« 動物愛護主張を広めるためにポルノサイト開設 | トップページ | 韓流で復活狙う芸能人 »

2011年9月25日 (日)

「男」という不安

Bt000011664200100101_tl

読後感:☆

【男が「弱くなった」「危なくなった」といわれて久しい。ここ数年、マスコミをにぎわす社会問題の主役は、大半が「男」である。未成年の殺人犯は大部分が男である。「ひきこもり」も、ほとんどが男だ。「もてない男」「結婚できない男」も増えている。ハゲ・コンプレックスに悩む男も話題に上る。精子が減少し、セックスレス・カップルが増加しているともいわれる。中高年に目を転じても、仕事に疲れたリストラおじさんや、家庭に居場所を見つけられない帰宅拒否症候群、自殺者の増大など、暗い話題が多い。いったい、何が彼らをそうさせているのか。他方、いまの日本の女たちはもはや男など頼りにせず、決然と自立を目指しているかのように多くのメディアは報じる。だが、それはほんとうなのだろうか――。現代日本の男たちが直面している困難を多面的に照らし出し、いまあらためて再考されるべき「男の値打ち」「男の生き方」を模索する真摯な論考。】

小浜逸郎の本は一応すべて読むつもりでいる。ただ、さすがに何冊も読んでいると、その人の考え方ってものが分かってくるせいか、新鮮味はなくなってくる。だから本書も☆は一つ。

この人は常識的な思想の人だから保守派向きの作家だと思う。「思想家」然とした、小難しく回りくどい云い回しで読者を煙に巻くようなところがないので、好感がもてる。

左翼や女権論者には耐えがたい本かもしれない。上野千鶴子あたりなら、本書を叩きつけるかもしれない。まぁ、あんな連中のことなんぞどうでもいいんだが。

あの手の連中は、「男性」とか「女性」とかは幻想・虚構であり、社会的に押し付けられた役割だ、みたいなことを厭きることなく云い続けている。しかしその虚構に過ぎないものが現実に効力というか力をもっていること、あるいはそのような虚構が支配的になるに至ったことには、やっぱりそれなりの意味があってのことではないのだろうか。

「男らしさ」とか「女らしさ」とか、そんなものも社会的な一種の洗脳であるみたいな論調は、"もっともらしく"聞こえはするものの、やはりどこか"しっくり"こないというのが一般的感覚ではないだろうか。「らしく」というのは確かに時代とともに変わりゆくものかもしれない。しかし、現実に「男性器」と「女性器」の機能が違うことが示しているように、その違う機能を持った「性」としての特性ってものはあると考えるのは、常識的感覚だと思うのである。

ボーヴォワールの言う「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」よりは、バダンテールの「人は男に生まれるのではない。男になるのだ」と言うほうが、よりリアリティがあると言うべきだ。女が「女になる」以上に、男は「男になら」なくてはならないのである。 (中略)

この傾向は、種としての人間が自らを保存していく本能的な意志に深く根差している。その意味で、男はやっぱりいつかどこかで「男になる」べきなのだし、ならざるを得ないのだ。そのために男特有の努力や苦労が必要とされるなら、男たちはその課題を引き受けなくてはならない。(pp92〜93 第2章 いつ「男」になるのか)

「男らしく」とか「男の甲斐性」とか、なかなか「男」をしばっているものも過酷である。自殺する中年男性が多いのも、男としての「甲斐性」が経済力という目に見える形で現されるためでもあるだろう。そしてここに、男もこの社会の被害者なんだという論理が出てくるわけである。女権論者は、男どもを自分たちの陣営に入れるための理屈を、ここに見出したのだろうか。

しかし、なお私がおかしいと思うのは、何でも「被害者」としての平等という方向でその修正を図ろうとする社会思想の志向性である。女が被害者だという声が響き渡って、あまりそればかり言い立てるのは行き過ぎではないかという反省が起きると、今度は初めの声にただ対立的に呼応して、いや、男だって被害者だと訴える。つまり「被害」発見の意識を多元化し、細分化し、下方へ下方へと平準化してゆくのだ。ではこの世はいたるところ「被害者」だらけなのだろうか。

現実のなかに否定面を探し出すのは簡単である。体制を批判するのは、少しばかりの知性があればだれでもできる。しかしそのことだけに拘泥するのは弱い思想だ。現状のなかに人類の努力の跡とその結果としての肯定的な面とを見出し、それを理性の現実化された形として押さえて、うまく育てていこうとするのが強い思想ではないか。(p75 第1章 「男らしさ」は必要なくなったか)

女が生き易い世の中は、男にとっても生き易い世の中なんですよ、と。多分そのとおりなんだろう。男としても、「甲斐性なし」なんぞと云われることのない世の中なら、随分楽に生きられるには違いない。だが、「らしく」を極端に排除しようとする傾向の先には、必ず反動が起きるだろう。結局は人間も動物である。本能とあまりにも対立する思想では世の中は納まるまい。

このように、基本的に「男」と「女」という性差を肯定的に受け止めようというのが著者の態度である。"「男」という不安"そのものについてはそれほど語られてはいないと思うが、この資本主義社会における労働者としての男に内在する"不安感"について、第一次産業と第二次産業においての労働と、第三次産業での労働の質の違いから論じたくだりは、なるほどと思わせるものはあった。

投じた労働に対する具体的な手応えの感覚が身体に返ってこないということ。これが現代社会に生きる「男」の不安の基であろうか。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

ところで、またしても本文と動画の関連は別にないのだが、小学生の頃オレがひそかに夢中になっていたドラマを見つけてしまった。w「誘惑」w

この時からすでに熟女好きだったわけだ(汗)。 篠ひろ子、カワユスw、そんで村木こと我らが「ウツ」www

「家事手伝い」とか云っても"サマになる"男になりたい。

Newtype 2011年9月25日 (日) 00時28分 書籍・雑誌:☆ | 固定リンク

« 動物愛護主張を広めるためにポルノサイト開設 | トップページ | 韓流で復活狙う芸能人 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「男」という不安:

« 動物愛護主張を広めるためにポルノサイト開設 | トップページ | 韓流で復活狙う芸能人 »

2021年11月
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

最近のトラックバック

携帯URL

ケータイ用アドレス
携帯にURLを送る

ウェブページ

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /