ケニイモア
ケニイモア (ケンニー) | |
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1958年6月29日中山競馬場 | |
現役期間 | 1955年 - 1958年 |
欧字表記 | Kenny Mor |
品種 | サラブレッド系種 |
性別 | 牝 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1953年 3月11日 |
死没 | 1967年 4月22日 |
父 | クモハタ |
母 | 千鳥甲(メイレキ) |
母の父 | カブトヤマ |
生国 | 日本の旗 日本(北海道 浦河町) |
生産者 | 三好牧場 |
馬主 | ジヨー・エス(仙石襄) |
調教師 | 武輔彦(阪神) |
競走成績 | |
タイトル | 最優秀障害馬(1958年) |
生涯成績 |
51戦9勝 (平地競走)29戦3勝 (障害競走)22戦6勝 |
獲得賞金 | 593万7000円 |
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ケニイモア(欧字名:Kenny Mor、1953年 3月11日 - 1967年 4月22日)は、日本の競走馬、繁殖牝馬である。1958年に中山大障碍史上初の連覇を達成した。
経歴
[編集 ]1955年 11月12日に3歳新馬でデビューしたが、バリアー前で落ち着かず蹴り、後退のため外枠発走となり12頭立ての5着に敗れた。なお、この競走のみケンニーという馬名で出走したが、年が明けて4歳となった2戦目からはケニイモアに改名している[注釈 1] 。平地では1957年5月までに23戦して条件戦を3勝と振るわず、同年6月から障害競走に転向した。
障害競走でも初戦からいずれも6頭立てで5着、4着、5着と敗れ、夏の函館で再び平地に出走するが10月から障害に復帰。復帰初戦は3着という結果に終わったが、続く阪神の競走で蹴り、後退のため第2列より発走しながら2着のロンプに3馬身半の差をつけて障害戦初勝利を挙げた。次走の障碍特別も外枠発走ながら1着となり、京都のオープンにも勝って3連勝となったが、続く阪神のオープンでまたも外枠発走の処分を受け、グランドミスナンにクビ差敗れて4連勝はならなかった。
1958年に入ると一気に力をつけたニユーヨークや障害経験の長いロンプ[注釈 2] に歯が立たず連敗を続けるが、京都大障碍を前にオープンで4kgの斤量差を活かしニユーヨークを3/4馬身の差で破り、8戦ぶりの勝利を挙げた。
そして本番の京都大障碍では同年になってニユーヨークを破ったもう1頭のロンプが脚部不安のため登録せず、ニユーヨークが大本命となった。ケニイモアはニユーヨークと同じ55kgでの出走のため3番人気となったが、レースでは逃げるニユーヨークをユーシユンとともに追い込み、ハナ差の2着と健闘した。
その後ニユーヨークとともに中山大障碍を目指して東上。前哨戦となった2050mのオープンでニユーヨークは2着のアサハルや3着のギンセイを相手にせず軽々と逃げ切ったが、ケニイモアは15kg増の調整不足が影響して4着に敗れた。
中山大障碍を前に前年から連戦連勝だった5歳牝馬のニンジンが3月に落馬事故で死亡。2番手と目されたギンセイも回避し、東京障碍特別を勝ったイシカリもその時に負った傷の影響で回避となり、関東馬は低調な顔ぶれとなった。本番は6頭立てとなり、ニユーヨークが圧倒的1番人気となった。しかしレースでは前半まではニユーヨークとケニイモアが先行争いをしたものの、大土塁を越えてニユーヨークが一気に失速。結局向正面からはケニイモアの独走となり、追い込んできた最低人気のアサハルに15馬身の大差をつけて優勝した[注釈 3] 。
秋は早めに東上し東京のオープン戦に出走したが2kg重いユーシユンに完敗して3着。その後脚を痛め、腹痛を起こして調教を休んでいたが結局秋の大障碍には出走することを決定した。本番は障害入り10戦6勝で今度はケニイモアより2kg軽い56kgを背負うユーシユンが1番人気、福島から障害入りして6戦5勝の4歳馬ホリホツクが2番人気で、ケニイモアは再び3番人気での出走となった。この時点では鞍上の目時重男も上位2頭には到底かなわないと思ったという。レースではケニイモアがまず先頭に立ったが、大竹柵でユーシユンが先頭を奪いホリホツクも2番手にあがりケニイモアは徐々に後退していった。しかし大生垣の飛越でユーシユンが躓き鞍上の本田昌雄が落馬。かわって先頭に立ったホリホツクをケニイモアが直線手前で抜き去り、ゴールではホリホツクに6馬身の差をつけ、ヤマカブトのレコードを1.4秒更新するレコードで大障碍初の連覇を達成した[注釈 4] 。
その後、京都大障碍(秋)を目指して関西に戻ったが脚部を故障して回避。そのまま11月30日に登録を抹消して繁殖入りした。直仔では1960年に産まれたケニイライト(父ライジングフレーム)がダービー7着、1964年の鳴尾記念2着の成績を残し、また1965年に産まれたフサキネン(父ガーサント)はダービー2着のグランパズドリームを産んでいる。
競走成績(障害競走のみ)
[編集 ]血統表
[編集 ]- 父は1952年から6年連続リーディングサイアーとなったクモハタ。母は血統不詳の天ノ川から続くサラ系の千鳥甲であり、メイレキという競走馬名で1941年に中山四歳牝馬特別5着、阪神優駿牝馬3着の成績を挙げた。半兄に京都大障碍2勝のダイニカツフジ、全姉に中山大障碍、東京障碍特別を勝ったヤマカブト、重賞勝ちこそないものの半兄のカクセイも障害で実績を残した障害一族で、他にも半姉に桜花賞、菊花賞を制した2冠馬ブラウニーがいる。
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ 当時は3歳時、または地方に移籍する際に改名が可能だった。なお、戦前は血統名と競走名が別になっており、馬の徴発を目的とした馬籍法の定めにより血統名は生後30日以内に登録するため、生産にかかわっている馬主でない限り血統名と競走名は別になる場合が多い。この場合、競走名は何度でも変更可能である。ケニイモアの母は血統名が千鳥甲、競走名がメイレキである。
- ^ 両馬ともケニイモアと同じ6歳牝馬である。
- ^ ニユーヨークは5着に敗れ、その後競走を使うことなく引退、繁殖入りした。
- ^ 過去の優勝馬に出走が認められるようになったのは戦後からであり(1950年を除く)、それ以前は天皇賞と同様に勝ち抜き制であった。また、4分44秒8というタイムは1955年春のキタノイヅミ(4分43秒8)より遅いが、これは馬場改修により1955年秋以前の記録と連続しなくなったためである。
出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 日本中央競馬会 『優駿』 1958年5月号、7月号、8月号、10月号、11月号、12月号
外部リンク
[編集 ]啓衆社賞 |
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JRA賞 |
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中山大障害勝ち馬 | |
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