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神なき時代の神 キルケゴールとレヴィナス
岩田 靖夫:著,岩波書店,2001
読後感:△しろさんかく
【哲学とは何か、それは「善く生きる」ことの意味を見いだそうとする営みではなかったのか?
高度に発達した知識の体系と日常的に蔓延する不正や悲惨とに取り囲まれたわれわれは、この基本的な姿勢を失っているのではないか?
本書は、ユダヤ人哲学者レヴィナスを手がかりに、哲学の意味を倫理と信仰へと問いつめ、神の不在と逆説とが切迫した問いとなった現代における信仰の意味を探る。明快な叙述のうちに、「顔」に対する「応答」について語るレヴィナスの独特で難解な議論が読みとかれ、倫理的責任の引き受けに結晶する究極の神信仰が取りだされる。】
【目次】
I:否定と跳躍—ソクラテスとキルケゴール
II:死にさらされた裸と至高性—レヴィナスの語る顔,神の超越と人間の責任—人間を通してのみ働く神,レヴィナスにおける死と時間—ハイデガーとの対比において
III:存在の「かなた」—人と神における近さと遠さ
本書は、神の存在をなんとかして肯定しようとして書かれたものなんだな。でもオレにとっては神の存在なんぞ、居ようが居まいがしったこっちゃない。どうせ居ても碌なもんじゃねえだろうから。
レヴィナスもキルケゴールも岩田氏も碌に知らないオレが、なんでこんな耶蘇教の臭いがプンプンする本を買ってしまったのか。書店で立ち読みしていて、ある言葉が目に入ったからだった。
善意は、体制としては、組織化された体系としては、社会的な制度としては、不可能である、とレヴィナスは言う。人間的なもの(人間らしさ)を組織化しようとするあらゆる試みは挫折する。たとえば、マルクス主義がスターリン主義に変質したということ、これは人間的なものの追及が正にそれがのり超えようとした反人間的なものに変質したという意味で、人間的なものに対する最大の侮辱であったと同時に、人間的なものを組織化できないことの証明でもあっただろう。(p53,死にさらされた裸と至高性—レヴィナスの語る顔)
>人間的なもの(人間らしさ)を組織化しようとするあらゆる試みは挫折する。
この言葉ひとつである。これが本書を読むきっかけとなった。
常日頃から、はたして国家に代わり得る、もっと"人間的な"体制に移行する日は来るだろうかと思っていたから、本書でそれについてなんらかのカギを見つけられるかも、と思ったのだ。
しかし、読んでみても人間と体制についての見解が変わることはなかった。
国家であれ自治体であれ、果ては宗教団体であれ、組織を人間的なものにしなければいけないという問題意識が存在するのだが、その場合の"人間的"なる意味は、人間の善意とかあらゆる肯定的な面だけを指しているはずである。
人間性の肯定的側面だけで運営される組織など、本当に可能だろうか。オレの見解は、これについていまだ否定的である。
あの阪神淡路大震災では、実に36時間もの「空白の時間」があったという。「自治体の要請がなければ動けない」という、この恐るべき感覚。他人の苦しみを我が事として受けとめる感性のみならず、非常事態と平時を見分ける知性もない。
あれから16年経ち、今度の東日本大震災ではどうだったか。やはり「自治体の要請」を待つという絶望的なまでの官僚主義を晒した。
著者は、マザー・テレサの行動をひとつの手がかりとして、こう語る。
マザー・テレサは社会改革をしていたのではない。一人一人の人間に対して、その「かけがえのなさ」において、関わっていたのである。彼女はいつも「この一人、この一人」と言っている。その一人一人に、神の現れとして、仕えていたのである。人を生かしつづけているものは、この現実の生における小さな善意である。(中略)
だが、この一人から他の一人へと向かう小さな善意は証人のいない善意である、ということをも心得ておかなければならないだろう。それは、あらゆるイデオロギーを超えた、いわば「思想」のない善意である。なぜ、思想がないのか。なぜなら、それはあらゆる体系の外、あらゆる実定宗教の外、あらゆる社会組織の外にある善意だからである。それは、根拠なき無償の善意であるから、永遠なのである。(p54,同)
「思想」のない善意。これが一つのカギか。
本書から得るところもそれなりにあったが、どうしても耶蘇教の臭いがキツイ。罪の意識は人間の内部からは絶対に立ち現れてはこない、それは人間の外の絶対者から来るものだ。とか、人は生きるかぎり罪人であるとか。よくこんな宗教信じてノイローゼにならないもんだなと思う。
人間は他者に対して、無限に倫理的責任を負っているとかいう論調の、レヴィナスの思想もはっきりいって迷惑だ。
「思想」のない善意。突き詰めるとするならここか。
Newtype 2011年5月 3日 (火) 14時52分 書籍・雑誌:△しろさんかく | 固定リンク
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