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2011年02月25日

雪ダム

以前夜ダムを撮りに行ってるということを書いた。
ほかにも夜のダムを撮りに行ってる方は多いとみえて、なんとゆーかすっかり一ジャンルを形成しているようですね。(←なんの?)

で、世の中には山盛り雪が積もったダムを見たいという人もいて、某師匠などはほぼ毎週末を新潟県の三国川(さぐりがわって読んでね♪)撮影に費やしたらしく。

というわけで、久々に作ってみましたダムメニュー。

sagurigaqa.JPG
今回は三国川ダムシチューです。

堤体に降り積もった雪と、ダム湖に降り注ぐ雪をホワイトシチューで表現してみました。
洪水吐はウインナーで表現しましたが、これはベーコンのほうがよかったかも...

で、今度はコンバインダムを表現しようと画策中なんですが(つか、ターゲットは岩手の四十四田ダム限定w)。

どうもいい案が浮かびません。
皆様、何かいい案がありましたらコメントくださいませ。

2011年02月15日

仰げば尊し

撮りたいものがある。だから死ねない。
目標にしたい人がいる。だから、頑張ろうと思う。


ジャック・ラカンの定義を借りると、
師とは、「自分が知らないことを知っていると想定される主体」のことだそうだ。
相手は「私」が知らないことを知っていそうだ、それはどんなものか。
そう思った瞬間に、「私」は相手に決定的に敗北しているのだという。
これは「相手の謎」という「既にそこにある(と私が想定している)事象」を、決定的な遅れをもって追うということに他ならないからだ。

私には、写真で師匠と仰ぐ人がいる。

師匠と私の網膜の機能には多分差がない。
身長差もそれほど大きくはないから、景色を見たときの「映像」の差異もあまりないはずだ。
師匠に言わせると、カメラのスペックにもあまり差はないという。

それでいて、実際に撮った写真におけるこの差はなんだ。

正直、師匠の技量には全く太刀打ちできない。
眼も腕も、被写体に対する心のありようすらも。

師匠の写真を見たとき
「この人は写真のすげえ腕がある。その秘密はなんだ?」と私は思ってしまった。
その瞬間に、師匠は師匠になってしまったといっていい。

実は師匠は何も持っていないのかもしれない。
実はいーかげん極まりなく、思いつきで写真を撮っているのかもしれない。

それでも、一度師匠に謎を見てしまった私にとって、永遠に師匠は師匠なのだ。

師匠と同じ地平に立つためには、師匠の腕を理解し分析しおのれに再構築するだけでは足りない。
それだって大仕事だとは思うのだが、それは模倣という段階であり、
まだまだ師匠が先を往く状態を脱却できていない。

師匠に胸を張って写真を見てくださいと言えるようになるには
師匠と違う仕方で、つまりは私にしかできない仕方で、写真を撮るしかない。

一体いつになればその地平に立てるのか
正直言って見当もつかない。

おのれの腕に何度絶望すれば足りるのかもまったく知れない。
何度でも、此岸にてのたうちまわるしかないのだろう。

届くはずのない質問状を書いてみた

撮りたいものがあるからカメラを買った。
撮りたいものがあるから移動手段として車を買った。
撮りたいものがあるからそこに行く。

少なくとも私はそうでした。
そして私は写真で表現をしたいと考えています。まだそんな腕はありませんが。

撮りたいものがあるから撮りに行くのではないでしょうか?撮るのではないでしょうか?
そこに自分の意志や嗜好は存在しないのですか?
ならば写真を撮る主体はどこにあるのですか。
自分が撮りたいと思うことも表現の発露ではないのですか?

意志と表現とは別だと仰せですか?
自分らしさってキーワードが写真に不要なら、何も表現しないことが写真の本質なら
なぜあなたはフォトグラファーを名乗るのですか?
写真集を出すのですか?
なぜ「写真を撮ろう」っていうイベントで人を集めるのですか?


写真はカメラがあればだれでも撮れます。それは事実です。

では、このできあがった写真の差はなんなのでしょうか。
それこそが個性なんじゃないのですか?


あなたはだれかを、自分の発案で動かすことそれ自体が目的なのですか?
「写真を撮ること」は行動の一部で、できあがった写真には記録以上の意味はないということですか?



とある方に、↑という質問メールを書いた。
書いてみて、消した。

確実に私の言葉は届かない。
言葉が絶望的に足りていないからだ。
絶望的に足りない言葉は、認識の違いという深い河の底にある。
違う認識の人間に私の認識を文章で理解してもらおうとするのは、私が最も苦手とする分野だ。
というか、深い河の底から言葉を拾い出す手間をかける価値が、この質問にあるとは思えなかった。
たぶん私の質問は曲解されて、せいぜい「そんなことは言ってない」「あなたも一緒に」とかいう返事が来るのがオチだと思う。

だから
おそらく私はこの先も問うことはない。

決定的に違う。そう理解できたことをよしとするべきだ。



でも本音は言いたい。
この気分の悪さをどうにかしたい。

伝えたい。伝わらないことは自明だが。
自分の表現として写真を選ぶやつもおるんだよと。
私はすごい写真なんか撮れなくてもいいから、自分の意志で写真を撮り続けたいんだよと。

そして
私はあなたの意見は支持できないと。

2011年02月04日

君よ知るや麗しの橋

鋼橋が好きで、どうしようもなく惹かれてしまう。

とはいえ、例によって勢いだけで突っ走る私のこと。
被写体との距離がとれず、結果、とんでもない写真の嵐になるわけで。
着眼点が違うということではなく、完全にそれ以前のレベルの問題なのは火を見るよりも明らかというか。

そもそも鋼橋に惹かれる原因になった橋というのはたぶんこれ。
IMG_1141-1.jpg
昭和初期に架橋された中路式カンチレバーワーレントラス、東武鉄道隅田川橋梁。

越谷在住、浅草勤務だった私は、6年にわたり東武のこの橋を渡り通勤していました。
隅田川の両岸は、「花」に歌われる通り桜の名所です。
その春の麗の景観を列車に乗った人も愉しめるように、列車に乗った人の視界を塞がないようにという点を理由の一つとして中路式が選択されたと聞いたとき、私はこの橋に、この橋の設計者に惚れました。
今に至るトラス贔屓は、おそらくこの時点で決定されたのでしょう。

写真がしょぼくて済みません。
カンチレバーであることが、ある程度はっきり分かる写真の手持ちがこれしかなかったもので...

ということで、橋への愛に対して腕が明らかについていけてない写真ばかりがこの先も続きます。
それでもいいという奇特な方は、どうぞ続きをご覧ください。
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2011年02月03日

アンストッパブルを見てきた。

私は陳旧性鉄子であり、さらに慢性鋼橋萌え症候群という病も抱えている身です(最近じゃそれにダム好きという病も加わっていますが、今回はダム関係ないのでスルー)。

そんな私に実に似合いの映画が絶賛公開中だというので、いそいそと見に行ってきました。
タイトルは「アンストッパブル」。
2001年にアメリカで起こった鉄道貨物輸送における重大インシデントをヒントに制作された映画です。

ストーリーは実にシンプルで、暴走機関車を止めようとする物語です(としか説明できません)。

で、アメリカって国はやたらと長大なトラス橋が多くて、この作品にもそれはそれは素敵なトラス橋がガンガン登場するのです。
もうもう、ストーリーは脇に置いて、トラスを見るためだけにまた見に行かねばと真剣に考えてる辺り、実に救いようがないんですが...


ということで、映画「アンストッパブル」のまとめ。
(以下、若干のネタバレがあります)

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