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トランスだけでは飽き足らずXまで現れる始末。世も末だ。
申し訳ないのだが、客観的に検証不可能な事について他人に承認を求めるのは傲慢というものではないか。何種類あるのか知らないが、本人の性自認をそのまま他者にも受け入れることを要求する権利まであるのか。いったいなぜ個人の問題になると客観性というものがなおざりにされ、主観性だけが尊重されるのか。貧困や暴力にさらされている人のような、客観的に明らかな問題に対しては公権力は保護なり介入なりしなければならないと思うが、客観性のない個人の問題にまで法的な保護や承認を求めるのは無理があるのではないか。
女性にもなれず男性にもなれずというのが本当ならば、他人からすれば気の毒としか云いようのないことなのだ。だから有りのままに受け入れてほしいと云われても、その有のままがまず当事者以外には理解不能なのだから。女性として生きることを選ぶか男性として生きることを選ぶか、その選択をしたくないと云うのであれば、決めたくないという自由を行使した結果の不利益は織り込み済みで生きていく他ないだろうと云いたい。それが特別な存在としての矜持ではないだろうか。特別な存在で生きていたくなどないのなら、"普通"という甚だあいまいではあっても大半の人が納得している人生を生きる他ないだろうと云いたい。
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