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ゴールドシチー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

競走馬におけるゴールドシチーとは、

  1. 日本の、1984年生まれの競走馬。本項にて記述。
  2. 2014年 4月9日に生まれた、父ゴールドアリュール、母トーアハナノマイ(母父タップダンスシチー)の日本の競走馬。山内研二厩舎の馬としてJRAで走ったものの未勝利に終わり、岩手競馬に転じて2勝を挙げた。通算成績26戦2勝[1] [2]

この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。 詳しくは馬齢#日本における馬齢表記を参照してください。
ゴールドシチー
欧字表記 Gold City[3]
品種 サラブレッド [3]
性別 [3]
毛色 栗毛 [3]
生誕 1984年 4月16日 [3]
死没 1990年 5月2日(6歳没・旧7歳)
ヴァイスリーガル [3]
イタリアンシチー[3]
母の父 テスコボーイ [3]
生国 日本の旗 日本(北海道 門別町)[3]
生産者 田中茂邦 [3]
馬主 (株) 友駿ホースクラブ [3]
調教師 清水出美(栗東)[3]
競走成績
タイトル 優駿賞最優秀3歳牡馬(1986年)[3]
生涯成績 20戦3勝[3]
獲得賞金 1億5770万5400円[3]
勝ち鞍
GI 阪神3歳S 1986年
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ゴールドシチー(欧字名:Gold City1984年 4月16日 - 1990年 5月2日)は、日本競走馬 [3]

1986年阪神3歳ステークス(GI)を制し、同年の優駿賞最優秀3歳牡馬 [注 1] に選出されたほか、翌1987年皐月賞(GI)と菊花賞(GI)では2着となった。四白流星尾花栗毛のハンサムボーイと呼ばれた[4]

経歴

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生い立ち

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1984年4月16日、北海道 門別町の田中茂邦牧場に生まれる。本馬の出生から13日後に死亡する父ヴァイスリーガルの特徴を受け継ぎ、幼い頃から金色のたてがみと尾を持つ「尾花栗毛」であった[5] 。好馬体の持ち主であり「いかにも走りそうな気配を漂わせていた」(場主・田中茂邦)が、性格的にもヴァイスリーガルに似て非常に気性が激しかった[6]

その金髪から「ゴールドシチー」と命名され[5] [注 2] 、競走年齢の3歳に達した1986年春、滋賀県 栗東トレーニングセンター厩舎を開業したばかりだった清水出美の管理馬となる。清水は第一印象について「この馬はものすごくいい成績を残すか、すぐに終わってしまうか、どっちかだと思った。気性の荒い面がいい方に出るか、悪く出るかで、この子の一生が決まるな、なんて漠然と思った」と述べている[7] 。また、入厩に際して「あまり走らないようならディズニーランドにでも寄付して乗馬にしよう」という話もあったという[8]

戦績

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映像外部リンク
1986年 阪神3歳ステークス(GI)
レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画

3歳時(1986年)

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6月15日、札幌開催の新馬戦でデビュー。本田優を鞍上に3番人気の評価だったが、スタートで出遅れて後方からのレースとなり、直線で追い込むも5着に終わった[9] 。次走の2着を経て、3戦目で初勝利を挙げる。7月末には札幌3歳ステークスで重賞に初出走。パドックから激しく焦れこむ様子を見せていたが、レースでは後方から追い込んで2着となった[9] 。本田はこの競走を振り返り「結果は2着でも、勝負強いところを教えてくれたし、乗り方次第では、もっと上の連中と戦ってもいいところまでいくんじゃないかと、これから先が楽しみになった」と述べている[9]

9月にオープン競走のコスモス賞で2勝目を挙げ、12月14日に関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスに出走。当日は3番人気であった。発走前から本田が「振り落とされないようにするのがやっと」という状態で[10] 、スタートが切られるとスローペースに堪えかねて先へ行きたがる様子を見せた[6] 。最終コーナーで先頭に立ち、完全に抜け出してからは馬が気を抜いて失速しかけたが、後続の2頭に並びかけられると再び伸び、3頭横一線で入線[6] 。写真判定の結果、2着サンキンハヤテにアタマ差でゴールドシチーが優勝を果たした。また、騎手、調教師、馬主、生産牧場いずれについても、これが初めてのGI制覇となった。

当年はこれでシーズンを終え、翌年のクラシック戦線に向け休養に入る。年度表彰の3歳馬部門では票が割れたなか、関東の3歳王者メリーナイス朝日杯3歳ステークスで同馬に敗れたものの、重賞2勝を挙げたホクトヘリオスに次ぐ3番目の得票数だったが、「東西の比較材料が乏しく1頭に絞ることは難しい」との理由で、最優秀3歳牡馬にメリーナイスと同時選出された[11]

4歳(1987年)

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1987年はスプリングステークス(皐月賞 トライアル)から始動。この競走にはメリーナイスも出走していたが、1番人気に支持されたのは好素質馬との評があったマティリアルであった。ゴールドシチーはパドックにおいて、ファンの間から失笑が漏れるほど激しく焦れこみ[12] 、レースでは道中で最後方の位置から全馬を抜き去って勝利したマティリアルから0.6秒差の6着となった。

4月19日に迎えた皐月賞は、20頭の出走馬のうち関西馬はゴールドシチーのみという、1955年以来の珍しい構成となった[13] 。マティリアルが1番人気に支持され、前哨戦の弥生賞を勝ったサクラスターオーが2番人気、ゴールドシチーは11番人気と大きく評価を下げていた。競走4日前に疝痛を起こしており体調は芳しくなく、パドックでも常とは異なり大人しい姿を見せた[14] 。レースでは直前にサクラスターオーとマティリアルを見る形で後方2番手を進むと、サクラスターオーの動きに合わせて進出、直線では一気に抜け出した同馬に及ばなかったものの、大外を追い込んで2番手争いを制し、マティリアルをアタマ差抑えての2着となった[15] 。本田は「終いに見せてくれた脚は、ほれぼれするような鋭い脚だった。これで体調が万全だったら、もっと際どい勝負になっていましたよ」と語った[15]

二冠目の東京優駿(日本ダービー)を前に、サクラスターオーが両前脚に繋靱帯炎を発症し戦線離脱。ゴールドシチーは皐月賞から一転して生涯最高という体調に仕上がっており、陣営はダービー制覇への期待を高めた[16] 。5月31日に迎えたレース当日は、2番人気に支持された。1番人気は皐月賞に続きマティリアルだったが、同馬は前走から馬体重が16kg減少するなど調子を落としていた。その様子を見た本田は「マティリアルを意識したレースをしなくてもいいだろう。強敵が1頭いなくなった」と感じたという[17] 。スタートが切られるとゴールドシチーは中団につけ、第2コーナーから一時前方に進出する様子を見せたが、向正面の出口で気を抜く悪癖を出して減速し、後方5番手まで位置を下げた[18] 。最後の直線では後方から鋭く追い込んだものの[18] 、2着に6馬身差を付けて勝利したメリーナイスの後方で4着となった。マティリアルは18着であった。

競走後、道中で位置を下げたゴールドシチーの様子が「マティリアルをマークしすぎた」と受け取られ、本田の騎乗が批判された。これに対し本田は「レースが始まる前からマティリアルなんか意識してなかった。あの身体を見れば調子を落としているなって、騎手ならみんな感じていたと思う。そこを勘違いされたんじゃたまらない」と反論しており、「これからは絶対ゴールドシチーの馬主の馬には乗るもんか、とその時は決めたぐらい腹が立った」と述懐している[18]

ダービーの後は夏を休養に充て、9月に神戸新聞杯で復帰。騎手は本田から猿橋重利に替わった。レースでは終始3番手を保ったものの勝ったマックスビューティと逃げたヒデリュウオーを捕らえ切れず3着に終わった[19] 。続く京都新聞杯(菊花賞トライアル)ではスタート直後に外へ斜行してミリオンキャスパーを転倒させ、勝ったレオテンザンから2馬身半差で3位入線したものの失格処分となった[20] 。同時に猿橋には開催6日間の騎乗停止処分が下され、菊花賞で騎乗することができなくなった。菊花賞では新たな騎手として関西のトップジョッキーである河内洋を迎え、当日はメリーナイスに次ぐ2番人気に支持された。レースでは道中5番手から6番手の好位に付けて最後の直線に向いたが、皐月賞以来の出走だったサクラスターオーが先に抜け出し、ゴールドシチーはこれに半馬身及ばず2着となった[21]

12月には鳴尾記念に出走。重賞ではじめて1番人気に支持されたが、6着と敗れる。この競走の勝利馬はクラシック三冠競走に出走しなかった同期馬タマモクロスであった。

5-6歳(1988-1989年)

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翌1988年以降は7走し、本田が鞍上に戻った京都大賞典(1988年)、産経大阪杯(1989年)での3着が最高成績となり、1989年の宝塚記念で10着となったのを最後に競走生活から退いた。

引退後

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競走馬引退後は日本中央競馬会が所有する宮崎競馬場(後のJRA宮崎育成牧場)で乗馬となった。競走馬として優れた実績を持つゴールドシチーに、関係者は障害飛越馬としての大成を期待したが、他馬と馴染むことができず、放牧場では喧嘩を繰り返していた[22] 。そして約半年後の1990年5月1日、放牧場で右前脚を浮かせた状態で立っているところを発見される[5] 。獣医師により応急処置が施されたが、翌2日のレントゲン撮影の結果、右前腕骨骨折で予後不良と診断され、安楽死の措置がとられた[5] 。7歳没。骨折の瞬間を見た者はおらず、関係者は「他馬を挑発して逃げる際に転倒した」、「他馬に蹴られた」、「柵に衝突した」など、様々な可能性を考えたが、結論を出すことはできなかったという[23]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[24] およびJBISサーチ[25] に基づく。

競走日 開催場 競走名


人気 着順 距離(馬場) タイム 着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬)
1986. 06.15 札幌 3歳新馬 10 5 5 3 05着 1000m(良) 1:03.0 -1.6 本田優 53 ミホベスト
06.29 札幌 3歳新馬 6 3 3 3 02着 ダ1200m(良) 1:14.4 -0.3 本田優 53 キョウエイユウキ
07.12 札幌 3歳未勝利 9 5 5 1 01着 ダ1200m(良) 1:13.9 -1.0 本田優 53 (トネコミチ)
07.27 札幌 札幌3歳ステークス GIII 12 2 2 7 02着 ダ1200m(良) 1:13.4 -0.6 本田優 53 ガルダンサー
09.20 函館 コスモス賞 OP 9 3 3 6 01着 芝1700m(良) 1:45.6 -0.1 本田優 54 トチノキャロル
12.14 阪神 阪神3歳ステークス GI 8 2 3 3 01着 芝1600m(良) 1:37.1 -0.0 本田優 54 (サンキンハヤテ)
1987. 03.29 中山 スプリングステークス GII 12 1 1 5 06着 芝1800m(良) 1:49.9 -0.6 本田優 56 マティリアル
04.19 中山 皐月賞 GI 20 8 19 11 02着 芝2000m(良) 2:02.3 -0.4 本田優 57 サクラスターオー
05.31 東京 東京優駿 GI 24 5 11 2 04着 芝2400m(良) 2:28.9 -1.1 本田優 57 メリーナイス
09.27 阪神 神戸新聞杯 GII 8 2 2 4 03着 芝2000m(良) 2:03.0 -0.6 猿橋重利 56 マックスビューティ
10.18 京都 京都新聞杯 GII 12 5 6 2 失格 芝2000m(良) 2:16.8 - 猿橋重利 57 レオテンザン
11.08 京都 菊花賞 GI 18 1 2 2 02着 芝3000m(良) 3:08.1 -0.1 河内洋 57 サクラスターオー
12.06 阪神 鳴尾記念 GII 13 3 3 1 06着 芝2500m(稍) 2:34.4 -1.4 河内洋 56.5 タマモクロス
1988. 04.03 阪神 サンケイ大阪杯 GII 12 7 10 3 04着 芝2000m(良) 2:02.0 -0.3 河内洋 56 フレッシュボイス
04.29 京都 天皇賞(春) GI 18 5 10 3 05着 芝3200m(稍) 3:23.7 -1.9 河内洋 58 タマモクロス
10.09 京都 京都大賞典 GII 8 01 01 3 03着 芝2000m(重) 2:27.6 -0.5 本田優 57 メイショウエイカン
11.27 東京 ジャパンカップ GI 14 2 4 13 12着 芝2400m(良) 2:26.9 -1.4 本田優 57 ペイザバトラー
1989. 04.02 阪神 産経大阪杯 GII 13 8 12 7 03着 芝2000m(良) 2:02.1 -0.7 本田優 57 ヤエノムテキ
04.29 京都 天皇賞(春) GI 18 3 6 6 11着 芝3200m(良) 3:21.0 2.2 本田優 58 イナリワン
06.11 阪神 宝塚記念 GI 16 1 2 11 10着 芝2200m(良) 2:15.7 -1.7 本田優 57 イナリワン

その他

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  • 1988年の第8回ジャパンカップ観戦で初来日した小説家ディック・フランシス(1953年1954年イギリス 障害競走におけるリーディングジョッキー)は、ゴールドシチーを「非常に美しくて魅力的な栗毛」と述べ、特に印象に残った一頭として挙げた[26]
  • 1989年12月より連載されているよしだみほ作の漫画『馬なり1ハロン劇場』では、尾花栗毛の活躍馬が出るたびにゴールドシチーが「金髪のヘヴィメタル野郎」として登場を続けている。よしだはゴールドシチーについて「競馬を見てきた中で一番キレイだった馬は、ときかれたら反射的にゴールドシチーと答えるだろう。(中略)とにかくパッと見て『どひゃーこりゃキレイだ』と思った馬といえばこれに限る」「競馬場に時々出現する尾花栗毛の馬を見ると『これが彼の子だったらなあ』と思ってしまうのだ。成績よりその姿で人の心に残る、そんな馬だっていてもいいはずだ」と語っている[27]
  • 日本中央競馬会の広報誌『優駿』2000年12月号で行われた座談会「今も記憶に残る個性派スターたち」という企画では、タカマガハラトウショウファルコと共に尾花栗毛の「グッドルッキングホース」として名を挙げられた[28]

血統表

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ゴールドシチー血統 (血統表の出典)[§ 1]

*ヴァイスリーガル
Viceregal
1966 栗毛
父の父
Northern Dancer
1961 鹿毛 Nearctic Nearco
父の母
Victoria Regina
1958 栗毛 Menetrier Fair Copy
La Melodie
Victoriana Windfields
Iribelle

イタリアンシチー
1979 鹿毛 *テスコボーイ
Tesco Boy
1963 黒鹿毛 Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Suncourt Hyperion
Inquisition
母の母
リンネス
1972 鹿毛 *フィダルゴ
Fidalgo Arctic Star
Miss France
ジーゲリン *カバーラップ二世
母系(F-No.) チツプトツプ(USA)系(FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco 4 ×ばつ 5 ×ばつ 5 = 12.50%、Hyperion 5 ×ばつ 4 = 9.38% [§ 4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の「最優秀2歳牡馬」。
  2. ^ 「シチー」は馬主の友駿ホースクラブが使用する冠名。英字表記は「GOLD CITY」。

出典

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  1. ^ "ゴールドシチー (2014)". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2021年11月18日閲覧
  2. ^ "ゴールドシチー (Gold City)". netkeiba.com. 2023年9月30日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p "ゴールドシチー". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年8月21日閲覧
  4. ^ 『競馬名馬読本 別冊宝島143号』宝島社。 
  5. ^ a b c d 『サラブレッド101頭の死に方』、p.436-438
  6. ^ a b c d 『優駿』1987年2月号、p.136-139
  7. ^ 広見(1991)、p.30
  8. ^ 『優駿』1987年6月号、p.8
  9. ^ a b c 広見(1991)、p.32-34
  10. ^ 広見(1991)、p.39
  11. ^ 『優駿』1987年2月号、p.55
  12. ^ 広見(1991)、p.54
  13. ^ 『優駿』1987年6月号、p.130
  14. ^ 広見(1991)、p.70-71
  15. ^ a b 広見(1991)、p.74-79
  16. ^ 広見(1991)、p.93-94
  17. ^ 広見(1991)、p.99
  18. ^ a b c 広見(1991)、p.100-104
  19. ^ 広見(1991)、p.114
  20. ^ 『優駿』1987年12月号、p.142-143
  21. ^ 広見(1991)、p.133-136
  22. ^ 広見(1991)、p.14-19
  23. ^ 広見(1991)、p.23-24
  24. ^ "ゴールドシチーの競走成績". netkeiba. ネットドリーマーズ. 2019年8月21日閲覧
  25. ^ "ゴールドシチー 競走成績". JBISサーチ. 日本軽種馬協会. 2019年8月21日閲覧
  26. ^ 『優駿』1989年1月号、p.56
  27. ^ よしだ(1996)、p.138-142
  28. ^ 『優駿』2000年12月号、p.51
  29. ^ a b c "ゴールドシチー 血統情報:5代血統表". JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2021年11月18日閲覧。
  30. ^ a b c d e "ゴールドシチーの5代血統表". netkeiba. Net Dreamers Co., Ltd.. 2021年11月18日閲覧。
  31. ^ "ヒロイチ". JBISサーチ. 2021年7月19日閲覧
  32. ^ "リンネス". JBISサーチ. 2021年7月19日閲覧
  33. ^ "エスポワールシチー". JBISサーチ. 2021年7月19日閲覧

参考文献

[編集 ]

外部リンク

[編集 ]
(旧)最優秀3歳牡馬
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
最優秀2歳牡馬
2000年代
2010年代
2020年代
  • 1 2001年より馬齢表記法が数え年から満年齢に移行
    *2 1954-1971年は「啓衆社賞」、1972-1986年は「優駿賞」として実施
    *3 1986年は2頭同時受賞
阪神3歳ステークス
1940年代

第1回 ウイザート

1950年代

第2回 ミネハル / 第3回 テツノハナ / 第4回 ワカクサ / 第5回 ヤシマアポロ / 第6回 ライデンオー / 第7回 トサモアー / 第8回*1 ミスオンワード / 第9回 メイジミドリ / 第10回 インターナシヨナル / 第11回 コダマ

1960年代

第12回 リユウライト / 第13回 チトセハーバー / 第14回 コウタロー / 第15回 プリマドンナ / 第16回 エイトクラウン / 第17回 ニホンピローエース / 第18回 タイギヨウ / 第19回 マーチス / 第20回 リキエイカン / 第21回 タニノムーティエ

1970年代

第22回 ロングワン / 第23回 ヒデハヤテ / 第24回 キシュウローレル / 第25回 キタノカチドキ / 第26回 ライジン / 第27回 テンポイント / 第28回 リュウキコウ / 第29回 バンブトンコート / 第30回 タマモアサヒ / 第31回 ラフオンテース

1980年代
1990年代
阪神3歳牝馬ステークス
1990年代
2000年代
阪神ジュベナイルフィリーズ
2000年代
2010年代
2020年代
  • 1 「京都3歳ステークス」の競走名で施行

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