【講演】わが国の経済・物価情勢と金融政策:資産運用立国と日本経済中国経済連合会における講演
日本銀行政策委員会審議委員 高田 創
2025年10月20日
1.はじめに
日本銀行の高田でございます。中国経済連合会でお話しする機会を頂き、誠にありがとうございます。皆様には、日頃から日本銀行の業務運営に対し、ご支援、ご協力を頂いておりますこと、この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。
本日は、わが国の経済・物価情勢や金融政策運営などについてお話しします。
2.経済・物価情勢
経済・物価情勢です。海外経済は、各国の通商政策等の影響を受けて一部に弱めの動きもみられますが、総じてみれば緩やかに成長しています。今年10月に改訂されたIMFの世界経済見通しは、米国の関税政策の影響を大きく受けた4月やその後7月の見通しからも上方修正されています(図表1)。関税政策の影響が懸念される米国経済については、4月のトランプ政権の相互関税賦課の影響から、物価上昇に伴う内需落ち込みを想定していましたが、実際の影響は今のところ限られています。米国の雇用は減速がみられますが、企業収益もIT関係を中心に改善し、株価も史上最高値圏にあります。先行き不安から消費・投資への懸念は根強いですが、資産価格も堅調ななか、マインドへの影響も限られています。今年1月のFOMC以降、政策金利は据え置かれていましたが、雇用の減速を背景にFRBは9月、再び利下げに転じています(図表2)。但し、賃金や雇用者所得は堅調で、AI投資も高水準です。先行きについては、家計・企業・金融機関のバランスシートは健全であり、金融環境も安定的であることなどから、従来、景気悪化局面でみられた信用収縮に伴う急激な落ち込みは想定され難いと捉えています。本年初から関税中心に、成長にマイナスに働く「北風政策」が先行しましたが、7月には減税法案も議会を通過し、規制緩和政策のメニューに伴う投資拡大等も加わり、プラスに働く「太陽政策」の局面に移行しつつあるだけに、局面が変化してきたと認識しています。
関税を世界中に賦課する米国は、最適関税理論上、大国の特権を活かした交易条件改善から、減速の影響は今のところ限られています。そこでは、海外が米国への輸出価格を引き下げることで、本来、米国が負担するはずの関税負担を海外に課す効果が生じます。次の図表3は、教科書的な最適関税論を示す概念図です1。米国のように世界経済に影響を及ぼしうる「大国」の前提に立つと、関税の賦課による需要減少に伴い、世界価格が低下する結果(図表3左図のP0→P2)、関税による厚生損失(図表3左図の(1))を関税収入(図表3左図の(2))が上回り、プラス効果が生じます(図表3左図の(2)-(1))。一方、「小国」の場合(図表3右図)は、関税を賦課しても世界価格は不変(図表3右図、P0=P2)となり、大国のような交易条件の改善効果は見込めません。今回、業種や製品によって差異はあるものの、米国に当てはまる大国の前提に立つと、世界の他地域の輸出価格を引き下げることを通じて、世界に課税をするような効果を生むことになります。一方、関税負担が生じる海外諸国には、本来、減速要因として働くはずですが、米国の関税政策に伴い海外全般で危機意識が醸成されたことで、欧米、中国、新興国で押しなべて財政金融政策が同時に緩和方向に傾き、世界中のベクトルが揃う異例な環境が生じています。次の図表4は、世界各国の金融政策の方向性を示しています。2022・2023年の引き締め局面から一転し、過去1年余り、各国が揃って金融緩和局面にあることがわかります。同時に、米欧中、各地域で財政政策の拡大も生じており、金融と合わせて拡張的な効果を及ぼします。その結果、当初、米国の関税政策で世界的な減速が不安視されていたにもかかわらず、金融・財政政策のベクトルが揃うことで想定外の経済底上げ・インフレ圧力が生じる可能性に留意したいと思います。こうした状況は、2020年以降、コロナ禍で世界的に景気押し上げ政策がとられた局面と類似しています。夏場以降、世界的な株高が生じているのは、こうした世界的な金融財政政策によるサポートを受けている可能性もあります。
米国の関税政策の日本への影響は、当初、海外経済の減速や、企業収益の減少とそれに伴う賃上げの減速、不確実性の高まりによる企業・家計の支出先送りなどの経路を通じてわが国経済を下押しすると考えられました。今年春先以降の日本経済の状況は、喩えれば4月のトランプ政権の「相互関税台風」予想を受けて生じた公共交通機関の「計画運休」のように、事前に、「台風」が来る前から見通しを引き下げていました(図表5)。但し、実際には、10月発表の日銀短観や日銀支店長会議の報告等でも目立った減速は確認されていません。足もと、日本の企業部門では、2025年度の企業収益予想は伸び悩むものの高水準、2025年の春季労使交渉でも、連合の第7回集計(最終回)で高水準の賃上げ率が実現しています(図表6)。家計部門では、個人消費は、物価上昇の影響などから消費者マインドに弱さがみられるものの、雇用者所得の改善を背景に底堅く推移しています(図表7)。従って、雇用・所得環境の改善が個人消費を支える構造に変化はないと考えます。コメなどの食料品価格上昇で足もとの物価上昇率は2%を上回っていますが(図表8)、賃金上昇率の高まりを背景に、先行して上昇した物価を賃金が追いかけ、個人消費も緩やかな増加を続けると期待されます。
物価の基調をみるうえで、様々な主体の中長期的な予想物価上昇率をみると、着実な底上げが継続しています(図表9)。国内のインフレ圧力を示すGDPデフレーターをみると、これまでユニット・プロフィット(UP)等が伸びの中心でしたが、2024年以降は賃金上昇を背景にユニット・レーバー・コスト(ULC)の寄与が高まり、UPとULCがバランスよく伸びる姿に近付き、物価上昇が輸入物価要因だけでなく国内要因による上昇、ホームメード化する動きが生じています。この点、2025年春季労使交渉の賃上げ率が高水準となったことは、こうした傾向が継続する可能性を示唆します。さらに、2025年度の最低賃金引き上げ幅の目安が、前年の5%を上回る6%で決められたことも賃金の上昇が続くことを示唆します。地方では国の目安を超える水準で各県が競い合い、引き上げ率が6.3%にまで至ったことは、物価のノルム転換の象徴的な事例であり、期待インフレにも影響を与えると考えられます。政府が2020年代中に最低賃金の水準を時給1,500円まで引き上げる目標を掲げていることは、将来の水準にコミットすることで、賃金に対するフォワードガイダンスのような効果を生むと考えられます。
以上、人手不足を背景とした供給制約――言わば「人手不足経済」への転換――のもとで、企業の賃金・価格設定行動には積極的な動きがみられており、賃上げ定着を受けた国内要因、ホームメード化したインフレ圧力から、エネルギー価格下落下でも物価上昇が生じ、前掲図表8にあるように消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は2022年4月以降、3年半近く2%以上と、米欧主要国と比べても高い水準が続いています。また、物価のノルムが既に転換し、予想物価上昇率の底上げも加わるだけに、こうした国内の動向をみる限り、私としては、既に「物価安定の目標」実現が概ね達成した局面と捉えています。
4月の相互関税公表後、「物価安定の目標」に向けた動きをみるうえで、こうしたシナリオに対して米国による関税政策が水を差さないか注視してきました。その際、関税政策のわが国経済への波及経路を考えるうえで、これまで次の4点でマイナスの影響が表れないかに注目してきました。具体的には、第1に、不確実性の高まりから設備投資の下振れがあるか。第2に、米国の関税政策に起因した世界経済の減速を背景とする輸出下振れがないか。第3に、企業収益の低下から2026年に向けた賃上げの動きが抑制されるとともに、販売価格も抑制する動きが生じないか。さらに、第4として、米国の各種政策に伴う思惑から為替円高が進行し、企業収益や輸入物価等を押し下げないかにありました。
以上4点について、今年4月の相互関税賦課後、半年を経過した段階の評価として、第1に、設備投資は、8月に公表された日本政策投資銀行の設備投資計画調査や10月の日銀短観でも目立った下振れはみられていません。なかでも、日銀短観で、相互関税の影響を受けやすいとみられる大企業製造業の上方修正があった点に注目しています。第2に、世界経済については、IMFの10月の見通しで、7月に続き改善が生じ、半導体のサイクル等も上向きの流れがあります。第3の企業収益は、4-6月期、製造業を中心に落ち込みが生じましたが、円安の影響もあって、輸出企業でも想定対比で目立った下振れは確認されていません。その後、関税妥結もあり、8月以降は、業績予想の修正度合いを示すリビジョン・インデックスがプラスに転じ、下期に入って今年度の収益の上方修正が生じる可能性があるだけに、賃上げの動きが抑制されるまでには至らないと展望されます。さらに、最低賃金の引き上げ目安が2024年を超える6%の水準で決まったことも、来年の賃上げに向けた発射台を高める要因となります。私は、特に、第4の米国の政策への期待次第で市場が大きく変動する可能性を懸念していましたが、米国経済の腰折れは回避されています。9月に米国は利下げに転じましたが、円高に振れる動きは生じず、むしろ円安に振れる動きが生じています。また、日米ともに株式市場が史上最高値圏にあることも安心感をもたらしています。以上、4つの懸念を総括すると、国内企業の前向きな動きが続く中、その制約となりうる海外の通商要因も大きな下押しにはなりにくいと評価されます。その結果、国内の物価見通し実現に向け、海外要因が制約となることはなく、私としては、年前半以来の「計画運休」は解除、「物価安定の目標」実現を前提とした議論も必要と考えます。
- 詳しくは、Helpman, E. and P. Krugman (1989), Trade Policy and Market Structure, MIT press や、古澤泰治「経済教室 米国の交易条件は改善も」、日本経済新聞2025年9月24日等を参照。小国の場合は転嫁率が100%近くなる一方、大国の場合は転嫁率は低いことから、米国の国内価格は上がりにくく、関税による利益を得る可能性があります。
過去の日米通商摩擦との比較
ここで改めて、今回の米国の関税政策と1990年代までの日米通商摩擦時を比べてみたいと思います2。過去半世紀余り続く米国の経常収支赤字の主因となる貿易赤字は、1980から1990年代まで、日本が圧倒的なウエイトを占めていました(図表10、11)。米国の貿易赤字に占める日本の割合は、1991年のピークには53%にまで達し、「米国の貿易赤字問題=日米通商問題」と位置付けられる状況でした。当時、経常収支赤字の改善に為替市場を通じた調整機能が期待されており、円高圧力が高まりました。
図表11のように米国の貿易赤字の圧倒的なプレゼンスを日本が占めていたもと、為替円高進行に加えて、直接的な輸出割当制や輸出自主規制といった対応がとられました。このことは、関税賦課ではないものの、当時、日本だけ競争環境が悪化した異例な状況にあったと捉えられます。その結果、日本企業は米国市場で他国との競争条件を保つ観点から、為替円高のもとでも現地のドル建て価格を据え置くかたちで価格転嫁を避けることで深刻な影響が生じました。日本企業はその負担に対して、「リストラ経営」でコスト圧縮を行い、その過程で賃金が圧縮され、同時に、マージンや販売価格も圧縮されました。
今回の米国の関税政策は、1990年代までの通商摩擦時と異なり、日本を含む各国・地域が幅広く対象となっており、日本だけに影響が及ぶわけではありません。もちろん、自動車産業については輸出への依存度合いの高さが指摘され、その影響は大きいです。ただし、日本企業の自動車生産に占める米国への輸出割合はピークの1988年には20%程度でしたが、2024年には6%近くまで低下しています。加えて、日本企業は長年のリストラ経営に伴う企業財務の改善で、海外発のショックへの耐性があることも指摘したいと思います。図表12左図のとおり、企業収益は1990年代後半から直近2024年度で10倍近くに拡大し、90兆円程度と過去最大の水準となりました。これだけの企業収益水準が続くことは2000年代に生じた経済回復局面とも異なる点であり、企業価値底上げの背景になっています。日本企業は30年以上にわたって通商摩擦に伴う厳しい外部環境のなか円高でも耐え抜くべく損益分岐点を引き下げ、ショックへの耐久度を増してきました。
今年7月に合意され、9月に確定した相互関税率15%は、対米黒字国の中では最低水準であるほか、日本の輸出における対米依存度も過去と比べて大きく低下しています。完成車メーカー各社が公表している関税引き上げによる今年度の減益幅は、合計すると2兆円台半ば程度となりますが、日本企業の収益が100兆円近い水準にあること、関連部品産業も含め価格転嫁も見込まれ、円安の恩恵もあり、減収はこれよりも限定される可能性があります。以上、米国の関税政策を受けても、いまのところ輸出企業中心に企業行動に変調の兆しは見られておらず、1990年代のような価格引き下げ圧力や賃金抑制圧力が繰り返されることにはなりにくく、企業の前向きな動きは途切れにくいと展望しています。
- 2詳しくは、高田創(2025)、「わが国経済・物価情勢と金融政策――三重県金融経済懇談会における挨拶要旨――」を参照。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2025/ko250703a.htm
3.最近の金融政策運営
次に、今後の金融政策運営に対する私の考えをお話しします。本年1月には、わが国の経済・物価は、これまで示してきた見通しに概ね沿って推移し、先行き見通しが実現していく確度が高まってきていたため、2%の「物価安定の目標」の持続的・安定的な実現という観点から、金融緩和度合いを調整することが適切と判断し、政策金利の0.5%程度への引き上げを決定しました。
国内要因に加えて海外要因からも「物価安定の目標」実現が目前に迫りつつあるなかで、特に短期の実質金利は大幅なマイナスとなっており緩和的な金融環境は継続しています(図表13)。さらに、次のギアシフトに向けたクロース・コールを行う上で注目してきたのは関税を中心とした海外要因でしたが、前述のように当初抱いた不安は低下したと判断するに至りました。こうしたもと、堅調な設備投資や賃上げ、価格転嫁の継続など「前向きな企業行動」の持続性が確認され、さらに、7月に関税交渉が15%で合意し、その後、9月に確定したなか、私としては、警戒モード、「計画運休」の解除の段階と判断しました。
もっとも、関税政策による影響で米国経済の減速が生じうるだけに、内外の金融政策のスタンスの違いで、為替を中心とする金融市場に大きな変動が及ぶリスクへの注視も、長年の歴史を振り返ったうえで重要と考えてきました。実際、1970年代の変動相場制への移行後、日米欧の金融政策の連動が繰り返されてきました。今次局面を除いた日本銀行の過去5回の利上げ局面を振り返ると、米国の利上げ局面で日本も利上げし、米国の利下げ後に日本は利下げに転じていました。FRBが利下げを再開する場合には日本銀行の金融政策の自由度が低下する可能性もありました。ただし、今回は米国の深刻な景気後退が想定され難いもとでは、2000年頃のITバブル崩壊後や2000年代後半の世界金融危機後とは異なります。今回、米国は利下げに転じましたが、その理由は、景気後退ではなく、9月のパウエル議長の会見でも、あくまでもリスク管理的なものとされ、その後も経済の底堅さは続いています。米国利下げ後も米国の長期金利は底入れし、為替も円高は回避されているだけに、今回は、過去繰り返された事例とは異なり、日本の利上げの制約にはならないと考えるに至りました。
2022年から2023年にかけ、コロナ禍後の世界的な経済回復の潮流からエネルギー・食料品価格上昇の「ビッグ・プッシュ3」を起点に世界規模で物価の上振れが生じ、日本にもその波が及び、円安も相俟って輸入製品中心の物価上昇が生じました。日本では賃金等の引き上げ抑制のノルムも残存していただけに二次的な物価上昇は限定的でしたが、海外発の「ビッグ・プッシュ」が日本のノルムを解く効果を果たしました。一方、今回は既に物価が上がらないノルムも解け、中長期のインフレ期待も引き上がると思われるだけに、物価上昇の二次的な影響もさらに生じやすくなっています。賃金に加え、粘着性が高く、従来、岩盤とされていた家賃やオフィス賃料の上昇も生じだした点も基調的物価上昇を示すものです。さらに、海外状況の制約も低下しただけに、今後、物価上昇要因が生じた場合、日本でも物価が予想以上に上振れするリスクも念頭に置く必要があると思います。足もとはベアを中心に2026年に向けた賃金の上昇も2023年以降4巡目を迎えるなか、私としては、もう一段ギアシフトを行いつつ、「物価安定の目標」の実現に概ね達していることを前提にしたコミュニケーションを行う必要があると考えております。
市場とのコミュニケーション上、縮小均衡モード・ノルムが残存する期間はヘッドラインの物価が2%を上回っても、基調的物価は物価目標に達していないとして粘り強い緩和を継続することが必要でした。一方、今やノルムも解け、「平時」に戻った中、既に3年半の間、2%を超えるヘッドラインの物価水準にも注目した対応も重要であると考えました。国内での根強いノルムが後退し「物価目標の実現」に概ね達したと考え、さらに、海外の不安が後退したなか「計画運休」解除と評価し、私は利上げに向け機が熟したと考えました。その結果、もう一段のギアシフト、緩和の度合い調整が必要として9月の金融政策決定会合で0.75%への利上げを提案しています。
- 3「ビッグ・プッシュ」とは、開発経済でよく用いられ、大きなショックが生じることにより、ある均衡から別の均衡に移行することを指します。2022年からのグローバルな潮流が日本の歴史的な転換をもたらした可能性があると考えています。
長期国債買入れ減額について
なお、国債買入れに関しては、6月会合では、市場参加者の方々のご意見も参考にしたうえで長期国債買入れの減額計画の中間評価を行い、これまでと同じ毎四半期4,000億円程度の減額を2026年1から3月まで続けることとしました(図表14)。また、その後は毎四半期2,000億円程度ずつ減額し、2027年1から3月に2兆円程度とすることとしています。日本銀行の買入れ減額は、「長期金利は金融市場において形成されることが基本」としたうえで、国債買入れは「国債市場の安定に配慮するための柔軟性を確保しつつ、予見可能な形で減額していく」としています。既に物価安定の目標に近づき、物価・賃金が上がらないノルムも解けているだけに、長年続いた長期金利をコントロールしてきたイールドカーブ・コントロールは時代の役目を終え、市場化・正常化に向かう局面にあると考えます。そのため、大量の国債購入で市場機能が低下した状況から国債の購入を減らして正常化に向かうことが必要と考えています。また、日銀の保有するバランスシートのあり方を踏まえても、緩和の度合いを調整する観点からマネーストックの管理やバランスシートの縮小も検討する段階にあると考えています。
但し、私としては、市場機能を円滑に保つ観点からも、そのプロセスは慎重、かつ時間をかけた対応も必要と認識しています。なんとなれば、これまでの日本銀行の国債買入れは、国債保有を増やすことで市場における国債の総量を抑制する効果を持っていました。一方、買入れ減額はこれまで日本銀行が買入れていた額の一部が市場に供給され、事実上、市場における国債の量が増加することになります。この点を踏まえれば、今回は過去の歴史的な局面と比べても有数の市中への大量国債供給局面が生じるとも考えられます。図表15は、「ネット発行額」として、これまで発行された国債の残高前年差の推移を示します。これから、日本銀行が行ってきた国債買入れを勘案して、「市中残高」として、事実上、市場に供給される国債の前年差が示されます。1980年代からの歴史的な比較上、今回の国債買入れ減額の影響もここに表れます。今後、2026年に向けて市場に供給される国債の「市中残高」の前年差は2000年代初の歴史的な水準に達すると見込まれるだけに、市場に変動が及ぶか慎重に見極める必要があると考えています。日本銀行による国債買入れの減額が財政に対する配慮ではないことは言うまでもありませんが、事実上、市場に国債を供給する効果が生じるだけに、市場全体としての機能度の観点から、当局間で十分に意見交換し、市場の安定に努める必要もあると考えております。この1年を振り返り、超長期ゾーンの投資ニーズの減退等、想定外の市場構造変化もあっただけに、1年後の中間評価に向けて、状況を丁寧にみていく必要があると考えます。
ETF、J-REIT処分について
また、9月の会合では、日銀保有のETF、J-REITの処分の方針を決定しました。これは、国債購入を中心とした量的緩和に加え、ETFやJ-REITを活用した質的緩和政策も出口に向かうことを意味します。次の図表16に示されるように、今年7月に金融機関から買入れた株式の処分が完了し、その知見を活かしつつ、金融機関から買い入れた株式の処分と同程度の規模で、ETF等を市場へ売却することとしています。ETFの購入は株式市場のリスクプレミアムを抑制しデフレ的状況を改善させる目的で行われてきましたが、その目的が達せられて、昨年3月に新規の買い入れを終了し、今やデフレ的な環境も払拭された中、正常化を進める観点から今回の売却決定に至りました。株式市場のリスクプレミアムは正常化していますが、売却にあたっては市場に攪乱的な影響が及ばないようにする慎重な対応も必要と考えています。また、不動産市況は堅調ですが、J-REIT市場はリスクプレミアムが依然として大きいことを踏まえると、今回決定したように、売却ペースは相当緩やかにすることが望ましいと考えています。
4.資産運用立国と日本経済
以上、日本企業を中心とした歴史的な転換を、企業の前向きな行動への転換として議論してきましたが、それは同時に家計の金融資産への意識の転換も意味します。昨今、資産運用立国論が話題になっていますが、家計の投資行動について歴史的な観点から、私見を述べたいと思います。日本の家計は現預金中心に金融資産を保有するノルムから漸く抜け出す状況になってきましたが、今回の米国の関税政策によって、こうした変化が途切れる不安も存在します。実際に、2000年前後や2000年代半ばの回復局面では、結果として、企業も家計の行動も海外発の需要ショックで「偽りの夜明け――経済の一時的な回復――」4が繰り返されました。私としては、今回の局面は「真の夜明け」5を期待しており、「これまでとは違って(This time is different)」、ノルムを超えた世界を展望しています。同時に、それが意味することは、日本の資金フロー、銀行を中心とした金融仲介の姿にも大きな影響を与えると考えられます。政府の資産運用立国の動きのなか、昨年4月には、日本銀行も出資して、次の図表17に示される、J-FLEC(金融経済教育推進機構)が設立され、金融経済教育に向けた動きを本格的に取り組む局面になりました。こうした動きがなぜ今必要とされているかも改めて議論したいと思います。
- 4白川方明(2009)、「経済・金融危機からの脱却:教訓と政策対応――ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳――」。
https://www2.boj.or.jp/archive/announcements/press/koen_2009/ko0904c.htm - 5中曽宏(2017)、「日本経済の底力と構造改革――ジャパン・ソサエティおよびシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの共催講演会における講演の邦訳」。
https://www.boj.or.jp/about/press/koen_2017/ko171005a.htm
なぜ、日本の家計は現預金ばかりを保有するのか
前段でも議論した1970年代から本格化した日米通商摩擦について、そのクライマックスとバブル崩壊に伴う長期低迷の時期は、1990年前後に重なると捉えています。すなわち、バブル崩壊に伴う長期低迷は、2つの柱、(1)資産デフレと、(2)通商摩擦を主因とした為替円高などの外需に依存しにくい環境の継続によって生じたと考えられます。本邦企業は、過去の通商摩擦、為替円高進行に伴う海外とのコスト競争を、賃金を中心としたリストラや関連企業を含めた原価低減を行うことで乗り切りましたが、その副作用として賃金や価格が上がらないノルムが形成されたと思います。この過程で家計は現預金を手元にため込む行動をとりました。
以下の図表18は、日経平均株価とドル円相場の推移です。日本の株式市場では1989年をピークに海外から全く隔絶された停滞局面、言わば「雪の時代」が20年以上も続きました。さらに、円高も加わるダブルパンチで日本は長らく「雪の魔法」がかけられてしまったような状態に陥りました。このように、日本では株式や外貨建て商品のようなリスク性資産に投資しても成功体験が得られる環境ではありませんでした。
日本では個人の保有金融資産のなかで現預金が占める割合が高いのですが、これまでの環境の中では合理的なことであり、「日本人は投資に向いていない国民性」なのではなく、その必要性がなかったと考えています。つまり、日本人は金融リテラシーが低いというよりも、そもそも資産運用を行う必要性を感じてこなかったと考えられます。日本の家計では「金融」や「資産運用」といった面倒くさいことに関わる必要がなく、日本全体としても、個人は「資産運用」をしなくてもいい仕組みであったと思います。長年、日本では終身雇用のなか資産運用などはせず、お金を節約して銀行に預けておけばよい時代が続きました。家計の資産選択を巡る環境は、右肩上がりの経済のなかで終身雇用が暗黙裡に保証され企業の拡大と同時に給与も増える、まさに企業と一体、企業に自ら出資しているような状況でした。企業の旺盛な資金需要に融資で応える銀行の特別な存在もあり、家計はそこに資金を預金で供給する主体でもありました。今やそうした状況は過去のものとなり、新たな環境のなかで国民が自らの資産形成を考える局面にあります。
2025年6月末には日本の家計の金融資産は約2,200兆円と、史上最高水準に達しました。日本の家計には、日本のGDPの4倍近い資金があることを再認識する必要があります。次の図表19は、日米欧の金融資産の構成比比較です。日本の家計の金融資産の構成比を欧米と比較すると、日本の現預金比率は約50%となっており、欧米と大きな隔たりがあります。この数字から「日本では貯蓄から投資が進んでいない」、「日本の資産運用業は欧米に比べて30年近く遅れている」といわれる根拠になっています。
「雪の時代」は終わっても続いたトラウマ・ノルム
先の図表18にも示されたように、1989年をピークとしたバブル崩壊のあと、長らく続いた資産デフレと超円高の「雪の時代」において、日本国民が円で、しかも現預金で資産を保有してきたのは、自らの資産を保全する観点から合理的な行動でありました。ただし、未曾有ともいえる資産デフレや極端な円高は、既に2012年頃に転機を迎えており、その後、株価上昇、円安の流れが続きました。それであれば、リスク資産や外貨へのシフトが生じてもおかしくありませんが、過去から続いたノルムの転換には長い時間を要しました。こうした意識の転換には予想を超える時間が必要な可能性について、バブル崩壊後に定着したノルムの根強さをみる観点で、負の経験、履歴効果の一例として以下に一つの試算を紹介したいと思います。
図表20は、多くの人が就業すると考えられる22歳から、毎月一定金額を日経平均株価に投資をしたと仮定した場合の累積リターンを年齢別に示しています。過去10年余り株価上昇が続いたことから、20歳代や30歳代の世代は、マイナスをほとんど経験していません。一方、40歳代・50歳代の世代は、バブル崩壊後の長期に亘る株式市場の低迷から、就業してから半数近くの期間でマイナスの経験をしてきたことが確認されます。以上はあくまでも株価による試算ですが、現在、企業等の中核を占める40歳代・50歳代の世代中心に、長期に亘る負の経験、トラウマのような経験があったことが、その後、慎重化した企業行動の根強さの一因になっていたと考えられます。同様に、個人の資産運用においても、資産保有の大宗を占める世代が現預金を中心とした資産形成に向いていた背景にはこうしたトラウマの存在があると考えられます。こうしたノルムと化した根強い企業や家計の行動の転換には、1つの世代を形成する10年単位(decade)と、予想以上に時間を要する可能性も示唆されます。日本人の期待形成は「適合的」6な性格を持ちますが、そのノルムが定着した期間が長いだけに、その慎重化した状況からの転換にも当初の想定をはるかに超える時間を要したとの解釈もできます。市場の転換が生じた2010年代以降、10年以上が経過し、漸く、最近になって若者の世代から変化が生じてきたと考えられます。
先の図表20のなかで興味深い点は、20歳代・30歳代の若者世代と40歳代・50歳代との間には大きな断絶があることです。過去の負の経験が少ない若者世代は近年、新NISA等を活用した資産運用の拡大を牽引してきました。過去10年余りの資産運用を巡る環境がポジティブであったことで過去のトラウマが少なく、資産運用に向きやすい世代が形成されたと考えられます。同時に、若者世代は不動産への投資スタンスにもトラウマが少ない可能性があります。一方、40歳以上のトラウマが残る世代は、保有する金融資産額は多いなか、資産運用には慎重でしたが、足もとでは、政府による制度面の後押しもあって、ノルムが転換してきている可能性があります。
- 6日本人の期待形成が適合的な点については、日本銀行、2021年3月19日「より効果的で持続的な金融緩和を実施していくための点検」を参照。
「昭和モデル」から「人生100年モデル」へのシフト
日本で高齢社会が進展するなかで、戦後、長年、我々が常識・前提としてきた金融経済環境が変わることを、筆者は「昭和モデル」から「人生100年モデル7」への転換として議論してきました。第二次世界大戦直後、昭和の時代、男性の平均寿命は60歳に達しておらず、多くの企業の定年は55歳で、事実上「老後」はなく、年金も老後資金も老人医療の必要性も乏しかったのが実情です。次の図表21は戦後日本の平均寿命の推移を示します。男性の平均寿命は今や80歳を超え、老後は10年から20年以上に及びます。そうした「人生100年モデル」の環境では、従来とは別の発想で年金や医療・福祉制度の再設計が必要になります。同時に、国民一人一人において自らの老後に向けた資産形成が必要になり、金融のあり方も大きく変化し、戦後の「昭和モデル」を前提としたマネーフローにも転換が生じてきます。
次の図表22に示されるように、「昭和モデル」の時代、銀行の役割は、高い経済成長を前提に旺盛な資金需要を擁する企業に資金を仲介することでした。次の図表23は日本のISバランスの推移を示したものです。企業は一貫して資金不足主体、家計は資金余剰主体で、銀行は家計の資金余剰を預金として集め、資金不足である企業に貸出を行う形で金融仲介機能が発揮され、銀行を中心とした預金取扱金融機関がマネーフローの中心を担うインフラとして機能していました。しかし、1990年代に入ると企業セクターが資金余剰セクターに転じました。当時、それはバブル崩壊後の一時的な現象とされましたが、実際には30年以上にわたり企業の資金余剰は続きました。企業の資金需要が大きく伸びない状況は経済発展が成熟段階にある欧米でも共通の現象であり、日本の企業セクターが再び資金不足に戻ることは期待しにくいと考えられます。
以上のマネーフローの変化により、金融機関が果たす役割は、従来、期待されていた企業への資金仲介だけでなく、現役世代と老後世代といった世代間をつなぐ年金や資産運用の業務、すなわち世代間金融への役割が増すことになります。以下の図表24は現役世代中心から世代間金融へのシフトを示しています。「昭和モデル」での現役世代の中での資金フローから、「横軸シフト」として世代間をつなぐ金融に重心がシフトする状況が描かれます。そこでは、従来の銀行を中心とした、家計から預金で資金を集め企業に貸し出す商業銀行モデルから、年金や資産運用分野に金融仲介の重点がシフトする状況が示されます。
次の図表25は銀行貸出と、年金や資産運用の市場を示す金額の推移を示したものです。銀行貸出がバブル崩壊後、伸び悩む状況にある一方、年金・資産運用の残高はこの20年間で5倍以上の大幅な拡大が示されています。以上は先に示した「横軸シフト」を数量面から確認したものです。年金・資産運用残高の拡大は日本の資産運用業へのシフトを示しますが、図表25の右図にあるように、銀行貸出についても、ファンド、リース、ノンバンク向けなど、資産運用に関連した分野の伸びに支えられていることが示されます。また、銀行貸出の伸びの多くは住宅ローンも含め不動産向けが占めることもあり、今後の動向には注視する必要もあります。
次の図表26は、日米の資産運用に向けた時間軸を示す年表で、日米では30年近い格差が生じていることがわかります。米国では1970年代から年金を中心としたERISA法8、IRA9や401K10などの資産運用へのインフラや税制が確立されました。同時に米国では資産運用で成功体験が実現できる経済環境が長期にわたって続く、制度と環境要因、「車の両輪」が揃うことで資産運用に対する国民的な意識が醸成されていきました。一方、日本では、税制を中心とした制度要因の成立が30年近く遅れたこと、加えて経済環境でも成功体験が得られないなか、資産運用への意識ができにくい環境にありました。ただ、今日、漸く、日本でも制度要因と成功体験による経済環境の「車の両輪」が揃う環境が現出してきました。過去何度も資産運用の本格化が話題になりつつも持続しませんでしたが、今回は持続性に向けた条件が初めて揃ってきたと考えています。
また、「人生100年モデル」において金融機関に求められるもう一つの転換は、個々のライフプランやニーズが多様化していくなか、金融サービスの多様化にあります。次の図表27は画一的モデルから複線系モデルへの変化、すなわち「縦軸への変化」を示します。「昭和モデル」の画一的な状況では、収入が得られればすぐに預金に預けることを基本とした単線的なビジネスモデルでしたが、今や多様なライフスタイルのなか、多様なニーズに沿った金融サービスが行われ、貸出だけでなく、保険・資産運用・資産管理など広範囲に及びます。「人生100年モデル」において、金融ニーズはより多様化し、広範囲にわたるだけに、金融業務の一層拡大が期待されます。
- 7「人生100年モデル」とは、「人生100年時代」とされるように、第二次世界大戦直後とは一転し、平均寿命が延び、100歳まで生きることが当たり前になることを示します。英国のリンダ・グラットン教授が提唱し、日本でも政府主導で社会制度の見直しが進められています。
- 81974年に米国で制定された企業年金制度や福利厚生制度の設計や運営を統一的に規定する連邦法。Employee Retirement Income Security Act(従業員退職所得保障法)の頭文字をとってERISA(エリサ)と呼ばれます。受給者の保護を目的として、年金の運用状況や資金調達に関する情報の開示、受給者の不服申し立てのプロセス明確化などを年金基金に求めています。
- 9Individual Retirement Account(個人退職勘定)の略。
- 10米国における確定拠出年金制度。
日本の資産運用モデル――投資的ビジネスモデルへの転換
次の図表28は企業収益の拡大が経済全体へと巡る概念図です。マクロの観点で企業収益は大きく拡大しましたが、ミクロの面では幾つかの課題が生じていました。すなわち、企業収益の使途となる賃金や取引先への価格転嫁は、賃金や物価は上がらないと考えるノルムのもとで限定され、国内での設備投資も限られてきました。こうした状況から、賃金引き上げのための政労使会議や価格転嫁促進策等の政策的な対応が行われ、昨今、資金が家計や中小・地方企業への均霑につながり、好循環が実現することへの期待が生じています。さらに、企業の収益を国民に還元する流れの一つに資産運用が加わり、インベストメント・チェーンがつながることも重要です。こうした動きは、先に示した図表22の右側、銀行のリスク転換機能の変化にも表れます。すなわち、ファンドやノンバンク等を通じた複線系の金融仲介の広がりも特徴になっています。さらに、ディスインターミィディエーションとして銀行以外を通じることで生じる金融資産、預金以外の金融商品への拡大も展望されます。
日本の資産運用モデルの転換は、日本全体としても示されます。次の図表29は日本の経常収支の推移です。日本の経常収支はもはや貿易収支が中心ではなく、これまで海外に投資を行った果実である第一次所得収支が中心です。図表30で日本のマネーフローを振り返ってみましょう。2000年代前半まで、日本は株式を中心に海外から資金が流入し、日本は海外に債券で投資を行ってきました。ここで、債券と株式の収益性を比較すれば一般的に株式のほうが高いので、日本は株式で調達をして債券投資を行うことでマイナス・リターンの状況にありました。一方、2000年代後半からは、日本は債券で資金調達を行い、直接投資中心のフローに転換しています。すなわち、日本全体のマクロ的ビジネスモデルは債券で調達し、実物投資を行うことで第一次所得収支中心のリターンを獲得する投資モデルに国全体として変化を遂げました。海外からの投資リターンの多くが海外に再投資され、国内の投資機会に結び付いていない部分について課題は残りますが、日本全体として投資的なビジネスモデルに転じてきています。
近年、日本の総合商社に対し、米国の有力投資家が高い評価をして株式の購入をしたことが話題になりました。総合商社は従来の商圏を活かしつつ、投資的なビジネスモデルに転じたことに対し、日本の新たなビジネスモデルの在り方として海外投資家から改めて評価されたと考えられます。
以上の企業と家計の資金フローの転換は、銀行中心の預貸による資金仲介から銀行以外の金融仲介も含めた投資的な資金フローへの動きを意味します。以上のミクロ面に加え、日本全体も先に示した貿易中心のモデルから投資的ビジネスモデルに転じています。企業も家計もバブル崩壊後の縮小均衡的な動きが続きましたが、漸くトラウマを超えて投資的な視点から企業が支出を行い、家計も資産運用に向けた第一歩を踏み出すに至っています。
マネーフローの転換がもたらす新たな世界
今日の課題は、以上の動きを持続的なものとできるかにあります。そのインフラとしての金融経済教育を歴史的に遡れば、貯蓄の重要性について広く国民の理解を深めることを通じて、個人生活の基礎をつくり、その主体性と健全性を養うとともに、物価の安定やわが国経済の持続的成長などを確保する目的で、戦後、1952年には貯蓄増強中央委員会が設立されスタートしました。その後、1988年に貯蓄広報中央委員会、2001年に金融広報中央委員会に改称された後、2024年には、その機能が前掲図表17のJ-FLECに移管・承継され、家計の資産運用のみならず、家計管理、生活設計、外部知見の活用をサポートする活動まで幅広い金融経済教育を担っています。
また、マネーフローの変化は日本銀行の金融政策の波及経路にも影響を与えます。日本銀行の金融政策は長年、銀行を中心とした資金フローを背景として金融政策を行ってきました。今日、銀行以外や海外を経由した資金フローも拡大するなかで、日本銀行が金融政策のメッセージを市場に向けて幅広く伝える方法にも工夫が必要と考えています。金融政策の波及効果に関しては、金利低下を通じて需給ギャップを改善させる、銀行中心に預貸を通じた伝統的金融仲介ルートに加え、金融資本市場(株価・為替)を通じた経路も大きな影響を与えていたことが示されています11。日本銀行の金融緩和が、市場に働きかけることでバブル崩壊後の企業行動の変化を招いた要因である資産デフレや円高も含め、いわゆる「六重苦」12からの転換に貢献した可能性が示唆されます。私としては、日本銀行が長年にわたって粘り強い緩和姿勢を続け、金融資本市場にも働きかけて資産価格の改善や極端な円高からの反転を支えたことが、バブル崩壊からの歴史的な変化となるノルム転換の変曲点を迎える「下地」となったと捉えています。そうした素地があったからこそ、先述のように、海外発の「ビッグ・プッシュ」が日本のノルムを解くファイナル・ブローになったと考えられます。同時に家計の資産運用にも変化をもたらし、現預金中心から資産運用に向けた動きがみられています。
今日、生じている変化とは、「昭和モデル」から「人生100年モデル」への転換ですが、バブル崩壊後の長い「雪のトンネル」を抜け出しただけに、そこから解き放たれた姿は、単純にバブル崩壊前の「昭和モデル」への回帰ではありません。金融仲介も銀行中心の資金仲介モデルから複線系の仲介モデルになるものです。以上の変化をまとめたのが次の図表31となります。
「昭和モデル」において、企業の旺盛な資金需要に対し、家計は預金を通して資金を供給し、銀行はそのフローを支える金融インフラとして機能しました。その後、バブル崩壊での「雪の時代」には、銀行は貸出の抑制を通じた信用収縮、企業は縮小均衡に陥り、家計は現預金に回帰してデフレ環境が続きました。その「雪の世界」を脱することは、元の「昭和モデル」に戻ることではありません。バブル崩壊後30年の構造変化を経て生じた「人生100年モデル」として銀行に加えた複線系の金融仲介が登場し投資ビジネスモデル化し、企業も投資家的姿勢をとり、家計も預金以外の金融商品を保有するモデルに転じることを意味します。
日本銀行は、2000年代以降、長年にわたって粘り強い緩和姿勢の継続により、縮小均衡に至った企業行動や家計行動からの正常化を支援してきました。その結果、企業行動も漸く前向きな動きに加え、家計行動でも資産運用に向けた動きが確認されてきました。バブル崩壊後のノルムから脱すべく、企業収益の拡大が価格転嫁や賃金の引き上げにつながること、家計に対しては、幅広い資産運用への流れが期待されています。
前掲図表12は、企業の収益とその還元を示しています。昨今、企業は大幅に収益を伸ばし、配当を大幅に拡大していますが、同じく図表12右側に示されるように労働分配率は低下し、国内での賃金や投資の還元は限られています。銀行中心の資金フローでの利払いを通じた還元が低水準に止まるだけに、家計が企業の収益拡大の果実を得るには、企業の収益の分配を企業から直接得る観点からも、前掲図表28に示されたインベストメント・チェーンを通じて配当や企業価値の向上も含め資産運用に向けた姿勢も重要になります。
こうした複線系の金融仲介は、今日、世界的にもNBFI(Non-Bank Financial Intermediation)として、そのプレゼンスの拡大からモニタリングを行ううえで各国の金融規制上も重要な論点になっています。日本は銀行を通じた信用仲介の比重が高い分、欧米と比べてNBFIの比重は低いとも考えられますが、「人生100年時代」への転換に向けて、さらに、複線系の金融仲介に向かう上でも、より重要性を増していくと考えられます。
- 11詳しくは、日本銀行、2021年3月19日「より効果的で持続的な金融緩和を実施していくための点検」を参照。
- 12企業が直面した「六重苦」として、円高、経済連携協定の遅れ、法人税率の高さ、労働市場の硬直性、環境規制、電力コスト高が指摘されました。詳細は、「令和3年度 年次経済財政報告―レジリエントな日本経済へ:強さと柔軟性を持つ経済社会に向けた変革の加速―」等を参照。
「通商摩擦対応先進国」、「高齢社会対応先進国」
今日、日本では今年4月の相互関税賦課を「国難」として受け止める状況にありますが、日本は、現在を大幅に上回るストレス状況を長年にわたり耐え抜いてきた「通商摩擦対応先進国」でもあります。企業の財務内容の改善やグローバルな展開など、過去とは異なるポジションにあると受け止める必要があります。一方、日本自体がマクロ面でグローバルな投資家的なビジネスモデルに転じている以上、経済安全保障面も含め、海外経済・金融の変動に対応していく必要もあります。いまや、企業、金融機関や家計も常にグローバルな市場に晒されているという認識が必要です。
同時に、家計の「人生100年モデル」とは事実上、少子高齢化という日本の最も深刻な構造問題を意味しています。世代間金融や複線系モデルへのシフトは、高齢化社会を前提としたもので、日本は「高齢社会対応先進国」でもあります。企業が直接投資を通じグローバルに展開してきたのも、日本の少子高齢化の制約や、その結果、国内の需要だけに依存できない状況から脱するためのものでもありました。国民が大挙して海外に移住することが現実的ではないなか、日本国民が日本企業から受け取る果実は企業への投資による資産運用による面も大きいと考えられます。すなわち、資産運用を通じた市場化・グローバル化が家計にも求められており、以上の観点からも資産運用のインフラとしての金融経済教育を担うJ-FLECの活動は、今日の時代の流れに沿ったものとして期待されます。
私としては、金融政策運営については、今こそ「真の夜明け」が視野に入ったとの基本的認識を持ったうえで、これからも段階的にギアシフトを行っていく途上にあると考えています。その背景には企業の行動が前向きに転じただけでなく、家計の金融行動もノルムを脱し変化してきたことがあります。同時に、「人生100年モデル」に象徴されるグローバル化や複線化、グローバルな市場連動も進むだけに、J-FLECなどの活動を通じて金融経済教育の知見を世の中に広め、内外の状況を注視しつつ機動的な対応が必要と考えております。
5.おわりに
最後になりましたが、中国地方経済の発展とそれを支えておられる皆様の今後のご健勝とご活躍を祈念いたしまして、私の講演を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。