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岡崎市歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(額田町歌から転送)
岡崎市歌(2代目)

市歌の対象
岡崎市

作詞 北原白秋(1937年 4月25日)
作曲 山田耕筰(1937年5月3日)
採用時期 1937年7月1日
(制定告示は1962年 4月1日)
言語 日本語
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「岡崎市歌」(おかざきしか)は、日本愛知県 岡崎市が制定した市歌である。以下の2代が存在する。

  1. 1916年(大正5年)制定。作詞および作曲・鳥居忱
  2. 1937年(昭和12年)制定。作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰

現在の市歌は2.である。本項では、2006年に岡崎市へ編入合併された額田郡 額田町の町歌についても解説する。

解説

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本作の歌詞は著作物の本国においてパブリックドメイン であり、アメリカ合衆国においてもウルグアイ・ラウンド協定法の対象外です。

「岡崎市歌」は初代・2代目のどちらも歌詞・旋律の両方が著作権の保護期間を満了し、パブリックドメインとなっている。

初代(1916年)

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岡崎市歌(初代)

市歌の対象
岡崎市

作詞 鳥居忱
作曲 鳥居忱
採用時期 1916年7月1日[1]
採用終了 1937年6月30日(2代目市歌制定)
言語 日本語
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初代の「岡崎市歌」は1916年(大正5年)7月1日に愛知県で3番目となる市制施行を記念し、東京音楽学校教授の鳥居忱が作詞・作曲したものである[1] 。また、この市歌とは別に「市制施行祝歌」(作詞:柴田顕正、作曲:鈴木毅一)も作成された[1]

一、
家蔵愈々立(やぐらいよいよた)()ひて (かね)ても()めるこの(さと)
()町並(まちなみ)(ととの)ひて (いま)こそ()とは()りにけれ

二、

(ひがし)(えびす)きためむと 雄々(おお)しき皇子 (みこ)矢矧川 (やはぎがわ)
()川水(かわみず)(よど)みなく 唯一筋(ただひとすじ)(すす)(さと)

三、

三河 (みかわ)武士 (ぶし)(むかし)より (おく)れを()らぬ(こころ)もて
旦暮開(たんぼひら)()(みち)唯一筋(ただひとすじ)(すす)(さと)

四、

()大君 (おおきみ)(おぼ)()御代諸共(みよもろとも)()(さと)
(よろず)(いえ)人々(ひとびと)(はげ)むにつれて(さか)()

2代目(1937年)

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昭和期に入ると初代市歌は「歌詞も文語体で時代に合わなくなってきた」ものと考えられたため[2] 、1936年(昭和11年)の市制20周年を機に「岡崎市ノ諸会合ニ於テ老幼男女喜ンデ唱謡シ市民ヲ鼓舞激励民心統一ニ資スル」ことを制定意義として2代目の市歌を制定することになった[2] 。歌詞の懸賞募集は前年10月10日付の『岡崎市広報』第352号に要項を掲載して実施されたが、半年後に発表された入賞作品は千葉県からの応募作が一等入選とされたのを始め、全てが岡崎市はおろか愛知県外からの応募作であった[2] 。市側はこの入選作について理由を明示しないまま「不採用」とすることを決め[注 1] 、改めて旧制岡崎中学校岡崎師範学校の教諭らに作詞を依頼し甲・乙の2篇を候補として6月の定例市会へ提出する[3] 。だが、この2篇に対しても市会からの同意が得られなかったため曲が付けられないまま未完成に終わっており、その理由について『新編岡崎市史』では「歌の出来の問題ではなく、中央の権威筋のものが望まれた結果と思われる」と推測している[4]

結果、前年に東京府の「八王子市歌」や福島県の「福島市歌」を手掛けており大正から昭和初期にかけて「黄金コンビ」と評されていた北原白秋と山田耕筰に市歌の作成が依頼された[4] 。白秋の自筆原稿によれば歌詞を書き上げた日付は1937年(昭和12年)年4月25日、山田が曲を完成させたのは同年5月3日とされている[4] 。こうして1年半に及ぶ難航の末に完成した2代目市歌は6月18日付で発表され、市制施行21年目に当たる7月1日に記念式典で地元の小学生たちが斉唱した[5]

市による制定告示は戦後の1962年(昭和37年)4月1日付条例第10号「岡崎市歌を定める条例」において行われ、その制定意義は「本市における市民意識の高揚を図るため」とされている[6] 1970年代には、市と教育委員会が自主製作のソノシート(規格品番:RFO-1022)を作成した。市では演奏の機会について「毎年七月一日の市制施行記念式と、毎年一月一日の新年交礼会において斉唱される」としている[7]

一、
(くも)にかがやく 龍城 (りゅうじょう)青葉(あおば)(あらし) (あお)()
(くに)(きず)きし 先傑(せんけつ)(いさお)(たか)し この(ちから)
(ふる)えよ我等(われら) 後永(のちなが)堅実(けんじつ)地歩(ちほ) ()()がむ
岡崎(おかざき)これや ()(ひかり) 岡崎(おかざき)これや ()郷土(きょうど)

二、

()にしゆたけき 天恵(てんけい)矢作(やはぎ)(ながれ) まさに()
(つち)()えたり 西三河 (にしみかわ) (ながめ)(ひろ)し この平野(へいや)
(ふる)えよ我等(われら) (あき)らけく 営々(えいえい)(わざ) ()()かむ
岡崎(おかざき)これや ()(ひかり) 岡崎(おかざき)これや ()郷土(きょうど)

三、

(けぶり)にぎはふ 新興(しんこう)時代(じだい)(きおい) ここに()
(おと)にきこゆる 産業(さんぎょう)(ほまれ)(たか)し この(さかえ)
(ふる)えよ我等(われ) (まゆ)わかく 躍進(やくしん)都市(とし) いまどよむ
岡崎(おかざき)これや ()(ひかり) 岡崎(おかざき)これや ()郷土(きょうど)

額田町歌

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「額田町歌」(ぬかたちょうか)は、2006年に岡崎市へ編入合併された額田郡額田町が制定した町歌である[8] 。1956年(昭和31年)12月10日に、同年9月の町制施行を記念して制定された[8] 。岡崎市・額田町合併協議会では編入合併後の町歌の扱いにつき「現在の岡崎市歌をそのまま市歌として存続する」申し合わせが行われたため「地域の歌」として存続することも無く合併と同時に失効・廃止されている。

制定から2年後の1958年(昭和33年)に日本コロムビアがレコードを製造しており、元愛知教育大学教授で岡崎市名誉市民内藤淳が旧蔵していた現物を遺族が閉町の直前に鈴木啓允町長へ寄贈した[9]

参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 不採用となった千葉県・山本白夢の入選作は上園(1937), pp417-418に全文が掲載されている。

出典

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  1. ^ a b c 新編岡崎市史4(1991), p719
  2. ^ a b c 新編岡崎市史4(1991), p1178
  3. ^ 新編岡崎市史4(1991), p1179
  4. ^ a b c 新編岡崎市史4(1991), p1180
  5. ^ 新編岡崎市史4(1991), pp1180-1181
  6. ^ "しろまる岡崎市歌を定める条例". 岡崎市例規集. 岡崎市役所 (1962年4月1日). 2023年5月2日閲覧。
  7. ^ 中山(2012), p255
  8. ^ a b 柴田紘一 (2004年5月20日). "岡崎市・額田町合併協議会の協定項目調整内容". 岡崎市・額田町合併協議会. 2023年5月2日閲覧。
  9. ^ "「額田町歌」などレコ―ド 岡崎の内藤さん 父親の遺品2枚を寄贈". 東海愛知新聞 (エフエムEGAO). (2005年12月7日). http://fm-egao.jp/tokai/051207.php 2023年5月2日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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北海道地方
東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州・沖縄地方
廃止・未制定
  1. 新設合併のため2005年に失効。
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