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U-FILE CAMP オフィシャルブログ

U-FILE CAMP
にじゅうまる1974年11月4日 国際プロレス 東京・後楽園ホール

☆I.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分3本勝負

マイテイ井上(2−1)レイ・スチーブンス

1 井上(11分36秒 体固め)

2 スチーブンス(4分50秒 体固め)

3 井上(1分50秒 回転足折り固め)

(注記)井上が初防衛。





連載第40回は短かった国プロでのマイテイ井上時代の名勝負です。

本連載でも書いた通りスーパースター・ビリー・グラハムから至宝・I.W.A世界王座
を奪取した井上が迎えた初防衛戦の相手は"サンフランシスコの帝王"の異名を持つ
レイ・スチーブンスでした。

日本プロレスにも来日経験のあるスチーブンスですが、小型ヘビー級なので馬場とは
手が合わないと判断されたのかインタータッグへの挑戦はあったもののインターヘ
ビーに挑戦する機会には恵まれませんでした。

同じカリフォルニア州でも日プロと縁が深いのはロサンゼルスで、スチーブンスが主
戦場としているサンフランシスコとは関係性が薄かったというのも理由かもしれませ
ん。

カリフォルニア州が広いというのもありますが、当時のロサンゼルスとサンフランシ
スコはほとんど交流がなかったと言われています。



そんなサンフランシスコでは押しも押されぬトップスターのスチーブンスにとって数
少ない日本遠征で唯一のシングル王座への挑戦は相手が小型ヘビー級の井上だった事
も幸いして両者の持ち味が発揮された名勝負だったそうです。

プロレスにおいてはファイトスタイルや体格など相性は本当に重要なファクターなの
だと思います。



主戦場はサンフランシスコですが、当時はA.W.Aタッグ王者(パートナーはニック・
ボックウィンクル)だったスチーブンスはA.W.Aルートでの来日でした。

国プロとA.W.Aの蜜月が続いていればスチーブンスのように井上と手の合うテクニ
シャンが続々来日して井上時代が続いたのかもしれませんが、残念ながらA.W.Aとの
ビジネスはこのシリーズで終了します。

井上にとっては不幸な路線変更を余儀なくされるわけですが、それはまた別のお話
し。。。
カテゴリ:
野村聡史
にじゅうまる1974年11月1日 新日本プロレス 北海道・札幌中島スポーツセンター

☆N.W.F認定世界ヘビー級選手権試合 60分3本勝負

アントニオ猪木(2−1)アーニー・ラッド

1 猪木(17分5秒 体固め)

2 ラッド(7分42秒 体固め)

3 猪木(10分26秒 弓矢固め)

(注記)猪木が7度目の防衛。





連載第40回は猪木の底力を見せつけた一戦です。

本連載でも取り上げたストロング小林との名勝負の後に猪木はクリーブランドに遠征
してラッドの挑戦を受けました。

試合は1本目が両者リングアウトで2本目でラッドが猪木をフォールします。

普通ならば両者リングアウトで1−1のスコアから2本目が決勝ラウンドで2本目を
取れば試合にも勝つと思いますし日本やアメリカの多くの地区でもそういう試合形式
です。

しかしクリーブランドのローカルルールでは1本目はあくまで1本目で3本目までや
るという認識だったそうです。

つまり1本目が両者リングアウトになった時点で挑戦者のラッドは2本を連取するし
か勝ちにならないという事です。

そして3本目は猪木が取ったので結局1−1で猪木の引き分け防衛となったのでし
た。

ルールはルールなので仕方ないのですが、日本のファンにしてみればスッキリしない
結果で全盛期の猪木にとっては汚点と言ってもいい薄氷の防衛だったわけです。



この因縁に決着を付けるべく組まれたのがこの一戦です。

本連載でも何回か書いていますが、この当時の猪木=新日は馬場を執拗に挑発してい
た時期だったので、205cmのラッドは仮想・馬場としても注目されました。

そして決勝の3本目に猪木がチョイスした技が弓矢固めというのが出色の出来です。

身長差が15cm近くある相手を弓矢固めでギブアップさせるあたりが技術やインサ
イドワークだけでなく、猪木が体力的にもピークにあった事を証明しています。

と同時に普段のビックマッチではフィニッシュに使っていなかった技でフィニッシュ
しても観客を納得させるカリスマ性こそがアントニオ猪木の最大の魅力だと思いま
す。



さて残念ながら負けたラッドですが、日本ではこの試合が最高の名勝負だったと思い
ます。

アメリカではアメフトのスター選手だったという付加価値もあって超一流にランクさ
れる選手ですが、日本では一流の下か下手したら二流の上くらいの評価しかされてい
ません。

来日回数も少ないですし、とことん日本スタイルとは相性が悪かったとしか言いよう
がありません。
カテゴリ:
野村聡史
にじゅうまる1974年10月25日 新日本プロレス 東京・後楽園ホール

☆60分1本勝負

アントニオ猪木(16分48秒 ウラカンラナ)ジョン・トロス





連載第39回は猪木が日本で初公開した大技絡みの一戦です。

この試合のフィニッシュとなったウラカンラナは今でこそポピュラーで日本人の使い
手も多い技ですが、この試合で猪木が日本人として日本マットで初めて成功しまし
た。

多くの方が知っている通り、メキシコの伝説的なルチャドールであるウラカン・ラミ
レスの考案した得意技です。

日本のプロレス創成期からメキシコとの交流はもちろんあり多くの日本人レスラーが
武者修行したり、ルチャドールも多く来日しています。

とは言え、やはり日本プロレス界はアメリカマット偏重だったので特に技術交流はま
だ遅れていた時代だっただけに、いち早くルチャのテクニックを導入した猪木はさす
がと言えます。

30代になったばかりでコンディションが充実していた時期なのでアクロバティック
な技を取り入れる余裕があったのでしょう。



さてこの一戦にはもうひとつの見方があります。

対戦相手のトロスは日プロ時代にUN王座を奪取した因縁のある相手です。

正直言って実力差は明らかですが、日プロ時代の因縁を使えば1シリーズの前半戦く
らいはエース外人として起用する事は可能だったと思いますし、アメリカマットでの
格を考えればN.W.F王座のチャレンジャーにしてもいい選手です。

でもTVマッチのメインとは言え後楽園ホールのノンタイトルでアッサリ片付けて終わ
らせてしまいました。

これは猪木=新日に一貫した姿勢ですが、日プロ時代に因縁のあった相手を猪木のラ
イバルとはせず対戦してもノンタイトルで完勝して終わらせています。

「猪木は日プロ時代よりも遥かに強くなっているので日プロ時代のライバルでは今の
猪木の敵ではない。」といったイメージ戦略だったのでしょう。

同時期の馬場が日プロ時代からのライバルを一貫して優遇してタイトルマッチで対戦
しているのとは真逆の扱いですね。

どっちが正しいかと言えば、義理・人情で考えれば馬場に肩入れしたいところです
が、実際問題は日プロ時代のリバイバルを見せられてマンネリ感漂っていた全日より
も、新しいライバルを発掘して新鮮味のある試合を見せる新日の方が勢いがあってビ
ジネスとしては正解だったと思います。



何気ないひとつの試合からも色々な発見のある昭和49年のプロレスは侮れないです
ね。
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野村聡史
にじゅうまる1974年10月10日 新日本プロレス 東京・蔵前国技館

☆N.W.F認定世界ヘビー級選手権試合 時間無制限1本勝負

アントニオ猪木(13分13秒 体固め)大木金太郎

(注記)猪木が6度目の防衛。





連載第38回は日本プロレス史に燦然と輝く名勝負である猪木vs.大木です。

この試合については以前にも書いたので、今回は試合背景について掘り下げたいと思
います。

猪木と大木は10歳違い。丁度真ん中に馬場がいる年齢的にも微妙な関係性です。

猪木のデビュー戦の相手が大木なのは有名ですが、前座時代にはかなりバチバチな
ファイトを見せていたと伝えられています。

トップレスラーになってからはチームを組んでアジアタッグ王者にもなっています
が、その頃には序列が逆転しています。

当時の大木はアジアヘビー級王者でありアメリカではW.W.A世界王者にもなっている
ので日プロ復帰以来シングル王者になっていない猪木との格付けには不満があったと
言われています。

猪木の離脱(クビ)に端を発して日プロは崩壊し、大木をはじめ多くの日プロ所属選
手は力道山家預りという建前で全日に合流します。

日本人選手の絶対数が足りず国プロの支援を受けて旗揚げした全日もデストロイヤー
の加入や鶴田の入団で形が整ってきたところだったので馬場はこの合流には多いに不
満でした。

しかし百田敬子さんと日本テレビからの要請には首を縦に振らざるをえなかったよう
です。

また日プロ組も間に入った人から「対等合併」と聞いていたので馬場に頭を下げる気
がないままの合流でした。

そのため馬場はグレート小鹿や高千穂のように格下げを受け入れる選手(小鹿や高千
穂はアメリカでも食っていけるという目算があった)はそれなりに扱いましたが、大
木や上田馬ノ助や松岡巌鉄のように「あくまで対等合併のはず。インタータッグ戦の
パートナーも最後の王者だった大木か上田を採用すべき。」と主張する者には徹底的
に冷遇しました。

そのため大木や上田は日本テレビとの契約を残したまま離脱。松岡は引退します。



上田は契約期限が切れるまでアメリカで待って昭和51年に国プロに参戦しますが、
大木は強行突破して新日に参戦して猪木戦が実現します。

ここらへんの強引さはストロング小林の引き抜きと同じ論法でしょう。

大木はもう40歳と超えていたので年齢的な焦りもあった事でしょう。



そして実現した試合は名勝負となりますが大木は敗退します、その後大木は明けて昭
和50年にソウルで猪木とインター王座の防衛戦を行い両者リングアウトの引き分け
防衛を果たして、「第2回ワールドリーグ戦」に出場し開幕戦でアクシデント的なが
らリングアウト勝ちを収めて1勝1敗1分と星勘定だけならばイーブンのまま新日を
離脱します。

新日に入団してナンバー3になる小林とは別の選択をするのですが、そこには大木な
りの危機感があったと考えられます。

この「第2回ワールドリーグ戦」では猪木へのリベンジや優勝争い以上に坂口との遺
恨剥き出しの喧嘩マッチに注目が集まりました。

坂口の日プロ離脱時に相当の遺恨があったそうでド迫力の喧嘩マッチは多いに盛り上
がったものの2回の対戦はいずれも決着が付きませんでした。

おそらく新日としては大木を猪木のライバルとしてではなく坂口のライバルとして抗
争させていこうと考えていたのではないかと思います。

その上でいずれは大木の持つインター王座を坂口に獲らせて坂口と猪木は同格という
坂口合流時の約束を守りたいという展望があったのではないでしょうか。

そして王座奪取した暁には時間を掛けて猪木のN.W.F世界王座よりも坂口のインター
王座の方が格下という事を暗にファンに提示しようとしていたのではないでしょう
か。

そうすることで力道山→馬場と続いた日本マット界No.1のタイトルであるインター
王座を貶めることで猪木を馬場はおろか師匠・力道山さえも超えさせようというイ
メージ戦略があったと考えられます。

猪木と新間ならばそこまで本気で考えていたとしても不思議ではありません。



きっと大木はそういう動きを察知して自身の格とインター王座を守るために早々に新
日を撤退して全日に戻ったのではないでしょうか。

全日復帰後は馬場やブッチャーといったライバルに恵まれて長い間格を落とすことな
く、インター王座も安泰(全日では防衛戦が認められず不満はあった)だったことを
見ると大木の選択は正しかったと思います。



このように昭和のプロレスは興行戦争とレスラー個人の格という観点から見るとさら
に面白さが倍増しますね。
カテゴリ:
野村聡史
にじゅうまる1974年10月7日 国際プロレス 埼玉・越谷市体育館

☆I.W.A認定世界ヘビー級選手権試合 61分3本勝負

マイティ井上(2−1)スパースター・ビリー・グラハム

1 井上(12分4秒 逆片エビ固め)

2 グラハム(6分15秒 カナダ式背骨折り)

3井上(3分48秒 逆さ押さえ込み)

(注記)井上が第9代王者となる。





連載第37回は国プロが悲願のI.W.A王座奪還に成功した一戦です。

この年にストロング小林の王座返上→決定戦でロビンソンが新王者→アメリカでグラ
ハムが奪取と流転した看板タイトルを奪還するべく吉原社長が白刃の矢を立てたのは
小兵の井上でした。

その理由を「超パワーファイターのグラハムに対してヘビー級の木村や草津では分が
悪い。動きの早い井上の方が勝機がある。」と語っていました。

そんな吉原社長の期待に応えるべく井上はシリーズ中で3度挑戦して3度目にして王
座奪還に成功します。

2本目をカナディアンバックブリーカーでギブアップさせられたものの3本目に再び
カナディアン〜に担ぎ上げられたところを背後に着地しての電光石火の逆さ押さえ込
みで逆転フォール勝ちは確かに井上にしか出来ません。

吉原社長の期待に見事に応えてそれまでの日本のプロレス界では存在しなかった(考
えられた事もなかった)ベストウェイトがジュニアビー級の看板タイトルのヘビー級
王者が誕生しました。



この新王者誕生劇はグラハム対策だけで実現したわけではありません。

日本プロレス界は力道山以来ヘビー級らしいヘビー級が団体エースでありチャンピオ
ンに君臨してきました。

国プロもその路線を維持してストロング小林王者時代が最もビジネス的に安定してい
ました。

しかしその小林が離脱してグレート草津やラッシャー木村では馬場・猪木といった不
世出のスターには対抗出来ない事は聡明な吉原社長にはよくわかっていたのでしょ
う。

困った時程アイデアを発揮するのが国プロの歴史でもありましたので、ここでも日本
プロレス界の常識を打ち破る発想に打って出たというのが真相でしょう。



ただ井上王者時代は長く続かずわずか8ヶ月でマッドドック・バションに破れて王者
転落すると、王座はラッシャー木村に移り以後は木村時代が続く事になります。

井上は3度木村に挑戦しますが再君臨はなりませんでした。

これは井上王者奪取時はA.W.Aとのビジネスが継続中で井上と手の合うA.W.A圏のテク
ニシャンを多くブッキング出来る展望だったのですが、そのビジネスがこの年の12
月で終止符を打ち(その理由は後の試合で書きます)国プロはカナダ・カルガリーの
ジョー大剛に外人レスラーのブッキングを一任します。

大剛がブッキングするのは大型ラフファイターになる事が確定していたので、それな
らば金網デスマッチを得意とする木村の方が手が合うし馬場・猪木とは違う個性を提
供できると判断したための路線変更だったことは歴史が証明しています。



結果的には時代の仇花のよな井上時代でしたが、後のプロレス界に与えた影響は計り
知れません。

藤波辰巳がジュニアヘビー級からヘビー級に転向してエースに成長したのを筆頭に三
沢や高田のようにジュニアヘビー級王者を経験してからヘビー級に転向する小型ヘ
ビー級化の先駆けと言っても過言ではありません。

現在のプロレス界は日本だけじゃなくてアメリカでも小型ヘビー級(っていうか完全
に90kg台)が平気で王者になる時代ですからね。

個人的には馬場さんが言っていたように「プロレスラーはデカクなきゃ駄目。」に賛
成しているので今のプロレス界の流れには納得いかないですね。



グラハムについて何も言っていないので少し補足します。

この時が初来日のグラハムはかなり前評判は高かったのですが、典型的なボディービ
ル上がりの直線的なパワーファイターで正直期待に応える活躍をしたとまでは言えま
せんでした。

この後は新日に何回か来日しますが最後まで高い評価を得られませんでした。

しかしアメリカにおいては押しも押されぬスーパースターでブルーノ・サンマルチノ
の長き王者としての歴史に終止符を打ちW.W.W.Fで最初の本格的なヒール政権を築く
など長年に渡り活躍する事になります。

グラハムにしてみたら遠い日本で小兵の井上に苦杯を喫したことなどそのキャリアに
とっては小さい句読点に過ぎなかったと思われます。
カテゴリ:
野村聡史
にじゅうまる1974年10月5日 全日本プロレス 東京・日大講堂

☆P.W.F認定ヘビー級選手権試合 60分3本勝負

ジャイアント馬場(2−1)アブドーラ・ザ・ブッチャー

1 ブッチャー(7分42秒 体固め)

2 馬場(4分49秒 ドクターストップ)

3 馬場(試合放棄)

(注記)馬場が19度目の防衛。





連載第36回は馬場vs.ブッチャーの中でもかなり衝撃的な一戦です。

馬場vs.ブッチャーでは流血戦は必至ですが、この試合においては過去に例を見ない
額からの流血のブッチャーに対して馬場が容赦なくシューズの紐でのキックを連発し
たためにドクターストップがかかり、そのまま試合放棄となりました。

日プロ時代から4年越しで対戦し続けてきた両者ですが、この試合の前までは両者リ
ングアウトか、ブッチャーの暴走反則負けか、流血のブッチャーが鉄柱攻撃のダメー
ジで立てずのリングアウト負けというのが定番になっておりややマンネリ感が漂って
いました。

それだけに馬場にもブッチャーにも焦りもあったでしょうが、それと同時に猪木vs.
シンの腕折り事件が大いに影響されたのは間違いないと思われます。



馬場は絶対に猪木をライバルとは言わないし、猪木や新日の試合に影響されたとは言
いませんが、実際の試合やアイデアから猪木=新日を意識しているのは丸分かりで
す。

猪木が団体トップヒールのシンを相手にプロレスのタブーに挑むような過激な試合を
したならば、自分も団体トップヒールのブッチャーを相手にもっと過激なファイトを
見せる。

そんな馬場の覚悟にブッチャーも真っ向から挑んだ結果が全日では異例とも言えるデ
スマッチに近い試合になったのでしょう。



こういったリング上での意地の張り合いや熾烈な興行戦争がったからこそ、70年代
に日本プロレス界はアメリカに追いつき追い越したのだと思います。

競争なきところに向上はありません。

それは今の新日一人勝ちの日本、W.W.E一人勝ちのアメリカを見ればよくわかりま
す。
カテゴリ:
野村聡史
9月13日登戸大会は諸事情により中止とさせて頂きます。

度重なる大会中止や延期に懲りず、毎回楽しみに大会開催を待って頂いているファンの方々、数ある予定の中から頑固プロレス観戦を選んで頂いた方々、並びに団体所属外の選手関係者へ深くお詫び申し上げます。

頑固プロレス代表 大久保一樹
元祖頑固反逆同盟がどーとかこーとか言ってるけどさ、
あたしよく知らないし。
そもそもバンビ様とか頑固姫とかカトちゃんとか皆留守じゃん。

全く全然1mmも「華がねぇ!」。

なにコレ、ラスト西調布再び?ゲテモノ大会?

山田マン
タケシマ
変態
ゲイ
熟女

しかもなんで変態と組むんだよ。きもちわりぃな。
西調布の壁ドンでハイレベルな心のダメージうけてんだよ。
なんでその変態が仲間なんだよ!

とりあえず変態そっちにあげるから、
元祖反逆変態ゲテモノ同盟でも作って勝手にやってくれ。

あたしはゲイと一緒に飲みながら見てるからさ。

ドキドキするイケメンも、揉んでいじめられるオッパイも無い試合なんて。

マヂでやる気おきねぇよ!!!!



【大会情報】
9月13日(日) 17時30分試合開始

会場⇒登戸ジム(U-FILE CAMP)

全席自由席 3000円
(注記)当日500円増し

チケット予約&大会最新情報⇒http://gankopro.blog78.fc2.com/







あ〜ん!!ほげー!げぼ〜!
お久ですよ!
俺ですよ!
私ですよ!オラですよ!ぼっくんでしゅよ!
ストーカーTHEキタハラだよ!
何々今回は俺のハニー的な女子レスラーいないし、パートナーはゲイ!とビーバップ婆さん!なんか気合はいねぇ〜な〜(笑)
×ばつでもしてよっかな?
で〜も気になるのが元祖頑固反逆同盟復活...
そしてタケシマケンヂお前だよ!お前引退を決意したんだって!?
俺の初勝利の相手はお前だったよなぁ〜!?
あ〜ん!
コメント見たよ!
俺狙い?
俺はお前に1回勝ってんだよ!
わかるかあ〜ん!?
って事は次も俺が勝つんだよ!あ〜ん!?
サイクロン北原?
そんな奴はこの世にもう存在しないだよ!
あ〜ん!?
あんまり舐めたこと言ってると俺のジョシュバーネットともスパをやったシュートなキタハラを見せちゃうよ(手でピストルポーズをとって)
上等だぁ〜
オ〜イェ〜イ!!!


【大会情報】
9月13日(日) 17時30分試合開始

会場⇒登戸ジム(U-FILE CAMP)

全席自由席 3000円
(注記)当日500円増し

チケット予約&大会最新情報⇒http://gankopro.blog78.fc2.com/





にじゅうまる1974年9月21日 アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア・フィラデ
ルフィアスポーツアリーナ

☆W.W.W.F認定ヘビー級選手権試合 時間無制限1本勝負

ブルーノ・サンマルチノ(34分50秒 無効試合)ストロング小林

(注記)サンマルチノが防衛。





連載第35回はアメリカでの試合です。

この年の3月19日に猪木との歴史的名勝負の末に敗れた小林はこの時点でまだフ
リーでした。

猪木との再戦に向けての実績作りのためにW.W.W.F圏をサーキット(マネージャーは
フレッド・ブラッシー)していましたが、実力が認められてサンマルチノの王座に挑
戦したのがこの一戦です。

残念ながらMS.G定期戦ではなかったもののフィラデルフィアはW.W.W.Fにとっては重
要な会場なのでその実力はビンス・マクマホンにかなり評価されていたと考えられま
す。

肝心の試合は無効試合に終わりますが、サンマルチノと34分というロングタイムを
戦い抜いたのは上出来だったと思われます。



小林は元々国プロなので国プロ時代にアメリカ武者修行したのはA.W.A圏でした。

日本ではトップレスラーとは言え、アメリカでは一介の異邦人に過ぎない小林がアメ
リカ定着のためではなく、あくまで猪木との再戦に備えてだけのためのアメリカ遠征
で何のツテもないメジャーテリトリーのW.W.W.Fのサーキットに簡単に入れるのは
ちょっと出来杉君です。

これは憶測ですが、この時期に小林がW.W.W.Fを短期サーキットしてサンマルチノに
挑戦までしているのは新日が裏で手を回していたと考えて間違いないと思います。

既に本連載で書いた通りに小林がフリーになったのは新日の引き抜きです。

3月に猪木に敗れた後に年末の再戦はほぼ決まっていたと考えられます。

その間に試合をさせないと勝負勘が鈍りますが、新日に上げると商品価値が落ちる可
能性があります。

せっかくビンス・マクマホンとのビジネスも始まった事だしパワーファイターが好ま
れるW.W.W.Fならば小林にピッタリです。

マクマホンにしてもマンネリ化しがちなサンマルチノの挑戦者にオリエンタルな小林
が加わることはマッチメーク上好都合だったはずです。

つまり、小林・新日・W.W.W.Fの3者にとって誰も損をしない理想的なビジネスだっ
たわけです。

この理想的な関係性は翌年に小林が予定通り新日入りしてナンバー3の座に落ち着い
てしまう事で自然消滅してしまうわけですが、小林のその後のレスラー人生の行く末
を思うと、つくづくもったいなかったなと思います。

昭和50年以降もW.W.W.Fをサーキットしてサンマルチノの挑戦者グループに入りつ
つ、年に2〜3回外人サイドで新日に来日するスタンスだったらもっと息が長く猪
木・坂口のライバルとしてトップレスラーでいられたのではないかと思います。



ただ、小林は非常に母親想いの孝行息子として知られています。

母親が日本に定着して安定した収入があっていつでもテレビで息子の活躍が見れる事
を望んでいたそうなので、そういう家庭事情を鑑みれば最善の選択だったのかなと理
解もできます。



どちらにしても、この試合の時期が小林のレスラー人生で最も充実して、最も注目さ
れていたのは間違いないです。


カテゴリ:
野村聡史
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