【講演】 金融市場の頑健性向上とさらなる発展に向けて:2つの「移行」と日本銀行の取り組み ISDA第38回年次総会における講演の邦訳
日本銀行理事 清水 誠一
2024年4月18日
1.はじめに
本日は、東京での国際スワップ・デリバティブズ協会(ISDA)年次総会でお話しする機会を頂きまして、誠に光栄に思います。
ISDAは、拡大するデリバティブ市場における取引標準化ニーズの高まりを背景に1985年に設立され、以来、デリバティブ市場の安全性と効率性の確保、デリバティブ利用者の効果的なリスク管理の支援に尽力されてきました。こうした取り組みに敬意を表するとともに、様々な形で日本銀行の業務運営にご協力を頂いているISDAジャパンの皆様にも改めてお礼を申し上げます。
ISDAが設立されてからの約40年間に、金融市場は大きく姿を変えてきました。この間、金融市場は、金融の自由化、国際化の進展、ICTを含む金融の技術革新などを背景に、価格発見機能を高め、経済活動を支える役割を急速に拡大してきました。もっとも、金融取引の複雑化が進んだにも関わらず、これに見合ったリスク管理体制の整備が追い付かなかったことで、金融システムの脆弱性が高まり、2008年の国際金融危機をはじめ何度かの金融危機として顕在化しました。
こうした経験を踏まえ、金融市場の頑健性を高めるために、金融規制の強化やリスク管理の高度化といった形で、公的部門・民間部門の双方が大きなリソースを割いてきました。LIBOR移行対応を中心とする金利指標改革もこうした文脈の1つに位置付けられ、昨年6月末の米ドルLIBOR公表停止という節目を大きな混乱なく通過するなど、金利指標の頑健性向上に向けた対応は着実に進捗しています。こうしたなか、近年では、金融市場の役割を広げる取り組みが加速する様子も窺われます。代表例の1つが気候変動ファイナンス、すなわち、温室効果ガス排出量ネットゼロ社会への移行を支える金融市場の取り組みです。様々なイニシアチブが創設されるもとで、非常に速いスピードで市場整備が進み、市場規模も大きく拡大しています。
本日は、金融市場の頑健性向上やさらなる発展に向けた取り組みを、LIBOR移行とネットゼロ社会への移行という2つの「移行」をテーマにお話ししたいと思います。その中で、日本銀行の取り組みについてもご紹介したいと思います。
2.LIBORからの移行:金利指標改革
最初に、金融市場の頑健性向上に向けた取り組みとして、LIBOR移行対応を中心とする金利指標改革についてお話しします。
金利指標は、主要な短期金融市場の金利の指標となるものであり、これらの市場における効率的な価格発見を支えるとともに、短期金融市場以外も含めた幅広い金融取引において金利を定める際の基準金利として参照されるという重要な役割を持っています。LIBORは代表的な金利指標でしたが、不正操作問題によってその信頼性に疑問が呈され、代わりとなる金利指標の選定や移行方法の検討が国際的に進められることになりました。
まず、金利指標が満たすべき性質について、証券監督者国際機構(IOSCO)が2013年に報告書を公表しました。同報告書は、不正操作に関連する脆弱性として利益相反を挙げるとともに、専門家判断という算出プロセスがこれを増幅したと指摘しました。こうした問題に対処するために、ガバナンスを強化することに加え、専門家判断に頼らず可能な限り実取引に基づいた算出を行うことが望ましいとして、19の原則を示しました。
代替指標の選定や移行については、金融安定理事会(FSB)が2014年の報告書で、既存の銀行間取引金利の改革とリスク・フリー・レートの選定を推奨するとともに、各法域の実情や取引の性質に応じて、これらを使い分けるマルチプル・レート・アプローチを提唱しました。例えば、銀行の調達金利に連動させることが適した取引もあるとしつつ、そうしたニーズが必ずしも大きくないデリバティブ取引については、リスク・フリー・レートへの移行が望ましいと指摘しました。
日本円における金利指標改革は、この提言に沿って進められました。リスク・フリー・レートとして無担保コールO/N物レートであるTONAが選定され、TIBORは改革により頑健性を増し、ターム物リスク・フリー・レートとしてTORFが新たに構築されました。LIBOR公表停止に伴う移行対応は、これらが代替指標となる形で進められ、特に、移行前はLIBORの利用が大部分だった金利スワップは、現在、殆どがリスク・フリー・レートであるTONAベースとなっています。
LIBORからの円滑な移行は、その広範な利用ゆえに、金融部門、非金融部門を含む幅広い主体にとって重要な課題でした。問題の把握、望ましい状況の検討、現実的な移行計画・手段の策定、進捗状況の把握と共有が、国際的に行われたことが円滑な移行に寄与したと思います。この点、LIBOR参照契約の多くの部分を占めたデリバティブ取引の円滑な移行を実現するうえで、フォールバック条項の整備をはじめとするISDAの取り組みの役割が大きかったことを付言したいと思います。加えて、日本では、市場参加者を中心に、その時々の課題を議論する会議体を設置し、市中協議を行いながら、丁寧に課題の特定、関係者の意見調整や方針の提示を行ってきたことが円滑な移行にとって重要でした。日本銀行は、これら会議体の事務局を務める形で市場参加者の取り組みを支援しました。このような形で関与したのは、国際決済銀行(BIS)が2013年の報告書で指摘したとおり、中央銀行にとって、金融政策運営や金融システムの安定といった責務との関係で、金利指標改革が重大な関心事であったためです。
LIBOR移行対応は、昨年6月末の米ドルLIBOR公表停止を大きな混乱なく通過したことで概ね完了したと言えます。もっとも、金利指標を巡る課題は残っています。まずはLIBORに代わる各種の金利指標の安定的な利用と定着が何よりも重要です。また、TIBORの関連では、取引が大きく減少したオフショア市場の金利を参照するユーロ円TIBORが、IOSCO原則遵守に向けた取り組みの一環として、本年末で公表停止となることが決まっており、移行対応が進められています。日本銀行としても、引き続き、市場参加者における金利指標の適切な選択と利用を後押しして参りたいと考えています。
3.ネットゼロ社会への移行:気候変動ファイナンス
次に、金融市場のさらなる発展に向けた取り組みとして、排出量ネットゼロ社会への移行を支える、気候変動ファイナンスについてお話しします。
気候変動問題の難しさは、温室効果ガス排出にかかる「外部性」に起因する点にあり、その「内部化」を通じて市場メカニズムを活用し、温室効果ガスの排出抑制に繋げていくことが必要です。したがって、ネットゼロ社会への円滑な移行を実現するためには、気候関連リスク・機会が、情報の非対称性の解消などを通じた価格発見機能の発揮によって、市場価格に織り込まれることがカギとなります。こうした考え方に基づき、金融市場では様々なアプローチで取り組みが進められています。
まず、財務情報開示の枠組みを活用した気候変動関連開示です。これまでTCFDの提言に沿った任意開示がこの分野の発展に大きな役割を果たしてきました。その重要性が浸透するもとで、国際的な議論を踏まえてISSB基準が最終化されたほか、国内外ともに、法定開示が求められるようになる見通しであるなど、開示は新たなフェーズに入りつつあります。
次に、気候変動対応に焦点を当てた金融商品や市場の拡大です。グリーン・ボンドなどのESG債の発行残高は、この10年間で国内外ともに大幅に増加しています。カーボン・クレジット市場も国際的に拡大しており、日本でも昨年10月に東京証券取引所で取引が開始されました。デリバティブ市場も、国際的にみればESG関連株価指数や排出権関連の先物などで広がりがみられており、リスク管理や価格発見機能の発揮などの観点から期待は高まっています。
また、温室効果ガス排出量削減に向けた、実体経済面での議論の進展に合わせて、気候変動ファイナンスにおいても様々な対応が進んでいます。例えば、現実的な移行計画の検討が重要性を増す中で、これに適した気候変動ファイナンスとしてトランジション・ファイナンスの議論が活発化しています。2月には、世界初となるクライメート・トランジション国債を日本政府が発行するなど、官民での取り組みが続けられています。
こうしたもとで、日本銀行は、金融市場の気候変動対応を支援する取り組みを中央銀行の立場から行っています。まず、金融機関の気候変動対応投融資見合いで資金供給を行う気候変動対応オペにより、金融機関の気候変動対応を後押ししています。過去2年半で5回の資金供給を行っており、利用残高は約8.2兆円(550億ドル)に達しています。また、気候変動関連の市場機能のサーベイを通じた、進捗状況や課題の年次調査も行っています。現在3回目の調査中であり、トランジション・ファイナンスなど最近の動きにも焦点を当てつつ、市場価格への気候変動要素の織り込み状況やESG債市場の動向などの定点観測を続けています。発行体・投資家双方を対象に定点観測を続ける調査は国際的にみてもあまり類例がなく、気候変動ファイナンスの発展に活用されることを期待しています。進捗状況の把握と関係者における共有が、円滑な対応のために重要であることは、LIBOR移行の経験からも示唆されるところです。
ネットゼロ社会への円滑な移行は、日本銀行の物価の安定、金融システムの安定という使命の達成にも重要です。引き続き、関係者の取り組みを後押ししていきたいと思います。
4.おわりに
最後に、最近の金融情勢のもとでの新たな課題に触れたいと思います。日本銀行は、先月の金融政策決定会合で、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」の枠組みやマイナス金利政策の終了を含め、金融政策の枠組みを見直しました。金融市場がこうした環境変化に円滑に適応し、市場機能がしっかりと発揮されることが重要だと考えており、市場参加者との対話などを通じて、市場の状況を把握し、機能度向上に向けた取り組みを支援していきたいと思います。こうした点も含め、金融市場の頑健性の向上とさらなる発展に向けて、中央銀行の立場から、引き続き貢献して参りたいと考えています。
ご清聴ありがとうございました。