佐々木義武
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佐々木 義武 ささき よしたけ | |
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生年月日 | 1909年 4月3日 |
出生地 | 日本の旗 日本 秋田県 河辺郡 河辺町 |
没年月日 | (1986年12月13日) 1986年 12月13日(77歳没) |
死没地 | 日本の旗 日本 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学経済学部卒業 |
前職 | 国家公務員(科学技術庁) |
所属政党 | 自由民主党 |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年 11月9日 - 1980年 7月17日 |
内閣 | 三木内閣 |
在任期間 | 1974年 12月9日 - 1976年 9月16日 |
選挙区 | 旧秋田1区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1960年 11月20日 - 1986年 6月2日 |
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佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年 4月3日 - 1986年 12月13日)は日本の政治家、官僚。科学技術庁長官・通商産業大臣。
来歴・人物
[編集 ]秋田県 河辺郡 河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年 東京帝国大学 経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳、農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた[1] 。以後企画院、大東亜省、内閣調査局にて調査官を歴任した。
戦後の1947年、経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。その後経済審議庁計画部長、科学技術庁原子力局長を務め、1960年の第29回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧秋田1区から立候補し当選する。以後当選9回。宏池会に所属。厚生政務次官等を経て、1974年 三木内閣にて科学技術庁長官、1979年 第2次大平内閣にて通産大臣として入閣する。1986年政界を引退。その地盤は、二田孝治に引き継がれた。
自民党随一の資源・エネルギー問題の専門家で、電力・ガス・石油業界の信頼が厚かった。1985年 勲一等旭日大綬章受章。1986年12月13日肝硬変により死去。享年77。元上小阿仁村村長小林宏晨は娘婿である。
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ 『大平正芳』38・42頁。
参考文献
[編集 ]- 福永文夫『大平正芳...「戦後保守」とは何か』(初版)中央公論新社〈中公新書〉、2008年。ISBN 9784121019769。
議会 | ||
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先代 仮谷忠男 |
日本の旗 衆議院農林水産委員長 1972年 - 1973年 |
次代 仮谷忠男 |
公職 | ||
先代 江﨑真澄 |
日本の旗 通商産業大臣 第38代:1979年 - 1980年 |
次代 田中六助 |
先代 足立篤郎 |
日本の旗 科学技術庁長官 第29代:1974年 - 1976年 |
次代 前田正男 |
先代 足立篤郎 |
日本の旗 総理府原子力委員会委員長 第29代:1974年 - 1976年 |
次代 前田正男 |
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通商産業大臣 | |
---|---|
経済産業大臣 |
再編前 | |
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再編後 | |
省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 |
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