1 「小説は人間の弱さや愚かしさ、さらに言えば、弱く愚かな人間の苦悩について描くものなのだ。(中略)私たち作家が困惑しているのは、今、人々の中に強くなっている、この『正しい』ものだけを求める気持ちだ。コンプライアンスは必要だが、表現においての規制は危険である。その危険性に気付かない点が、『大衆的検閲』の正体でもある」(桐野夏生「大衆的検閲について」『世界』2023年2月号) 桐野夏生は、インドネシアで開かれた国際出版会議の基調講演の中で、正義の名の下に断罪される表現の自由への危惧を率直な言葉で語った。 懸念はやがて現実のものになった。ついに日本でも現実の事例ができたのだ。樋口毅宏のディストピア小説『中野正彦の昭和九十二年』が、書店への搬入も済ませ、いよいよ発売というタイミングになって版元のイースト・プレス社によって回収された問題である。 経緯は詳述するが、最大の問題は〝結果として〟作中の人