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Newtype 2018年2月21日 (水) 17時04分 映画・テレビ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
ゼロ・グラビティ 満足度:☆☆☆
Newtype 2018年2月18日 (日) 22時37分 映画・テレビ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
【氷の下の資源争奪戦に明け暮れる石油メジャー、水と農地を買い漁るウォール街のハゲタカ、「雪」を売り歩くイスラエルベンチャー、治水テクノロジーを「沈む島国」に売り込むオランダ天候支配で一攫千金を目論む科学者たち......。日本人だけが知らない地球温暖化ビジネスの実態とは?】
著者が取材した人物たちの思考を要約すると、
1)温暖化現象で困る国(ひと)もあれば得する国(ひと)もある。
2)気候変動は儲けの機会到来である。
3)規制して環境保護に努めるのではなく科学技術の進歩によって乗り越えるべき。
ということである。非常に楽観的であるし他人事のようでもある。
環境破壊という認識ではなく、環境の変化だと捉えているためだろう。変化に適応するものが生き残るのだという、ダーウィニズムである。
これによって起こりえる現象として、
1)環境難民が増大する。
海面上昇や旱魃の影響で土地に住めなくなったひとびとは、当然よそに移住せねばならなくなる。だが、そのひとびとをどこが引き受けるのか。
2)新たに発見された(採掘可能となった)資源争奪の争いが起こる
氷に覆われた北極海が溶けるとどうなるか。海底に眠る石油などの資源争奪戦につながっていくのが人類の性。
凍結した海に船をだせるとなると、その航路を自由に使いたい国々との間で、領土問題が起きることにもなる。
気候変動の恩恵を受けることになった土地のひとびとは、国家からの独立を求める動きもでると考えられる。
3)飲料水争奪戦
これがいちばん気がかりである。1と2は、強欲な連中を呆れて見物していても構わないが、飲み水の取り合いとなると、万人の問題であり静観していられない。だが、予測されているところでは今世紀中にも、淡水が石油以上の価値を持つ資源になりそうなのだ。
砂漠の国イスラエルは、自慢の淡水化技術を海外に売り出し中らしいが、淡水化するにも燃料が当然必要なわけであるから、けっして夢の技術などではないのである。
飲み水に困った経験がないひとが(おそらく)多い日本人にとっても、すくなくともこの問題は他人事ではないはずである。
著者は取材をとおして知り合ったひとたちの言動を、淡々と記していくだけで自身の思想や感情を全面にはだしていない。なにを思うかは読者次第という姿勢ではあるのだが、行間から憤りは感じる。
全編とおして明るい気分では読めないのは、現実がそれだけ難問を抱えているというだけの話ではなく、どんなやっかいな事態になろうとも、ひとの投機的性向はなくならないという点にある。
その、一山当ててやろうの精神が、技術革新と発明をもたらして、人類の前に立ちはだかる暗雲を払ってくれるとよいのだが。
Newtype 2018年2月15日 (木) 15時51分 書籍・雑誌:△しろさんかく | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
【ベトナム戦争が暗い影を落とし始めた1960年代。高校のスター選手だったスウィードは父の事業を継ぎ、ミス・コンテストの女王ドーンを妻に迎えて順風満帆な人生を築き上げた。しかし反戦運動に感化された一人娘のメリーが、近隣で起きた爆弾テロ事件の直後に姿を消してしまう。容疑者として警察から追われる娘の無実を信じ、必死に行方を探すスウィードは、娘の仲間だと名乗る謎の女に追いつめられ、一家の人生は崩壊していく。家族の幸せを再び取り戻そうとするスウィードの長く苦しい戦いの先には衝撃の真実が待ち受けていた】
満足度:☆
後味は良いとは云えないが、素晴らしい映画だとおもう。こういうドラマを撮れるところがアメリカの凄さである。スターウォーズから家族劇まで、魅せる映画を撮れるのは、映画産業全体の持つ底力なのだろう。映画で文学してしまい、結果的に作り手の自己満足で終わってしまう愚はおかさない。だから最後まで観続けられる。時間とともに焦燥していくジェニファー・コネリーの変貌ぶりもすごかった。
戦勝に沸いて絶頂だったころのアメリカでなくなった時代、国民の高揚感はヴェトナムの泥沼によって失われた。そういう失意の時代が舞台になっている。
その時代に、あるちいさな町で、事業家のおとことその家族に起きた悲劇を、ある作家が知るところとなる。かれは、友人からその兄の死を知らされ、事の顛末を知る。
町のヒーローであり、美人の妻をもち、親から事業を継承して、なにも不自由ないはずのおとこが、その娘が左翼革命家になってしまったことによって、夫婦関係が崩壊していく物語。たしかこれに似たじじつがじっさいに起きていたようにおもう(テレビでみた記憶がある)のだが、はっきりおもいだせない。
ひとはなぜ、ひとを殺すのか。なにが殺人を正当化させるのか。
観念である。観念がひとを殺す、と笠井潔は云う。
ひとりの、吃音に悩む少女にとりついた観念とはなんであったか。革命思想、階級闘争である。あの時代の若者は少なからずこの観念に侵されたにちがいない。経済的不自由のない生活に罪の意識を感じるというのは、the American way of life を謳歌できた時代にはなかったはずだった。 戦争の長期化によって、いやでも見えてきた自国の醜さに愕然とした「意識のたかい」若者たちは、革命を夢見た。
なぜ、この少女は、革命に身をささげる観念に憑かれてしまったのか。そこに至る予兆とおもわせる科白を、かのじょは云っている。
"人生とは、人が生きている間の短い時間" と。
虚無と云っていい。すくなくとも、ユダヤ・キリスト教てき文化のなかにおいて、この人生観は虚無主義といえる。現に、かのじょの両親はあからさまに表情を曇らせるのだ(尤、こんなことばを少女がくちにだせば、どんなおとなでも同じ反応をしめすだろうが)。
この少女が、このように虚無的傾向をしめすに至るのは、母へのふくざつな感情にあったはずである。美しい母と似ても似つかぬ自分。父の愛を独占したかった少女は、革命運動に居場所をみつけた。
このように解釈してみると、この映画は徹頭徹尾、思想の映画にみえてくる。
こじつけ且つ、雑な解釈を試みるなら、父がユダヤ・キリスト教における神の代名詞であることは自明として、the American way of lifeの終焉とベトナム戦争の泥沼化による人心の荒廃などは、父への裏切りからくる楽園追放と原罪を負った人間という暗喩までもおもわせる(この場合、なにが父への裏切りとなるかが問題だが)。こじつけついでに云うと、少女が階級という罪の意識を感じ、自己懲罰的生き方を選ぶきっかけは、焼身自殺をする仏教徒をみたことであった。 仏教を虚無主義とみるならば、この物語の主題は、 父(神)の愛を素直に受け止められないこころに虚無(仏教)が入り込み、そして虚無が革命思想(無神論という罪)に走らせ、破滅に至る。ということだろうか。
とすると、最後のシーンはどう解釈できるだろうか。亡き父の棺の前に現れた娘という演出は、なにを語るのか。父の死は革命の季節のおわりを意味しているとも云えそうだから、父との和解か。若しくは彼女じしんの復活(魂の)か。
こんなことをつらつら考えてみたものの、聖書に記されている物語の数々は、凡そ人間存在のあらゆる局面を網羅しているわけで、どんな作品も、なにかしら聖書に対応する面をみることはできてしまうとも云えるのだが。
最後にひとつ。階級闘争に身をささげたかのじょであったが、そのなかで受けた恥辱のかずかず(レイプされたことを父に告げるシーン)は、且つて連合赤軍に身をささげた女性たちが経験することになったこととおなじであったろうとおもう。
階級闘争と云いながら、その運動のなかにおいてさえ、女性に求められるものは、おとこたちの我儘を無限に受け入れてくれる母性と、欲望の捌け口としての肉体だけであるという事実。所詮、欺瞞の運動が成就するはずはなかったのである。
Newtype 2018年2月12日 (月) 14時07分 映画・テレビ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
Newtype 2018年2月 9日 (金) 23時24分 書籍・雑誌:△しろさんかく | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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