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佐々木義武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々木 義武
ささき よしたけ
生年月日 1909年 4月3日
出生地 日本の旗 日本 秋田県 河辺郡 河辺町
没年月日 (1986年12月13日) 1986年 12月13日(77歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 東京帝国大学経済学部卒業
前職 国家公務員(科学技術庁)
所属政党 自由民主党

内閣 第2次大平内閣
在任期間 1979年 11月9日 - 1980年 7月17日

内閣 三木内閣
在任期間 1974年 12月9日 - 1976年 9月16日

選挙区 旧秋田1区
当選回数 9回
在任期間 1960年 11月20日 - 1986年 6月2日
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(2013年2月)

佐々木 義武(ささき よしたけ、1909年 4月3日 - 1986年 12月13日)は日本政治家、官僚。科学技術庁長官通商産業大臣

来歴・人物

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秋田県 河辺郡 河辺町(後の秋田市)生まれ。秋田中学(後の秋田県立秋田高等学校)時代は野球部員として甲子園出場の経験がある。1933年 東京帝国大学 経済学部を卒業後、南満州鉄道に入社し、調査部に配属される。その後興亜院に転じ、ここで大蔵省出身の大平正芳農林省出身の伊東正義らと知り合い、第二次世界大戦後も「九賢会」と称する会合を持って交流を深めた[1] 。以後企画院大東亜省内閣調査局にて調査官を歴任した。

戦後の1947年経済安定本部に転じ、初代経済復興計画室長として、傾斜生産方式による政策の遂行に辣腕を振るった。その後経済審議庁計画部長、科学技術庁原子力局長を務め、1960年第29回衆議院議員総選挙自由民主党公認で旧秋田1区から立候補し当選する。以後当選9回。宏池会に所属。厚生政務次官等を経て、1974年 三木内閣にて科学技術庁長官、1979年 第2次大平内閣にて通産大臣として入閣する。1986年政界を引退。その地盤は、二田孝治に引き継がれた。

自民党随一の資源・エネルギー問題の専門家で、電力・ガス・石油業界の信頼が厚かった。1985年 勲一等旭日大綬章受章。1986年12月13日肝硬変により死去。享年77。元上小阿仁村村長小林宏晨は娘婿である。

脚注

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  1. ^ 『大平正芳』38・42頁。

参考文献

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議会
先代
仮谷忠男
日本の旗 衆議院農林水産委員長
1972年 - 1973年
次代
仮谷忠男
公職
先代
江﨑真澄
日本の旗 通商産業大臣
第38代:1979年 - 1980年
次代
田中六助
先代
足立篤郎
日本の旗 科学技術庁長官
第29代:1974年 - 1976年
次代
前田正男
先代
足立篤郎
日本の旗 総理府原子力委員会委員長
第29代:1974年 - 1976年
次代
前田正男
通商産業大臣
経済産業大臣
再編前
文部大臣
文部卿
科学技術庁長官
再編後

省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。

定数4
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