はロ
ビンソンがワンハンドバックブリーカーでフォールを奪います。
3本目はロビンソンのダブルアームスープレックスやワンハンドバックブリーカーを
自力でキックアウトするガニアのスタミナと言うか底力に敬服します。最後はタック
ルで両者共に後頭部を強打したために立ち上がれずに両者カウントアウトの裁定でガ
ニアの引き分け防衛に終わりました。
第2のホームリング、第2の故郷である日本でロビンソンが遂にA.W.A奪取か!とい
う期待は叶わなかったものの内容的にはクリーンでテクニカルなストロングスタイル
の名勝負だったと思います。
そして同時にロビンソンの限界と言うかガニアの評価の厳しさを思い知らされます。
上記した通りガニアvs.ロビンソンはA.W.Aでドル箱カードでした。
そのロビンソンを獲得できたのは国プロのお陰です。
つまり国プロとロビンソンのお陰で散々金儲けをしたにも関わらず最後までガニアは
ロビンソンにベルトを渡さなかったという事です。
遠い日本で一時的にベルトを明け渡してもミネアポリスで奪回すれば、それはそれで
ビジネスになったと思います。
それすらも許さず最終的にガニアは後継者にニックを選び、ニックの長期政権下でも
ロビンソンの王座奪取を許さなかったのは歴史が証明しています。
後年、ロビンソンと長期のビジネスを続けた馬場もロビンソンをレスラーとしての強
さでは認めても王者としては評価しませんでした。
なのでU.NやP.W.Fを奪取させても長期政権は許しませんでした。
ロビンソンは全日時代はフロリダでも活躍していてN.W.A王座にも何度か挑戦してい
ますが、やはり王座奪取には至りませんでした。
フロリダのプロモーター、エディ・グラハムはN.W.A主流派の大物ですのでグラハム
のプッシュがあれば王座奪取も可能だったと考えられますが、単に王者がフロリダを
サーキットした時の挑戦者の一人でしかなかったようです。
それがプロモーターのロビンソンへの評価なのでしょう。
ファンとレスラーとプロモーター全てに評価される超一流レスラーは稀有な存在なの
だと痛感しますね。
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- 野村聡史
2015年11月06日08:45
◎にじゅうまる1974年11月13日 新日本プロレス 沖縄・那覇奥武山体育館
☆ランバージャックデスマッチ 時間無制限1本勝負
アントニオ猪木(6分23秒 試合放棄)ザ・シーク
連載第44回は謎多き一戦です。
ザ・シーク最初で最後の新日参戦で猪木と沖縄でシングル連戦を行っています。
1戦目は例によってシークの反則負けでやられっ放しではいられない猪木がランバー
ジャックデスマッチでの決着を図ります。
猪木に凶器を奪われて逆に血ダルマにされたシークはリングサイドを取り囲んだ新日
のセコンドを強引に突破して体育館裏まで逃走して試合放棄という裁定が下りまし
た。
正直言ってシークにとってはフォールを奪われようが(日本でも坂口や馬場やドリー
に負けている)、ギブアップを奪われようが(FMWでは大仁田の逆片エビ固めでギブ
アップしている)、そんなの屁でもなくてヒールとしての価値が落ちなければいいの
です。
なのでこの試合においてもランバージャックデスマッチなのに試合放棄というのはむ
しろシークらしいと言えます。
しかもこの試合は沖縄で行われたので、日時・場所を改めて東京や大阪で再戦しても
いいビジネスになっていたはずですが、新日とシークのビジネスはこれで終わりにな
ります。
まだ契約が残っているのにシークは帰国してしまい新日が激怒して2度と呼ばなかっ
た事になっています。
契約途中に帰国したのは事実ですが、これについてはシークの本拠地であるデトロイ
トでオポジション(対抗勢力あるいは団体)が興行を打つ事がわかってシークとして
は日本遠征を続けている場合ではなくなったというのが真相です。
そうであるならばシークの事情には同情の余地はあるわけで新日も改めてビジネスし
ても良さそうですが、そうはならないって事は他にもトラブルがあったか、単に猪木
とシークの手が合わなかったのでさじを投げたか、おそらくどちらもありでしょう。
そもそも猪木=新日とシークというラインが全く見えてきません。
この時期、タイガー・ジェット・シンは猪木に腕折りされて負傷中なので来日できな
かったので代わりにシークを紹介したのか、坂口がアメリカ武者修行中にデトロイト
をサーキットしているのでツテがあったか、とにかくハッキリしません。
ついでに言うとシークは初来日時に本来は馬場のインターに挑戦するはずでしたが、
馬場が直前に日プロを辞めてしまったために代役で坂口のUNに挑戦して獲って獲り返
されています。
坂口の方が因縁もあるし手も合っていたので坂口のライバルとしてレギュラーになっ
ていれば面白かったのにと残念に思います。
余談ですが、この後シークは3年来日せずに昭和52年に全日の「世界オープンタッ
グ」にブッチャーとのコンビで来日して、あのファンクスとの永遠に語り継がれる名
勝負を残して全日のレギュラーとなります。
☆ランバージャックデスマッチ 時間無制限1本勝負
アントニオ猪木(6分23秒 試合放棄)ザ・シーク
連載第44回は謎多き一戦です。
ザ・シーク最初で最後の新日参戦で猪木と沖縄でシングル連戦を行っています。
1戦目は例によってシークの反則負けでやられっ放しではいられない猪木がランバー
ジャックデスマッチでの決着を図ります。
猪木に凶器を奪われて逆に血ダルマにされたシークはリングサイドを取り囲んだ新日
のセコンドを強引に突破して体育館裏まで逃走して試合放棄という裁定が下りまし
た。
正直言ってシークにとってはフォールを奪われようが(日本でも坂口や馬場やドリー
に負けている)、ギブアップを奪われようが(FMWでは大仁田の逆片エビ固めでギブ
アップしている)、そんなの屁でもなくてヒールとしての価値が落ちなければいいの
です。
なのでこの試合においてもランバージャックデスマッチなのに試合放棄というのはむ
しろシークらしいと言えます。
しかもこの試合は沖縄で行われたので、日時・場所を改めて東京や大阪で再戦しても
いいビジネスになっていたはずですが、新日とシークのビジネスはこれで終わりにな
ります。
まだ契約が残っているのにシークは帰国してしまい新日が激怒して2度と呼ばなかっ
た事になっています。
契約途中に帰国したのは事実ですが、これについてはシークの本拠地であるデトロイ
トでオポジション(対抗勢力あるいは団体)が興行を打つ事がわかってシークとして
は日本遠征を続けている場合ではなくなったというのが真相です。
そうであるならばシークの事情には同情の余地はあるわけで新日も改めてビジネスし
ても良さそうですが、そうはならないって事は他にもトラブルがあったか、単に猪木
とシークの手が合わなかったのでさじを投げたか、おそらくどちらもありでしょう。
そもそも猪木=新日とシークというラインが全く見えてきません。
この時期、タイガー・ジェット・シンは猪木に腕折りされて負傷中なので来日できな
かったので代わりにシークを紹介したのか、坂口がアメリカ武者修行中にデトロイト
をサーキットしているのでツテがあったか、とにかくハッキリしません。
ついでに言うとシークは初来日時に本来は馬場のインターに挑戦するはずでしたが、
馬場が直前に日プロを辞めてしまったために代役で坂口のUNに挑戦して獲って獲り返
されています。
坂口の方が因縁もあるし手も合っていたので坂口のライバルとしてレギュラーになっ
ていれば面白かったのにと残念に思います。
余談ですが、この後シークは3年来日せずに昭和52年に全日の「世界オープンタッ
グ」にブッチャーとのコンビで来日して、あのファンクスとの永遠に語り継がれる名
勝負を残して全日のレギュラーとなります。
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- 野村聡史
2015年10月30日08:41
◎にじゅうまる1974年11月7日 全日本プロレス 静岡・沼津市体育館
☆P.W.F認定ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
ジャイアント馬場(2−0)ブラックジャック・マリガン
1 馬場(10分2秒 体固め)
2 馬場(2分15秒 片エビ固め)
※(注記)馬場が21度目の防衛。
連載第43回は馬場がたまに見せる非情な査定試合です。
本連載でも取り上げた1月のプロフェッサー田中戦に続いてアメリカマット界では一
流にランクされるマリガンに2ピンフォールの2−0のストレート勝ちを収めます。
馬場はアメリカマット界での格を大切にするプロモーターで全日にブッキングする際
にはその格を落とさないように気を配る事は有名です。
なのでタイトルマッチにおいて反則やリングアウトが絡まない2ピンフォールでのス
トレート勝ちはほとんど起きないのですが、この年の田中とこの試合のマリガン。そ
して翌年のオックス・ベーカーがこの珍しいケースに当てはまります。
ストレート負けした3選手に共通している事はアメリカマット界では一流ですが、全
日に来日したのは1度きりという事です。
大型ヘビー級でヒールとしてのキャラも確立されていますが、いかんせん動きが鈍い
のも特徴なので全日には合わないrと判断したんでしょうね。
今後ビジネスをしないのならば馬場の強さを際立たせる噛ませ犬にしてもいいかとい
う判断だったのでしょう。
そして現在のような情報化世界ではなくて遠い日本での結果がアメリカのファンに知
られる可能性はほとんどない時代だったのでマリガンにとってもそれほどのダメージ
はなかったのでしょう。
バリー・ウィンダムの父親としても有名なマリガンは国際・全日・新日に数度来日し
て一応シリーズのエース格の扱いを受けているのですが、最後までアメリカほどの活
躍を見せる事はありませんでした。
典型的に日本のプロレスに合わないタイプだったと思います。
ただし、ビル・ワットのような人種差別者ではなく日本のプロレススタイルを十分理
解していたので、新日に昭和52年に来日した際にはスタン・ハンセンに「スタン、
君は日本のプロレススタイルをよく理解しているね。アメリカで君が日本でやるよう
な試合をやったらプロモーターに嫌われるけど、日本では休まずアグレッシブに暴れ
まくる今のスタイルが正しい。」と先輩らしく的確なアドバイスをしています。
これも新日でトップになろうという野心がないので同じ大型ヒールのハンセンが台頭
しても危機感がなかった証拠かもしれません。
本連載時は新日と全日が熾烈な興行戦争を展開していた時期でアメリカ人レスラーの
中にも日本マットを第一に考えるレスラーと、たまの遠征と割り切るレスラーに分か
れていくわけですが、馬場と猪木もプロモーターとして厳しく査定していた事が伺え
ます。
☆P.W.F認定ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
ジャイアント馬場(2−0)ブラックジャック・マリガン
1 馬場(10分2秒 体固め)
2 馬場(2分15秒 片エビ固め)
※(注記)馬場が21度目の防衛。
連載第43回は馬場がたまに見せる非情な査定試合です。
本連載でも取り上げた1月のプロフェッサー田中戦に続いてアメリカマット界では一
流にランクされるマリガンに2ピンフォールの2−0のストレート勝ちを収めます。
馬場はアメリカマット界での格を大切にするプロモーターで全日にブッキングする際
にはその格を落とさないように気を配る事は有名です。
なのでタイトルマッチにおいて反則やリングアウトが絡まない2ピンフォールでのス
トレート勝ちはほとんど起きないのですが、この年の田中とこの試合のマリガン。そ
して翌年のオックス・ベーカーがこの珍しいケースに当てはまります。
ストレート負けした3選手に共通している事はアメリカマット界では一流ですが、全
日に来日したのは1度きりという事です。
大型ヘビー級でヒールとしてのキャラも確立されていますが、いかんせん動きが鈍い
のも特徴なので全日には合わないrと判断したんでしょうね。
今後ビジネスをしないのならば馬場の強さを際立たせる噛ませ犬にしてもいいかとい
う判断だったのでしょう。
そして現在のような情報化世界ではなくて遠い日本での結果がアメリカのファンに知
られる可能性はほとんどない時代だったのでマリガンにとってもそれほどのダメージ
はなかったのでしょう。
バリー・ウィンダムの父親としても有名なマリガンは国際・全日・新日に数度来日し
て一応シリーズのエース格の扱いを受けているのですが、最後までアメリカほどの活
躍を見せる事はありませんでした。
典型的に日本のプロレスに合わないタイプだったと思います。
ただし、ビル・ワットのような人種差別者ではなく日本のプロレススタイルを十分理
解していたので、新日に昭和52年に来日した際にはスタン・ハンセンに「スタン、
君は日本のプロレススタイルをよく理解しているね。アメリカで君が日本でやるよう
な試合をやったらプロモーターに嫌われるけど、日本では休まずアグレッシブに暴れ
まくる今のスタイルが正しい。」と先輩らしく的確なアドバイスをしています。
これも新日でトップになろうという野心がないので同じ大型ヒールのハンセンが台頭
しても危機感がなかった証拠かもしれません。
本連載時は新日と全日が熾烈な興行戦争を展開していた時期でアメリカ人レスラーの
中にも日本マットを第一に考えるレスラーと、たまの遠征と割り切るレスラーに分か
れていくわけですが、馬場と猪木もプロモーターとして厳しく査定していた事が伺え
ます。
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- 野村聡史
2015年10月23日08:34
◎にじゅうまる1974年11月5日 全日本プロレス 東京・大田区体育館
☆P.W.F認定ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
ジャイアント馬場(2−1)ディック・マードック
1 マードック(12分58秒 体固め)
2 馬場(7分5秒 片エビ固め)
3 馬場(2分3秒 回転エビ固め)
※(注記)馬場が20度目の防衛。
連載第42回は馬場が意外なテクニシャンぶりを披露した一戦です。
珍しくマードックをシリーズのエース外人にしたもののやっぱり不安だったのか大田
区体育館でタイトルマッチを行っています。
この試合の3本目のフィニッシュは後方回転エビ固めです。
209cm145kgでおよそテクニシャンタイプには見えない馬場ですが、体は柔
らかくグラウンドレスリングも苦にはしません。
とは言え巨人レスラーというイメージもあってもっぱら豪快な大技をフィニッシュに
使っていました。
それが何故にこの試合ではテクニシャンの真骨頂と言うべき回転エビ固めをフィニッ
シュに使ったのでしょうか?
おそらく本連載でも取り上げましたが、この試合のちょっと前に猪木が日本人として
初めてウラカンラナに成功していたからではないでしょうか。
本連載で何度か書いていますが、馬場は決して猪木をライバルとは認めず意識してい
ないと言い続けていましたが、実は常に猪木の言動や試合内容、新日のアイデアを注
視して、それ以上のモノを見せようとしていました。
この試合においても、さすがにウラカンラナは無理として「俺だってこんなテクニッ
クを使えるんだぞ。」という無言の対抗意識をビシバシ感じます。
馬場は後方回転エビ固めの第一人者であるパット・オコーナーを尊敬していて後に輪
島大士のコーチもお願いしていますが、そのオコーナーから前年に回転エビ固めで1
本取られて以来「いつか俺も・・・。」とチャンスを狙っていたのでしょう。
この試合には後日談があります。
同時期に国プロに来日していたバーン・ガニアがこの試合を観戦して、試合後馬場に
「お前色々な技を使うんだな。」と言って感心したそうです。
レスリング出身のガニアは馬場と試合した事がないばかりかサーキットコースが異
なっていたために試合を見た事もなく、馬場の事を巨人型のアトラクションレスラー
だと思っていたのですが、この試合を見て評価を改めたと言います。
この時点から1年3ヵ月後にガニアは全日に登場して、以降A.W.Aは全日とビジネス
をするようになりますが、この試合を観戦した事が大きなきっかけとなったのは間違
いないでしょう。
☆P.W.F認定ヘビー級選手権試合 61分3本勝負
ジャイアント馬場(2−1)ディック・マードック
1 マードック(12分58秒 体固め)
2 馬場(7分5秒 片エビ固め)
3 馬場(2分3秒 回転エビ固め)
※(注記)馬場が20度目の防衛。
連載第42回は馬場が意外なテクニシャンぶりを披露した一戦です。
珍しくマードックをシリーズのエース外人にしたもののやっぱり不安だったのか大田
区体育館でタイトルマッチを行っています。
この試合の3本目のフィニッシュは後方回転エビ固めです。
209cm145kgでおよそテクニシャンタイプには見えない馬場ですが、体は柔
らかくグラウンドレスリングも苦にはしません。
とは言え巨人レスラーというイメージもあってもっぱら豪快な大技をフィニッシュに
使っていました。
それが何故にこの試合ではテクニシャンの真骨頂と言うべき回転エビ固めをフィニッ
シュに使ったのでしょうか?
おそらく本連載でも取り上げましたが、この試合のちょっと前に猪木が日本人として
初めてウラカンラナに成功していたからではないでしょうか。
本連載で何度か書いていますが、馬場は決して猪木をライバルとは認めず意識してい
ないと言い続けていましたが、実は常に猪木の言動や試合内容、新日のアイデアを注
視して、それ以上のモノを見せようとしていました。
この試合においても、さすがにウラカンラナは無理として「俺だってこんなテクニッ
クを使えるんだぞ。」という無言の対抗意識をビシバシ感じます。
馬場は後方回転エビ固めの第一人者であるパット・オコーナーを尊敬していて後に輪
島大士のコーチもお願いしていますが、そのオコーナーから前年に回転エビ固めで1
本取られて以来「いつか俺も・・・。」とチャンスを狙っていたのでしょう。
この試合には後日談があります。
同時期に国プロに来日していたバーン・ガニアがこの試合を観戦して、試合後馬場に
「お前色々な技を使うんだな。」と言って感心したそうです。
レスリング出身のガニアは馬場と試合した事がないばかりかサーキットコースが異
なっていたために試合を見た事もなく、馬場の事を巨人型のアトラクションレスラー
だと思っていたのですが、この試合を見て評価を改めたと言います。
この時点から1年3ヵ月後にガニアは全日に登場して、以降A.W.Aは全日とビジネス
をするようになりますが、この試合を観戦した事が大きなきっかけとなったのは間違
いないでしょう。
- カテゴリ:
- 野村聡史
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