【講演】金融市場の頑健性向上と日本銀行の役割
ISDA第31回年次総会における講演の邦訳
日本銀行理事 雨宮 正佳
2016年4月14日
目次
1.はじめに
本日は、第31回となる国際スワップ・デリバティブズ協会(ISDA)年次総会でお話しする機会をいただき、誠に光栄に思います。
ISDAは、1985年の設立以来、デリバティブ取引に関する業態横断的な唯一の国際業界団体として、デリバティブ市場の安全性と効率性の向上に向けた様々な取り組みを進めてきており、心から敬意を表したいと思います。また、日頃より日本銀行のスタッフとの意見交換を通じ、様々なご示唆を頂いているISDAジャパンの皆様にも、改めて感謝の意を表明いたします。
本日は、「金融市場の頑健性向上と日本銀行の役割」というテーマでお話しさせていただきますが、先ずは中央銀行とデリバティブ市場との関係から始めたいと思います。
中央銀行が、デリバティブ市場の拡大に伴うマクロ経済と金融政策上の論点を初めて採り上げたのは、1994年のBIS(国際決済銀行)報告書1にまで遡ります。同報告書ではデリバティブを「金融市場の効率性を高め、通常の環境の下では、原資産市場を安定化させる効果を持つ」ものであり、中央銀行に対して「金融政策運営上の追加的な情報をもたらす」と評価しています。
こうした認識のもと、関係者は、デリバティブ市場の健全な発展のために、その取引実態を明らかにする努力を重ねてきています。BISは1998年から、当時日本銀行の国際局参事であった吉国を議長とするワーキング・グループの提言2に基づき、「デリバティブ取引に関する定例市場報告」の公表を開始しました。透明性向上の流れは、リーマン・ブラザーズ証券の破綻を契機とした国際金融危機の経験を経て、取引情報報告や清算集中の義務付けといった店頭デリバティブ市場の改革に繋がっています。各種施策の具体化に当たり、ISDAから多大かつ前向きな貢献をいただいているのは、皆様ご承知の通りです。
さて、現在、デリバティブ市場に限らず、各国の金融市場は、各種金融規制の導入や非伝統的な金融政策の遂行といった変化に直面しています。こうした環境変化に対応し、各種規制の目的であり、金融政策の円滑な運営にも資する健全な市場発展を実現していくためには、公的セクターも含めた市場の関係者がしっかりと協調し、市場の頑健性向上に取り組む必要性が益々高まっています。
- Bank for International Settlements(1994), "Macroeconomic and Monetary Policy Issues Raised by the Growth of Derivatives Markets," CGFS Publications No 4. 報告書は以下から入手可能(http://www.bis.org/publ/ecsc04.pdf)。
- Bank for International Settlements(1996), "Proposals for improving global derivatives market statistics," CGFS Publications No 6. 報告書は以下から入手可能(http://www.bis.org/publ/ecsc06.pdf)。
2.金融市場の頑健性
金融市場の「頑健性」という言葉には、必ずしも特定の定義がある訳ではありません。ここでは、「市場機能が持続性のある形で十全に発揮される」ような状態――市場流動性が十分に確保され、様々なストレスに対する強靭性を備えている状態――を頑健と呼ぶこととします。
金融市場の頑健性を高めるためには、3つの側面、すなわち第一に市場の不確実性の低減に資する工夫やイノベーション、第二に市場の秩序を維持し、取引の安全性や効率性を確保するうえで欠かせない市場慣行、そして第三に物理的なストレスを伴う危機に際しても市場の混乱を最小限に止める備えが重要となります。こうした取り組みについて、少し詳しくみてみましょう。
1点目は「不確実性の低減」です。本来、市場には様々な不確実性があります。もちろん、その多くは収益機会と表裏一体のリスクであり、市場参加者が自ら管理すべきものです。しかし、市場全体として、市場参加者が本来取りたくないリスクを削減したり、リスクの管理を効率化できる工夫があれば、市場の不確実性は低減し頑健性が向上します。例えば、ISDAマスター契約書はデリバティブのリーガルリスクを効果的に削減しましたし、ISDAによる店頭デリバティブの標準的な当初証拠金算出モデルの策定といった取り組みは、リスク管理の標準化・効率化に大きく貢献するものです。
2点目は「市場慣行の整備」です。市場慣行とは、市場取引に関わる概念や取引ルールについて市場参加者の共通理解を形成する取り決めです。市場の秩序を維持し、市場取引の安全性と効率性を確保するためには、適切な市場慣行の存在が不可欠です。市場慣行の策定は、実務への精通や市場構造の特性への理解が必要な、大変な作業です。しかし、新たな市場取引の黎明期には市場慣行の制定が決定的に重要であるほか、その後の環境変化に適応するためには市場慣行の見直しも必要です。実際、ISDAの定義集は幾度か版を重ねつつ、デリバティブ市場の安定的な発展を支えてきました。
3点目は「危機への対応」です。金融市場は、金融システムの外部に原因がある危機に対しても強靭であることが必要です。事実、発生の確率は低いかもしれませんが甚大な影響を及ぼす災害等――2001年の米国同時多発テロ事件や2011年の東日本大震災、2012年のハリケーン・サンディ等――が実際にも発生しています。ISDAマスター契約書は、2002年版から災害やテロ等の不可抗力を事由とする期限前解約権と解約手続を新設し、非常時にも市場機能が無秩序に停止することのないような枠組みを整備しました。このほか、市場取引が益々グローバル化する中、特に主要な市場では、自然災害の頻発等の地域特性も踏まえた市場機能の耐性強化といった取り組みもまた重要ではないでしょうか。
以下では、こうした3つの側面、すなわち「不確実性の低減」、「市場慣行の整備」、「危機への対応」について、現在、わが国の市場参加者が取り組んでいる具体的な事例と日本銀行の関わり方をご紹介します。
3.わが国の取り組み
不確実性の低減 ― リスク・フリー・レートの特定
最初に取り上げるのは、現在、金利指標改革の一環として進められている、リスク・フリー・レートの特定に係る取り組みです。
金利指標については、LIBOR(ロンドン銀行間取引金利)の不正操作問題などを背景にその信頼性に揺らぎが生じたことから、2012年央から、BISやIOSCO(証券監督者国際機構)といった国際的なフォーラムにおいて、その改革に向けた議論が行われてきました。それらの議論の成果として、BISからは、現在の日本銀行副総裁で当時は理事であった中曽を議長とするワーキング・グループが、金利指標の望ましい姿についての報告書3を2013年3月に公表しました。また、2014年7月には、FSB(金融安定理事会)が、主要な金利指標の改革についての報告書4を公表しました。同報告書の作成に当たっては、ISDAに副議長を務めていただいた民間市場参加者グループの貢献も大きなものでした。
さて、いずれの報告書におきましても、金利指標の信頼性を向上させるためには、LIBOR等の既存指標を改善するだけではなく、金利指標の選択肢を拡充することが重要であると指摘しています。そして現在、こうした方向性で主要国・地域の市場では、IBOR(銀行間取引金利)と呼ばれるLIBOR、EURIBOR(欧州銀行間取引金利)、TIBOR(東京銀行間取引金利)の改善に取り組んでいるほか、リスク・フリー・レートの導入に向けた検討も行っています。
IBORの改善は、可能な限り実取引に基づく透明性の高い算出プロセスを導入することで指標の信頼性を高めることが狙いです。一方、新たにリスク・フリー・レートを特定するという取り組みは、それとは異なる観点から、市場の不確実性の低減に寄与することが期待されています。
この点を敷衍しますと、リスク・フリー・レートとは、銀行など報告金融機関の資金調達コストを反映するIBORとは異なり、その名の通り取引主体の信用リスクを殆ど含まないレートです。つまり、両者は報告金融機関の信用リスクの動向により異なる動きをする可能性があります。こうした性質の異なる金利指標が存在することの利点は、市場参加者が取引の特性に応じて指標を使い分けることが出来る点です。例えば、IBORに連動するキャッシュフローのヘッジ取引にはIBORを活用する一方、金融機関の信用リスクには直接の関係がない金利リスクのヘッジ取引にはリスク・フリー・レートを活用することが合理的と考えられます。新たにリスク・フリー・レートを特定するという取り組みは、取引の目的に合わない金利指標を使うことに伴い発生する、金利差の変動リスク――いわゆるベーシス・リスク――を削減できる選択肢を市場参加者に提供するという意味で、市場の頑健性向上に資するものです。
わが国では、2015年4月に市場参加者が設立した「リスク・フリー・レートに関する勉強会」において、日本円のリスク・フリー・レートの特定と利用に向けた議論が行われてきています。主要メンバーであるISDAジャパンにも大変なご協力をいただきながら、本年3月31日には、それまでの検討結果を踏まえ、市中協議5を公表したところです。市中協議においては、日本円のリスク・フリー・レートとして、無担保コールレート・翌日物を優先的な候補として位置付けています。また、リスク・フリー・レートの利用を促す観点から、現在、IBORを用いて行われている円金利スワップ取引のうち、リスク・フリー・レートの利用を想定しうる取引のシェアを推計する試みや、無担保コールレート・翌日物を参照金利とするOIS(翌日物金利スワップ)取引の活性化策も盛り込んでいます。
リスク・フリー・レートの利用は、「ベーシス・リスクの削減」という合理的な目的に資するものです。しかし、慣れ親しんだLIBORに加えて、実際にリスク・フリー・レートも利用していくためには、幅広い市場参加者がその目的を共有し、気運を高めていくことが重要です。日本銀行は、同勉強会の事務局を務め、各種の分析作業等に協力してきていますが、今後とも、こうした市場参加者の取り組みには積極的に関与していきます。
- 3 Bank for International Settlements(2013), "Towards better reference rate practices: a central bank perspective," 報告書は以下から入手可能(https://www.bis.org/publ/othp19.pdf)。
- 4 Financial Stability Board(2014), "Reforming Major Interest Rate Benchmarks," 報告書は以下から入手可能(http://www.fsb.org/wp-content/uploads/r_140722.pdf)。
- 5 報告書は以下から入手可能(http://www.boj.or.jp/paym/market/sg/rfr1603c.pdf [PDF 771KB])。
市場慣行の整備 ― 国債決済期間の短縮化とレポ市場の整備
次に取り上げるのは、国債決済期間の短縮化とレポ市場の整備です。
わが国では、市場参加者が、2018年度上期を目標に、国債アウトライト取引の約定から決済までの期間を2日(T+2)から1日(T+1)に短縮する取り組みを進めています。これは、リーマン・ショック時の国債市場における決済不履行やこれに伴うフェイル急増の経験も踏まえた、未決済残高の圧縮を通じて決済リスクを削減するというグローバルな取り組みの一環です。
ただし、国債のT+1決済を実現するためには、国債のアウトライト取引等の結果として生じる資金や債券の過不足の調整に用いられるGC(非特定銘柄)レポ取引について、即日(T+0)決済を行うことが必要となります。これは、わが国では新たな即日資金取引市場の創設を意味しています。
こうした取り組みは、市場インフラや市場参加者のシステム変更だけで対応できるものではありません。取引の契約書や照合・清算の方法、会計処理といった市場慣行の大幅な見直しを伴うものです。市場慣行の見直しがしっかり行われないと、却って混乱を招き、市場の頑健性が失われる可能性があります。このため市場参加者は、早くも2009年に証券業の業界団体である日本証券業協会にワーキング・グループを設置し、それ以降、ビジネスモデルの違いを超えて綿密な議論を継続してきています。
さて、以上ご紹介したのはわが国の取り組みですが、国際的には、レポ市場に関する頑健性向上の議論も進んでいます。昨年11月に公表されたFSB報告書6によれば、最低ヘアカット規制の導入や取引データの収集は、国債決済期間の短縮化と同じ2018年中に開始される予定となりました。わが国のレポ市場は「改革」と呼ぶに相応しい転換期を迎えており、公的セクターを含めた関係者には、一段と計画的・精力的な取り組みが求められています。
日本銀行は、レポ市場の主要な参加者や市場インフラ主体、業界団体、金融庁を招いたフォーラムをこれまで2度開催し、国債決済期間の短縮化やレポ市場「改革」に向けた意見交換の場を提供するなどして、市場参加者の取り組みを支援してきています。また、こうした意見交換なども踏まえて、日本銀行は、FSBの勧告を踏まえたレポ市場データの収集について、データの収集主体として貢献していく方向で準備を開始しています。
- 6 Financial Stability Board(2015), "Standards and Processes for Global Securities Financing Data Collection and Aggregation," 報告書は以下から入手可能(http://www.fsb.org/wp-content/uploads/FSB-Standards-for-Global-Securities-Financing-Data-Collection.pdf)。
危機への対応 ― 市場レベルでの業務継続体制の強化
最後に取り上げるのは、市場レベルでの業務継続体制の強化です。
マグニチュード6.0以上の地震は、世界の約2割が日本で発生している7とも言われ、個々の市場参加者は早くから被災時対応を構築してきました。しかし、危機の発生時に市場機能の中断を極力防ぎ、また中断が生じた際にも速やかかつ円滑な再開を図るためには、各々の市場参加者の取り組みだけでは十分ではありません。取引相手や市場インフラの被災状況を把握し、必要があれば市場慣行の臨時変更などを協議できるよう、市場参加者のネットワークを維持する必要があります。
こうした認識から、2006年に短期金融市場、2008年には外国為替市場と証券市場において、市場レベルでの業務継続を担う事務局が設置されました。その後、いずれの市場においても、災害等の発生時には、市場参加者や市場インフラ、公的セクターが、専用ウェブサイトを通じてコミュニケーションを継続できる体制が整備されています。また、2010年からは、3市場合同の定期訓練も開始していますが、被災シナリオの一部をブラインドにしたり、バックアップ拠点からの取引を実践するといった工夫を通じて、訓練の実効性を高めてきているところです。
2011年3月11日14時46分に東日本大震災が発生し、東京でも極めて強い揺れが観測されました。しかし驚くべきことに、その僅か15分後には、市場参加者は専用ウェブサイトを通じた情報共有を開始していました。この時は既に市場取引の大半の決済が終了していたため市場慣行の変更などは行われませんでしたが、これまでの体制整備がしっかりと機能することを確認出来た事例でした。
日本銀行は、2003年に短期金融市場、外国為替市場および証券市場の代表者が市場横断的に業務継続体制の意見交換を行うフォーラムを開催して以降、市場レベルの業務継続体制について市場参加者との対話を行ってきています。また、自らの業務継続体制を不断に整備するとともに、日銀ネットの運営主体として3市場合同訓練に直接参加しているほか、訓練に合わせて訓練目的の資金供給オペレーションを実行するなどの協力を通じて、市場レベルの業務継続体制の実効性の向上に貢献してきています。
- 7 2003〜2013年の間にマグニチュード6.0以上の地震は世界全体で1,758回発生しており、そのうち日本は326回(18.5%)発生(平成26年版防災白書(内閣府)附属資料1)。
4.おわりに
以上、ご紹介した3つの取り組みは、それぞれ対応の時間軸もグローバルな協調のあり方も様々ですが、いずれも、市場の頑健性を向上させるという意味では共通のものです。こうした金融市場の頑健性向上について、私の思うところを最後に3点、申し述べたいと思います。
1点目は、民間セクターの積極的な取り組みの重要性です。金融市場の頑健性を向上させるためには、公的セクターと民間セクターが健全な市場発展という同じ目標を持って協働することが欠かせません。たとえば、公的セクターによる規制や勧告の策定・実施といったプロセスに市場参加者が協力することもあれば、民間セクターの取り組みを公的セクターがサポートすることもあります。いずれの場合でも、実効的な施策を実現していくうえでは、市場の実務やイノベーションに関する専門知識を踏まえた民間セクターの積極的な取り組みが重要であるという点を強調しておきたいと思います。
2点目は、中央銀行の役割です。金融市場は、中央銀行による金融政策の遂行の場であると同時に、経済金融情勢に係る市場参加者の見方について重要な情報を提供する役割を果たしています。このため中央銀行としても、市場の頑健性向上には強いインセンティブを有しています。また、中央銀行の中立性や公平性といった特性は、市場の頑健性向上に向けた市場参加者の協調に、好ましい影響を与えることも期待できるように思います。日本銀行としては、こうした観点から、引き続き市場参加者の取り組みに貢献していきます。デリバティブ市場に関しては、ISDAとの協力は益々重要になっていくでしょう。
3点目は、金融市場の頑健性の向上は、環境変化にも応じた不断の取り組みであるということです。例えば、本年1月29日、日本銀行はマイナス金利付き量的・質的金融緩和の導入を決定しました。マイナス金利政策は、わが国では初めての経験であり、わが国の金融市場に与える影響は、なお丁寧に見定めていく必要があります。その際には、市場がこうした環境変化に適応し、その機能が適切に発揮されるよう、市場全体として取り組むべき工夫はないかといった視点も重要です。日本銀行も、市場の頑健性の向上に資する市場参加者の議論を積極的に支援していきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。