小沢一郎
日本の旗 衆議院議員 小沢 一郎 | |
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生年月日 | (1942年05月24日) 1942年 5月24日(82歳) |
出身地 | 東京市下谷区(現:東京都台東区) |
出身校 |
慶應義塾大学 日本大学大学院 |
学位・資格 | 経済学士 |
前職 | 大学院生 |
所属委員会 | 国家基本政策委員会委員 |
世襲 |
2世 父・小沢佐重喜(衆議院議員) |
選出選挙区 | 岩手県第4区 |
当選回数 | 13回 |
所属党派 | 民主党(小沢グループ) |
党役職 |
代表 岩手県総支部連合会最高顧問 |
会館部屋番号 | 衆・第一議員会館605号室 |
ウェブサイト | ■しかく小沢一郎ウェブサイト■しかく |
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小沢 一郎(小澤 一郎、おざわ いちろう、1942年 5月24日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(13期)。民主党 代表(第6代)。
自治大臣(第34代)、国家公安委員長(第44代)。自由民主党 幹事長、新生党代表幹事、新進党 党首(第2代)、自由党党首を歴任。
概要
生い立ち
東京市 下谷区(現:東京都 台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった小沢佐重喜・ みちの長男として出生。本籍地は岩手県 奥州市(旧:水沢市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。
水沢市立東水沢中学校(現:奥州市立東水沢中学校)から2年次に文京区立第六中学校に転校。東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学 経済学部に入学した。
政界入り
日本大学 大学院 法学研究科在学中の1969年、父の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。
自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、衆議院定数是正(7増8減案)や田中首相辞職勧告決議案などの懸案処理に裏方として対応している。1985年第2次中曽根内閣第2次改造内閣では自治大臣兼国家公安委員長として初入閣。しかし、ロッキード事件により党籍を離れたものの、引き続き派閥の領袖として影響力を保ち続けようとする田中に反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられた。
竹下派
竹下内閣では官房副長官に就任。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。リクルート疑惑や、宇野政権下での参院選惨敗後の初の総選挙となるため、苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利した等の実績から「剛腕」と称された。
1990年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾への自衛隊派遣を模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する栗山尚一外務事務次官を抑え法案提出にこぎつけた(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、代わりにPKO法が成立した)[1] 。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で党都連(東京都連合会)が推す現職に代わり新人を擁立するも敗北。1991年4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となり、姻戚関係である竹下、金丸と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称された。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。
1991年、政治改革法案が国会で廃案となったことを受け、海部首相が衆議院の解散総選挙を匂わせる発言をした。これが党内の反発を招き、海部内閣は総辞職を余儀なくされる(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後任首相になるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という若すぎる年齢や心臓病(狭心症)で6月に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとの逸話が残されている。だが、田勢康弘から「この逸話は実は真実ではない」[2] と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から宮澤喜一擁立を目指していたとされている[2] 。
1991年10月10日、自由民主党総裁選挙の際、派閥として支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮澤、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮澤や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった。)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(小沢は、「当日はホテルの会場が満室でどこも予約できなかった」と弁明した。[要出典 ]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。宮沢は後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。
竹下派分裂、羽田派結成
1992年、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。
1993年 2月17日、東京佐川急便事件に関連して証人喚問を受けた。
自民党離党、細川内閣成立
野党から宮沢内閣不信任案が上程され、1993年 6月18日、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日 新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。
7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。
小沢は、総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。
細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、内閣官房長官として官邸主導を狙うさきがけ代表の武村と激しく対立した。
1994年、小沢と大蔵省事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日 未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会、さきがけ、民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。武村官房長官(当時)は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。 そのため、小沢は細川に武村を外すための内閣改造を要望するも、一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。
改新騒動、羽田内閣
細川の辞意は、小沢には突然の事であったが、直ちに後継首班に向けて始動した。小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年 4月25日首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、4月26日、社会党は連立政権の離脱を発表した。連立与党側は社会党の連立政権復帰に努力したが、時既に遅く4月28日、羽田内閣は少数与党内閣として成立した。
小沢と羽田の関係に微妙な影が差し始めたのはこの時期からである。羽田内閣は平成6年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが周囲の声を聞くに至りトーンは下がり解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。
野党転落、新進党結成
羽田の後継に次に狙いを定めたのは、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹であった。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。 1994年 6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の豪腕が必要とされた。 同年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人が集まり、衆院会派「改革」が結成された。 また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。
小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。小沢は党首に海部を擁立し、自らは党幹事長に就任した。
1995年7月、第17回参院選では、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得し躍進した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突した。その結果、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。 しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。
1996年 10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。
新進党解散、分裂
総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、 1996年12月26日、羽田、奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名は新進党を離党、太陽党を結成した。 1997年、小沢は自民党(当時)の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。
12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は蜂の巣をつついたような混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌の内に終わった。
自由党結成
1998年 1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。
同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。
自自連立
1998年10月、小沢は内閣官房長官の野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕首相との間で自自連立政権について合意した。
1999年 1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。
この連立の間に衆議院議員定数50削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。
自自公連立、連立離脱、自由党分裂
1999年7月、公明党が政権に参画し、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。両者は2000年 4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した。連立解消のストレスから、この直後、小渕は脳梗塞で倒れた。
自由党は、小沢を支持する連立離脱派と野田毅、二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党側は政党助成金を半分づつ分け合うために分党を要求したが、自由党側はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
2000年 6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選では苦戦が予想されたが、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。 このとき、約20億円を投じたとされるテレビ CM(小沢が顔を殴られる)は話題になり、自由党が善戦した要因の一つとされる(一方、保守党は7議席へと激減)。
2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。小沢塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営された。
同年7月29日の第19回参院選では小泉人気により、自民に小泉旋風が吹き、小沢王国と呼ばれる参院岩手選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった。
民由合併
2002年、民主党代表の鳩山由紀夫は、党内の求心力を強化するため野党結集の必要性を感じ、小沢に接近した。当時、小沢自身も自由党の支持母体の弱体化・反対等により、自由党の独力で選挙を戦うことに限界を感じていたため、2人の思惑が一致した。
鳩山は民主党と自由党の合併に向けた協議を行うことを発表した。しかし、党内調整が不十分であったこと及び小沢に対する拒否反応の為に頓挫、代表としての求心力を失い代表辞任に追い込まれた。その後の代表に選出された菅直人は鳩山路線を引き継いで民由合併を促進。菅と小沢の間で合併は党名・綱領・役員は民主党の現体制の維持と言うことで合意が成立した。
2003年 9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。11月9日の第43回衆院選で民主党は政権交代への期待もあり公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。
当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。
11月19日、毎日新聞のインタビューに対し、次の総選挙で政権交代がなされなかった場合「政治家なんか辞めて田舎でのんびりする」と表明。
一兵卒
2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅直人の後継代表に内定。しかし直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した。代わって党幹事長だった岡田克也が代表に就任した。
同年7月11日、第20回参院選では政府与党の年金法案が争点となり、それに反対した民主党に追い風が吹き、選挙区と比例代表合わせて50議席を獲得し、改選議席数で自民党(49議席)を上回る勝利を収めた。小沢は参院選後、岡田の要請により党副代表に就任した。
2005年 9月11日、郵政民営化の是非を争点にした第44回衆院選が行われたが現有議席を60近く減らし惨敗した(小沢の片腕と言われ、党派を超えて一目置かれていた藤井裕久も落選)。岡田は敗北の責任を取り代表を辞職した。その後の党代表選で前原誠司が選出された。前原は小沢に党代表代行への就任を依頼したが、岡田執行部の党副代表であり総選挙惨敗の責任の一端があるとして、これを固辞した。
民主党代表時代
- 代表就任
2006年 3月31日に前原が「堀江メール問題」の責任を取って党代表辞任を表明した後、4月7日の民主党代表選で大差で菅直人を破り、党代表に選出された。
代表選後、小沢は、党内外に挙党一致体制をアピールするため、党代表の座を争った菅を党代表代行・鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。自身が代表に就任してから、政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。小沢が党代表に就任した直後、4月23日の衆議院千葉7区 補欠選挙では、メール問題での逆風から当選は難しいと思われていたが、僅差ながら勝利した。これにより党内の求心力が高まり9月12日に無投票で民主党代表に再選された。
5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。
- 外交政策での対立
2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢一郎らトロイカ体制の見解を発表した。 しかし、これに対して前原誠司前代表を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。 小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。
防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。2006年11月の福島県知事選では社民党、沖縄県知事選では共産党、社民党などと共闘。福島県知事選では与党推薦候補を破ったが、沖縄県知事選では与党推薦候補に敗れた。沖縄県知事選の敗北を受け、小沢の最終決断により「省」昇格法案に賛成した。また、沖縄県知事選で共産党、社民党など民主党とは支持層や政策の異なる政党と共闘し敗れたことから、野党共闘のあり方について見直しを迫られた。
- 統一地方選、参院選での躍進
2007年 4月8日に統一地方選挙の前半戦が行われ、地元・岩手県の知事選で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が出馬し、2位以下に3倍近い差をつける圧勝で小沢王国健在を見せ付けた。また、岩手県議選でも議席を増やし第1党を維持した。自民VS民主の対決になった5つの知事選では2勝3敗で負け越したものの、道府県議選・政令市議選では民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。
4月22日に統一補欠選挙が行われ、参院沖縄で惜敗したものの、参院福島では圧勝した。また、同日行われた統一地方選挙の後半戦では市町村合併の影響か市議選で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。
参議院選挙に向けて「生活維新」を掲げた民主党の宣伝CMに出演。参院選投票1ヶ月前の6月からはキャッチフレーズを「生活維新」から「生活が、第一。」に変更した。7月8日、マスコミ報道では民主優勢と見た小沢は、同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙で野党で過半数の議席を獲得できなかった場合は、「野党の代表をいつまで務めていてもしょうがない」と民主党代表を辞任し、次期衆議院議員選挙に立候補せず政界引退することを明らかにした。これにより自身の責任ラインを明確化し、根強い小沢人気も相まり更に民主への追い風を強めた。7月29日の第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得し参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。この選挙では、公示以降政策、予算など選挙対策に関する全権を掌握し、独自の情勢分析にもとづいて、党本部から直接携帯電話で候補者に指示を送るほか、小沢の30人を超える秘書が分身として1人区を中心とした激戦区に選挙戦術指導のため送り込まれた。1人区行脚と言われた小沢本人による梃入れと合わせて、選挙戦術の卓越さを遺憾なく発揮した選挙となった。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかった[3] が、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けることを宣言した。
- 参院選後の経緯
8月8日には11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法問題についてマスコミ公開の中、シーファー駐日米大使と会談、8月30日にはドイツのメルケル首相と会談した。
9月12日、安倍首相が辞意を表明し、9月25日に内閣総理大臣指名選挙が行われた。衆議院は福田康夫、参議院は決選投票の末(小沢133票、福田106票)、小沢を内閣総理大臣に指名した。衆議院の優越規定に基づき福田が首相となったが、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。
2007年11月2日、小沢代表は自民党の福田総裁と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明した。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。
2008年 1月11日、参議院における補給支援特措法案を衆議院で再可決する本会議中に突然退席し、投票を棄権した。大阪府知事選の推薦候補の応援のためとしているが、党内の一部や他の政党の議員から批判された。なお、大阪府知事選では、民主党が推薦した候補がダブルスコアで惨敗し、鳩山幹事長から「代表の退席は国民の批判をいただいた。(敗戦の)理由に挙げられる」と責任を追及されるもととなった。[4]
2008年1月、民主党は、ガソリン税の引き下げを主張するビラを配布した。このビラは、自動車のフロントガラスに貼るもので、道路運送車両法に違反する違法ビラであった。
2008年2月29日、衆議院で2009年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。これを受け、武藤敏郎副総裁の日銀総裁への昇格を拒否する方針を決めた[5] 。 結局、民主党は参議院で日銀総裁人事を否決した。
2008年4月1日、民主党の協議拒否中に年度が変わり、ガソリンの暫定税が失効した。
2008年4月2日「民主党重鎮が『武藤(敏郎元財務事務次官)さんでまとめる』と言った」という福田首相の発言については、記者会見で「誰とも話した事実はない」「(党首会談について)『門前払い』と言う一方で『私が言った』というのは全くおかしな話だ」と指摘し否定した[6] 。
2008年4月3日、在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)に関する新たな特別協定案を採決する衆院本会議を欠席した。千葉市内での記者会見で小沢は「別の日程があったので出なかった。私には私の優先順位がある。」と説明した。
2008年4月6日、NHKの番組に出演し、9月の代表選への出馬について問われ「民主党の代表になってもならなくても政権交代のために頑張る」と代表を降りる可能性があることを示唆した。また、地方分権については、「日本には、革命が必要。国と地方の権限を見直す。」と発言した。
2008年4月15日の記者会見で、衆議院山口2区補欠選挙で敗北した場合、与党がガソリン暫定税率税を再議決で戻すことはやむを得ないか、また今後山口県に入る予定があるかと問われて、「個々の選挙戦と政策はイコールではない。480のうちの1議席でどうのこうのというのはちょっと乱暴な言い方だと思う。しかし支持を得て(補欠選挙で)勝つことは非常に意義のあることなので頑張りたい。必要ならもう一度(山口県に)入る」と回答した[7] 。
- 民主党の掌握
衆議院山口2区補欠選挙、沖縄県議会議員選挙での勝利を受け、小沢代表の求心力は高まった。また、史上初の首相問責決議案の参議院可決を主導し、民主党議員が小沢代表のもとに結束した。
臨時国会の8月末招集の方針を受け、9月の代表選前倒し論が浮上。代表選後に党役員ポストが増加する参院幹部が臨時国会に向け態勢を整えるため、「国会が始まる前が合理的だ。党内の人事を陣立てして臨時国会に臨むべきだ。」といった前倒し論が拡大した。前倒しにより準備の整っていない対抗馬の立候補を封じることができるため、小沢代表の3選が確実視される[8] 。党内に異論があったため代表選は9月に決まったが、鳩山幹事長、野田広報委員長を始め民主党ベテラン議員、若手議員が小沢体制の継続を支持したため無投票再選がほぼ確実である[9] 。
国会運営
民主党時代の小沢の国会での論戦は、前原前代表の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『「日本改造計画」』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。
2007年12月、国会の会期中に、民主党の国会議員46人を率いて中国を訪問し、衆参本会議が数日間中止になるなどの行動が国会軽視と非難された。小沢は民主党の反対で国会審議が滞ったことを棚に上げ、「安倍首相の突然の辞任や自民党総裁選のゴタゴタで国会日程が逼迫したのが原因であり、批判されるいわれはない」と発言した。
2008年1月の新テロ特措法の採決日、国会を採決直前に退席し、マスメディアの批判を受けた。対して小沢氏は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。新テロ対策特措法について「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。こうした日本の状況に対して米国や英国では、採決に議員全員が出席しないことを前提としたシステムで議会が運営されており、議員は自分の仕事の優先順位によってはあらかじめ投票を行い採決には欠席するのが普通であるが、党議拘束のある日本では採決前から結果が決まっていることがほとんどである。[10] 。ただし、これ以外でも国会を途中退席、欠席することがしばしばあり、一部マスメディアの批判の対象となっている。
主な政治的主張
最初の著作である「日本改造計画」でネオリベラリズムを主張した。
民主党代表時代にはリベラル色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張した。
- 外交、防衛政策
- 基本姿勢
- 外交では、先の戦争に対する反省を踏まえて、一つには人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和の確保、もう一つは人間と自然との「共生」、つまり地球環境の保全を、日本が率先して進めることを主張した。
- 世界の国々、特に米国とは対等な相互の信頼に基づく関係を積み上げ、中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した[1]。具体的には、米国との真の日米同盟の確立、核廃絶、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。
- 東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。ただし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。
- 行く行かないは個人の自由。ただし公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。
- 靖国神社は戊辰戦争の招魂社だと言う問題がある。私は賊軍の岩手出身だ。
- 1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」 「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」 「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」等の発言があった。
- 2008年2月21日 朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。
- 核武装
- 日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)。
- 軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。
- 「専守防衛」に徹する。
- 憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。
- 憲法を一部改正して国連待機軍を創設し、自衛隊は国防に専念させる。
- 個別的であれ集団的であれ、自衛権は我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。
- 自衛隊の海外派兵
- 「集団的自衛権」(イラク戦争型)の行使 ‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。
- 「集団安全保障」(湾岸戦争型)の行使 ‐ 国連が承認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。
- 小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国連治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義を強調した。
- ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。
- なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。[11] 。
- チベットと中華人民共和国
- 2008年のチベット動乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した。[12]
- 憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案
- 与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。国民投票法案については日本国憲法の改正手続に関する法律を参照
- 法務
- 旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべき。
- 2008年に韓国大統領 李明博との会談で「在日韓国人への参政権付与を与えるのががもたもたしているのは遺憾に思っている」と成立に強い意欲を示した。
- 社会保障、年金問題
- 厚生年金、共済年金、国民年金、それに議員年金も含めすべての年金を一元化
- 1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。
- 消費税は5%のまま全額を福祉目的税化すると主張した。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力し、また「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。しかし、13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があった。
- 公務員改革
- 幹部職員の内閣一元管理。
- 公務員へのスト権の付与。
- 政官接触の自由化。
- 公務員の守秘義務違反の軽減。
- 公務員の天下りの廃止を主張したが、自民党に妥協し「天下りの合法化」に協力した
- 教育政策
- 与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。5歳から高校まで義務教育を広げると主張した。
- 「子ども手当て」と親と同居の「親手当」を主張した。
- 教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めないと主張した。
- 農業政策
- わが国の安全保障を確保するためには現在39%[2]に低下している食料自給率を先進国並みに高めることが必要と述べた。
- 農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について農家ごとの収入と費用の差額を補填する戸別所得保障制度を導入を主張した。
- 他党、支持母体との関係
-
- 選挙協力
- 思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した(「参院選候補選定「直接やる。カギは1人区」」)。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。
- 大連立
- 民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で実績を示して政権担当能力を示す必要があると主張した。
- 労働組合との関係
- 未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。
人物
人物評
- 田中角栄の長男である正法(1947年、5歳で夭折)と小沢が同じ1942年生まれであったため、角栄は小沢を息子のように可愛がったとされた。
- 金丸信は小沢、羽田孜、梶山静六の3人を「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評した。
- 石原慎太郎は「私は彼を評価しません。あの人ほどアメリカの言いなりになった人はいない」と評した[3]。
- 周囲からは東北人気質も相まって朴訥な人物と評された。そのことから説明する努力に欠け、側近が離れる一因となっているとも指摘された。本人曰く「去るもの追わず。来るもの拒まず」。
- 党内外での小沢アレルギーの存在が指摘され、これは若手議員よりも自民党当時を知る議員により強いとされた。「独断専行、側近政治、顔が見えない」との批判や、自民党分裂とその後の分裂工作、新進党分裂・解党と、小沢自身の非常にしたたかな戦略がその原因に挙げられた。
- 自民党幹事長時代に、二日酔いで全国幹事長会議をすっぽかしたり、選挙で負けそうになると選挙の指揮を放り出して外遊に行っていたため、ワースト1幹事長という評価があった[13] 。
人物像
- 田中派から独立した経世会に所属した国会議員で唯一、田中の裁判をすべて欠かさず傍聴した。旧竹下派の中では唯一田中家・田中真紀子から許されているため、命日には田中家を訪問した。そのため親交が深く、田中真紀子の自民党離党、民主党会派入りに小沢は尽力した。また、「政治の父は田中角栄」と公言した。
- 「悪魔の使者」「豪腕」「壊し屋」「日本最後の政治屋」「破壊王」と称され、「政治とは権力闘争である」という政治観の持ち主であった。平成不況の最中、「政治改革などを主唱して権力闘争に明け暮れている」と、財界主流派からは批判された。
- 私生活では恐妻家として知られた。また、初当選後甲状腺癌を患い治療したことをTVで告白した。
- 新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。
- 自民党離党直前に発売した『日本改造計画』は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。
- 2006年4月の衆議院千葉7区 補欠選挙で党の広告に柴犬の「もも」を起用。補選で「もも」は小沢代表や候補者たちの応援に出向き話題をさらった。小沢によれば当時の小沢の飼い犬であった「ちび」と似ているらしい。
- 1999年4月に韓国を訪問した際、同月18日に日本の党幹部・閣僚クラスの政治家としては初めて(当時)となる、ソウルにある金九、尹奉吉、李奉昌、白貞基といった、嘗ての抗日独立運動家の墓地を参拝した。この事に関して、東亜日報は「新しい韓日関係のため韓国に近づこうとする努力の一環として評価している」と報じ、文化日報は「極右保守的なカラーを薄めるための高度の計算だとの指摘もある」と述べた。
- 歴史上の人物では、西郷隆盛を尊敬するものの、政治家としては、大久保利通を目指していると述べた。
- かつて田中角栄の懐刀だった小沢と福田の因縁の戦いは、「第二の角福戦争」と呼ばれた。しかし当人たちにはそのつもりが全く無いようで、福田を舌鋒鋭く批判する角栄の娘の田中真紀子元外相の方が注目され、これが真の「第二の角福戦争」だと見る向きもあった。
- 2007年10月、自民党の与謝野馨議員と囲碁で対決した。二人は政界きっての囲碁の実力者で2時間半の激戦の末、小沢が勝負を制した。小沢は「こっち(与謝野氏)は正統派だしね」、与謝野馨前官房長官も「(小沢氏との)最後の一局は、4、5年前、私が負けたんですよ」と互いに勝負の感想を述べた。また、12月には作家の渡辺淳一と囲碁で対決し、小差ながらも勝利した。
- 2007年10月、柴犬の愛犬「チビ」を失った。2008年、新たに柴犬の子犬2匹を飼い始め、毛並みの色から「クロ」、「チャイ」と名付けた[14] 。
- ニートについて、以下のように徹底した自助努力を要求した。またニートの親については、「僕は自宅で小鳥を飼っているが、親鳥はヒナが大きくなるまでは一生懸命に世話をするが、一定の時期がくると冷たいほど突き放して巣立ちさせる。ニートの親は動物にも劣るといっても過言ではない」と評し、その責任を激しく糾弾した[15] 。
- (ニート問題に関する発言)
- -本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。-
- -政府は「少子 高齢化の進む人口減少社会で、経済の活力を一段と失わせかねない」として、今後、ニートの就職支援に本腰を入れるというが、果たしてそんな次元の話なのか。僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。それでも働きたくないというなら、勝手にすればいい。その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。-
- 小沢は、日米、日中の交流が世界の平和と安定に不可欠と考えて、政治家としての公的な仕事とは別に自分のライフワークとして草の根レベルの国際交流活動を続けた。米国とは1990年に「ジョン万次郎の会」を立ち上げ、1992年に財団法人ジョン万次郎ホイットフールド記念国際草の根交流センターを設立した。2001年、日本に関心の高いシカゴ市の特定中学校の生徒を毎年20人程度日本に招待した。中国とは、1986年に第1回長城計画が中華全国青年連合会の協力を得て開催され、青年指導者、大学生を毎年数十名を招待した。国際交流活動は、実施団体とともに小沢事務所が担当したため、複数の外国人の大学院留学生が事務所で働いていた。
- 小沢は韓国人、中国人、台湾人およびイギリス人などの外国人秘書を受け入れている。このうち2000年に登用された韓国人女性[16] は、身分として国が雇い給与が高い公設秘書(公設第1・第2・政策担当)ではなく、私費で雇い給与の安い数十人の私設秘書の中の一人であった(韓国人が正式国会議員秘書に採用されたケースはこれが初)。この韓国人秘書は『駐日韓国大使館とも随時政局などについて情報交換を行っており』と述べており、また「世界韓民族女性ネットワーク」[17] に日本側代表として参加したこともある[4]。この団体は、欧米各国で従軍慰安婦に関する日本政府への抗議デモや集会を700回以上行っている[18] 。なおこの女性は小沢の秘書を務める傍ら東京大学の博士号を取得し、2008年5月に秘書を離職した後は大学院の教員に就任している。[5]
- 2008年7月15日、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した[19] 。
不祥事
事務所費問題
2007年 1月、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は『(小沢から)「東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した」と聞いており「全く問題ない」』と反論した。
自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。
2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。自由党、民主党からの収入が不動産取得に使用されたため、(個人の資産に)税金を投入したとの批判を受けた。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小澤一郎」の間で交わされたものになっている。 しかし『週刊現代』2006年6月3日号の記事「小沢一郎の"隠し資産"6億円超を暴く」に対する名誉毀損裁判の1審と2審で、不動産は陸山会所有のものとは認定できないという判決が出ている。小沢は控訴をしなかったため、講談社側の勝訴が確定した。
その後2007年10月9日、参院選で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。政治資金規正法は、預貯金や国債など以外での政治資金の運用を禁じており、同法に抵触する疑いもあるとの批判があった。 9日に民主党の鳩山由紀夫幹事長は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に誹謗中傷した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。
政策秘書公職選挙法違反容疑
第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。 青木氏陣営から「看板に政党ポスターを張って設置し、公示後に選挙運動ポスターに張り替えるよう」発注を受けていた。 印刷会社社長らは、実際に選挙ポスター付きの看板を立てたアルバイトらに「職務質問されたらボランティアだと答えろ」などと指示をしていたため、違法性を認識していたと判断し選挙運動員と印刷会社社長らが逮捕。 印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。 これに対し、小沢の政策秘書は「選挙違反ではない」と反論。小沢自身も8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。朝日新聞は8月30日の朝刊一面に「小沢氏秘書、立件へ詰め」という見出しの記事を載せた。しかし、9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件できないまま捜査を終結した。
エピソード
- 「どの女と寝ようといいじゃないか」(1994年、野党連合政権時代に新会派設立への動きを例えて)
- 「安倍内閣は脳死状態」(2007年、参院選敗北後の安部晋三首相の求心力低下を皮肉り)
- 「記者会見はサービス」(1993年、記者団に)
- 「給油法案は、国民にとって重要な法案ではない」(2008年、同法案の衆院再議決を欠席したことについて)
- 2007年5月16日の党首討論で小沢は安倍首相に対し、中央政府による公費の無駄の例として「融雪装置の設置とスキー場建設のセットでなければ政府の補助金を受けられず、国の補助金で建設されながら12年間全く利用されずに閉鎖された福井市内のスキー場」を挙げた。しかし、その後、安倍首相から「小沢さんが出したスキー場の例は海部内閣のときに交付措置をしたもので、当時は小沢さんが(自民党)幹事長を務めていた」と、暗に小沢の責任を指摘された。
- 2008年、次期日銀総裁候補として政府が提示した武藤敏郎副総裁に民主党は反対し、「ではどんな人ならいいのか」との酒席での若手議員からの質問に「東大じゃない、文系じゃない、男じゃない、官僚じゃない...」と答えた。「そんな人はいるのか」と聞かれると小沢は岩手弁で「いるわけないっぺよ」と笑った[20] 。
所属議員連盟
- 憲法調査推進議員連盟 [21]
- 民主党東北議員団連盟
- 民主党日英議員連盟
- 北京オリンピックを支援する議員の会顧問
選挙歴
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 |
比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
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当 | 第32回衆議院議員総選挙 | 1969年12月27日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 71,520 | 26.71 | 1/6 | - | - | |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 60,675 | 19.18 | 2/8 | - | - | |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 71,449 | 21.98 | 1/6 | - | - | |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 70,183 | 21.52 | 1/7 | - | - | |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 72,838 | 22.27 | 1/8 | - | - | |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 63,212 | 18.87 | 4/6 | - | - | |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 95,208 | 24.80 | 1/7 | - | - | |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 岩手県第2区 | 自由民主党 | 89,449 | 24.08 | 1/7 | - | - | |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 岩手県第2区 | 新生党 | 142,451 | 40.82 | 1/6 | - | - | |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 岩手県第4区 | 新進党 | 125,619 | 64.68 | 1/4 | - | - | |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年6月25日 | 岩手県第4区 | 自由党 | 119,099 | 59.70 | 1/4 | - | - | |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月9日 | 岩手県第4区 | 民主党 | 128,458 | 65.11 | 1/4 | - | - | |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年9月11日 | 岩手県第4区 | 民主党 | 124,578 | 59.95 | 1/4 | - | - | |
当選回数13回 (衆議院議員13) |
一族
家族・親族
- 実家
- 父・小沢佐重喜(弁護士、政治家)
- 母・みち
- 自家
- 他家
系譜
- 小沢家
竹中藤右衛門━━┳寿美 (14代) ┃ ┣竹中宏平━━竹中祐二 ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┃ (元首相) ┃ ┃ ┏竹下勇造━━━━┳竹下登━━┳公子 ┃ ┃(元首相)┃ ┗武永貞一 ┣竹下三郎 ┃ ┃ ┃ ┗竹下亘 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣まる子 福田正━━━━━┳雅子 ┃ ┣福田実 ┃ ┗和子 ┃ ┃ ┃ 小沢佐重喜━━━━小沢一郎 ┃ ┗一子 ┃ 金丸信━━━金丸康信
文献
単著
- 『日本改造計画』(講談社、1993年5月、ISBN 4062064820)
- 『語る』(小林泰一郎構成、文藝春秋、1996年4月、ISBN 4163502106)
- 『男の行動美学』(プラネット出版、1999年9月、ISBN 4939110028)
- 『90年代の証言 小沢一郎 政権奪取論』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編、朝日新聞社、2006年6月、ISBN 4022501634)
- 『剛腕維新』(角川学芸出版、2006年8月、ISBN 4046210885)
- 『小沢主義(オザワイズム)―志を持て、日本人』(集英社、2006年9月、ISBN 4797671297)
共著
- 『日米関係を読む』(アジア調査会編、ジェームズ・ファローズ・松永信雄共著、プラネット出版、1990年11月、ISBN 4881913123)
- 『ジョン万次郎とその時代』(川澄哲夫編、廣済堂出版、2001年7月、ISBN 4331507963)
- 『政権交代のシナリオ―「新しい日本」をつくるために』(菅直人共著、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908)
関連文献
- 『小沢一郎の「真実」―金丸、竹下を手玉にとる剛腕幹事長』(アイペック、1990年、ISBN 4870471000)
- 『平成名勝負物語—橋本龍太郎vs小沢一郎』(小林吉弥著、勁文社、1990年、ISBN 4766912497)
- 『劇画 橋本龍太郎VS小沢一郎—激闘譜』(さいとうたかを著、日本フローラルアート出版局、1991年、ISBN 4930831008)
- 『小沢一郎の政治謀略―政界の裏の裏がわかる本』(菊池久著、山手書房新社、1991年、ISBN 4841300228 )
- 『小沢一郎探検』(朝日新聞政治部編、朝日新聞社、1991年、ISBN 4022563435)
- 『小沢一郎・全人像』(小田甫著、行政問題研究所出版局、1992年、ISBN 4905786908)
- 『平成動乱 小沢一郎の野望』(板垣英憲著、DHC、1993年、ISBN 4887240023)
- 『小沢一郎の秘密』(佐藤淳一著、データハウス、1993年、ISBN 4887181698)
- 『小沢一郎・日本改造計画の危険性』(本澤二郎著、エール出版社、1993年、ISBN 4753912345)
- 『小沢一郎の逆襲―ベールに包まれた政界再編のシナリオを読む!』(竜崎孝著、サンドケー出版局、1993年、ISBN 491493809X)
- 『あの人 ひとつの小沢一郎論』(渡辺乾介著、飛鳥新社、1993年、ISBN 4870311291)
- 『小沢一郎の腕力ポイント読み』(伊勢暁史著、明日香出版社、1994年、ISBN 4870307081)
- 『小沢一郎総理大臣待望論』(板垣英憲著、ジャパン・ミックス、1994年、ISBN 4883211541)
- 『どっこい小沢一郎は生きている 全発言で探る、この男の次の一手』(上之二郎著、ベストセラーズ、1994年、ISBN 4584191131)
- 『小沢一郎真実の叫び―これだけはいいたい 小沢は日本の未来に危惧を抱き、平和な国と社会のために改革を図る』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620778)
- 『小沢一郎日本国崩壊をすくう』(蒲生輝著、三心堂出版社、1994年、ISBN 4915620956)
- 『小沢一郎―覇者の履歴書』(奥野修司著、データハウス、1994年、ISBN 4887182457)
- 『小沢一郎の日本vs.武村正義の日本―あなたはどちらの国に住みたいか この2人がわかれば日本の将来が見えてくる』(小板橋二郎著、こう書房、1994年、ISBN 4769605080)
- 『池田大作vs小沢一郎 どうなる日本どうなる両雄の展開』(後藤寿一著、銀河出版、1994年、ISBN 4906436412)
- 『「小沢一郎日本改造計画」への挑戦状! 20代議員の描くキラリと光る改造計画』(「新党20代議員の会」編著、マネジメント社、1994年、ISBN 4837803431)
- 『河野洋平と小沢一郎の大戦略―宿命のライバル』(本沢二郎著、総合法令、1994年、ISBN 4893463829)
- 『悪魔の使者小沢一郎―あの強腕を裏で操るのは何者か 日本改造なんてとんでもない』(ヤコブ・モルガン著・忍野昭太郎訳、第一企画出版、1994年、ISBN 4887190166)
- 『小沢ウオッチング』(立尾良二著、東京新聞出版局、1995年、ISBN 4808305216)
- 『小沢一郎の時代』(板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810380300)
- 『お笑い大蔵省極秘情報』(テリー伊藤著、飛鳥新社、1996年、ISBN 4-87031-293-X)
- 『小沢一郎―その「恐怖支配」の実態』(久慈力著、マルジュ社、1996年、ISBN 4896161017)
- 『政治が歪める公共事業―小沢一郎ゼネコン政治の構造』(久慈力・横田一著、緑風出版、1996年、ISBN 4846196143)
- 『盛岡大学疑惑を追及する―教育を食い物にする紳士たち』(久慈力著、新泉社、1997年、ISBN 4787797158)
- 『拝啓小沢一郎党首殿』(松沢成文著、ごま書房、1997年、ISBN 4341017748)
- 『小沢一郎の行動美学』(三菟雅文著 プラネット出版社 1999年 INBN4939110028)
- 『小沢一郎の大勝負 竜馬か!? 悪魔か!?』 (板垣英憲著、リヨン社、2003年、ISBN 4576031910)
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』(板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769)
- 『政党崩壊―永田町の失われた十年』(伊藤惇夫著、新潮社[新潮新書]、2003年、ISBN 4106100231)
- 『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体』(松田賢弥著、講談社、2003年、ISBN 4062117061)
- 『永田町「悪魔の辞典」』(伊藤惇夫著、文藝春秋、2004年、ISBN 4166603884 )
- 『政治の数字―日本一腹が立つデータブック』(伊藤惇夫著、文藝春秋[文春新書]、2005年、ISBN 4106101173)
- 『小沢一郎の政権奪取戦略』(大下英治著、河出書房新社、2005年3月、ISBN 4309243347)
- 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』(大下英治著、幻冬舎、2006年8月、ISBN 4344408217)
- 『小沢一郎の真実』(平野貞夫著、講談社、 2006年9月、 ISBN4066213557)
- 『「小沢一郎」入門―カリスマの原点 小沢一郎は何を考えているのか』(森田実著、三笠書房[知的生き方文庫]、 2006年10月、 ISBN4837975887)
- 『政権交代―小沢一郎最後の戦い』(板垣秀憲著、 共栄書房、2007年7月、ISBN410405102)
雑誌関連文献抄
- 『現代 ×ばつ横路孝弘―民主党の両極 安全保障論で合意する」
- 『週刊金曜日』2005年1月14日号、「本多勝一の憂刻ニッポン―小沢一郎(上)現行憲法の下で「無血革命」を目指す」[6]
- 『AERA』2006年1月23日号、後藤正治「小沢一郎 思想政治家で終わるのか」
- 『世界』2007年11月号、小沢一郎「公開書簡 今こそ国際安全保障の原則確立を」
関連項目
脚注
- ^ 2008年2月22日朝日新聞(夕刊)
- ^ a b 田勢康弘「『緊迫』も『躍動』も消えた政治――大難を前に沈黙・保身...」『日本経済新聞』44003号、日本経済新聞社、2008年 7月21日、5面。
- ^ 民主・小沢代表、遊説疲れで休養
- ^ 朝日新聞 2008年2月9日 東京朝刊
- ^ http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080303AT3S0100X01032008.html 日銀総裁「武藤氏昇格案」・民主、反対姿勢強める, 日本経済新聞, 2008年3月3日
- ^ http://mainichi.jp/select/seiji/ozawa/news/20080402ddm002010062000c.html 毎日新聞 2008年4月2日
- ^ http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=13085
- ^ 2008年6月21日 朝日新聞
- ^ 2008年7月18日 朝日新聞
- ^ http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20080120-02-1301.html 日本人らしいということ
- ^ 自衛隊のアフガン派遣、政府が「合憲」解釈 2007年12月22日読売新聞
- ^ http://www.asahi.com/special/080315/TKY200804170263.html 『小沢代表、チベット問題で中国批判 「独裁政権の矛盾」』 2008年7月20日閲覧
- ^ 参考文献:奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』 (中央公論新社、2002年)
- ^ 「元気の源?かわいい子犬2匹 民主・小沢氏を毎晩お出迎え」2008年5月22日朝日新聞
- ^ 豪腕コラム 第226回(『夕刊フジ』2005年3月25日)
- ^ 小沢一郎・民主党代表を補佐する韓国人女性秘書
- ^ 世界韓民族女性ネットワーク開幕、380人が参加
- ^ 聯合ニュース2006年3月16日
- ^ 2008年7月15日 記者会見
- ^ 2008年3月11日東奥日報
- ^ 憲法調査推進議員連盟規約
外部リンク
- ■しかく小沢一郎ウェブサイト■しかく(公式サイト)
- 小沢一郎メールマガジン(公式メルマガ)
- 民主党岩手県連
- 小沢一郎 近現代・系図ワールド〜政治家系大事典〜
- 小沢一郎 写真特集 (小沢ショック-毎日jp)
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