1.プロローグ
奈良県の大門ダムは『ダム便覧2011』において、同県唯一の位置未確認ダムとなっています。このダムは平成23年5月時点で未竣工のため位置未確認(位置未確定)とされているようです。ダムの建設において着工後、基礎岩盤に難点が発覚して設計とは異なる位置に計画が変更されることも稀ではないようです。このため、大門ダムについては、正式に位置が確定するまでにはもう少しだけ時間がかかりそうです。
大門ダム建設予定地の奈良県生駒郡三郷(さんごう)町立野付近には、とっくりダム(型式=G)と大門池(型式=E)という既設のダムがありました。
とっくりダムは、堤高28m、堤長95.5mの重力式コンクリートダムです。また、貯水池は三郷町民が水道水源として利用している利水ダムとなっています。ところが、ダムの目的に「砂防」が含まれているためか、今までのところ『ダム便覧』『ダム年鑑』ともに収録されていないようです。
一方、大門池は『ダム年鑑』に記載されているアースダムです。『ダム便覧』は、明治以降に竣工したダムを対象としているため、大門池は対象外となっています。ダム便覧には登録されていないものの、大門池は法的にはダムとしての要件を満たしています。新たに建設される大門ダムは、大門池の下流に位置します。建設場所は生駒山地の南端です。戦国時代、松永弾正が爆死を遂げた信貴山城に近い急峻な地形の谷合です。
私が個人的に気掛かりであったのは、大門ダムの竣工による大門池の去就でした。
2.大門池
『ダム年鑑』の記載によれば、大門池は1799年竣工、堤高29.6m、堤長78.0mのアースダムとされています。この年代は寛政年間(江戸時代)にあたります。
一方『Wikipedia日本のダムの歴史』によれば、大門池は「1128年(大治3年)建設された」ダムであり、「高さが32.0メートルで紀元前に趙によって建設され当時世界一であったグコーダム(北宋)の記録(30.0メートル)を破り世界一の高さを有するダムに躍り出た」ということです。さらにまた、大門池の堤高の世界記録は「その後14世紀末にスペインのアルマンサダムによって破られるまで約300年間にわたり続いた」と記載されています。
いずれにしても、大門池は中世に建造された輝かしい歴史のあるアースダムです。再開発によって堤体が撤去されてしまうことには、少なからず戸惑いを感じました。
3.ダムの再開発
下流にあらたにダムが建設される場合、既存のダムを完全撤去することは、ほとんど行われないようです。通常は、新設ダムに影響を与えない範囲で旧堤体の一部削平やゲート撤去が行われるだけにとどまります。旧堤体を完全に撤去しないのは、主として費用の問題であると考えられます。
上流に残された旧堤体がコンクリートダムであれば、合理的な理由がない限り撤去しなければならない必然性はありません。フィルダムでも、石淵ダムは、胆沢ダムに水没させ、特に本体の完全撤去は行われない予定です。こうして、再開発においては、旧堤体を新しいダム湖に水没させるか、あるいはダムインダムの形式をとることになります。
いずれのケースでも旧堤体は物理的に存在を続けることになります。
大門池堤体下流面には、新規に建設される大門ダムの天端標高と常時満水位を示す標識が設置されていました。
このことから大門ダムが竣工しても、現在の大門池の堤頂部標高の方が高いことがわかります。したがって、大門池堤体に改変がなされなければ、大門ダムが完成しても旧アース堤体は湖上にその姿を見せるということになります。一つだけ問題があるとすれば、旧堤体の構造がアースダムであるということです。もっとも、下流に重力式コンクリートダムができた後にも上流のアース堤体が存在しているというケースも例外ではないようです。
このような事例をレポートしたブログがあります。重力式コンクリートダムの再開発の例として西山ダム、上流にアースダムが残った例として大日川ダムが紹介されています。詳細はリンク先をご参照ください。
大門池は前述の通り、とても歴史のあるアースダムです。大門ダムが完成した暁にも、その雄姿を残し続けて欲しいものと願っておりました。しかし既に、大門池は撤去される運命にあることが大門ダム建設工程表に記載されていました。
大門池は、奈良県の調査によれば満水時に震度5弱程度の地震で堤体法面が崩壊する恐れがすでに指摘されていました。現在は、この指摘を受け水利組合では満水以下の水位で運用しているようです。
実際に、地震で決壊したダムとして藤沼ダムがあります。
4.藤沼ダム
平成23年3月11日、東北太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。この地震で歴史に残る甚大な被害が発生したことはご存知のとおりです。藤沼ダムは、福島県では「中通り」と呼ばれる内陸部の須賀川市に位置していました。報道によれば、藤沼ダムはこの地震で決壊し、7名もの尊い命が奪われたということです。(1名の方が、なおも行方不明。)
今度の震災に対して、私も募金や義援金等できる範囲のことをしてきたつもりです。しかしながら現状、義援金の配分は遅々として進んでいないようです。そこで現地を訪れ、消費をすること(まことに雀の涙程度で恐縮ではありますが...、)で東北の観光産業に少しでも活気を与えることができればと思い5月の連休に東北地方に行くことにしました。
須賀川市には福島空港がありますが、これまで一度も利用したことがありません。新幹線でも須賀川市は「新白河」と「郡山」のほぼ中間に位置するため、このようなことがなければ一生涯訪れることがなかったかもしれません。
レンタカーのナビは、震災による通行止めを完全にはフォローしていないようです。あまり土地感のない道路を迂回し、藤沼ダムに向かいます。かくて、ダムから1.5kmほど下流に位置する県道の橋まで到着しました。橋の下流側の欄干が大きく曲がっています。あの日、巨大なエネルギーの塊が橋の上を横切って行った「つめ跡」です。
上流側の欄干は残っていませんでした。上流側に欄干がないのは流出したためか、あるいは県道の通行に支障を及ぼすほど折れ曲がったため撤去されたのか詳細は不明です。確実に言えることは、ダム決壊時にこの場所を通行中で土石流に巻き込まれていたら、およそ命は助からなかったということです。
道路は途中で車両通行止めとなりました。そこで車を止めて、徒歩で数分進みます。水のない湖底が見えてきました。藤沼ダムに到着しました。ダムの跡地で犠牲者に手を合わせて黙とうを捧げます。目の前にあるダムの被災状況は思った以上に深刻なものでした。
堤体左岸寄りには一部の盛土が残留しているものの、右岸部分はほとんど流出していました。対岸(右岸)に記念碑のような岩が残されているのが遠望できました。
石碑と思った岩は、近くで確認すると記念碑でも何でもない単なる大きな岩でした。落石でしょうか、それとも濁流の中から飛び出した上流の岩塊でしょうか。少なくとも他所から人為的ではない何らかの方法で運ばれたということだけは明白です。この岩は、アスファルトを直撃して亀裂を生じさせ、ポールに衝突してこの場所に留まっているようです。巨大地震の凄まじさを物語る証拠です。
5.大門ダム
いよいよ、大門ダムの建設工事が本格化しました。
コンクリートが打設されプレキャストの監査廊がクレーンで降ろされます。下流域の住民の生命と財産を守るために、強い使命感をもって一人一人が作業に従事されています。頭が下がる思いです。
日没後、照明を点灯して工事を行うこともありました。
換言すれば、私たちの最先端の技術をもってしても小規模ダムを一夜で完成させることは不可能なのです。緊急地震速報ともに0.1秒で防災ダムが出現する。このようなことは、現代の技術では絶対に不可能です。私たちは、将来の災害に備えて毎日少しずつ対策を講じ続けなければならないのです。
「数百年確率の災害のために、いま対策したところで仕方がない。」という思考回路は、明らかに失当です。
6.エピローグ
災害に強い国土を作るためには、小さな努力の積み重ねが必要であるという現代人の宿命をあらためて認識させられました。
アースダムである大門池は、適切な管理を続ければ数百年の寿命を保つということを、身をもって証明しました。大門池は大門ダムとして生まれ変わります。順調に推移すれば、大門ダムの完成は平成24年3月頃であるそうです。
東北地方のほとんどのダムが無傷な中で、藤沼ダムの事故はきわめて特殊な例であると思いました。専門家が多方面から検証し、この事故の原因を究明しなければなりません。この事故で亡くなられた方のためにも決壊事故を絶対に風化させてはなりません。
資料を調べてみると、とっくりダムの位置には、かつて「トックリ池」という溜池があったようです。昭和40年代に、トックリ池は重力式コンクリートダムに生まれ変わりました。大門池は同じ重力式コンクリートの大門ダムに使命を譲り渡します。それぞれが、重力式コンクリートダムとなって奈良県の農業を支えます。
藤沼ダムは、アースダムとして生まれたダムです。原因が明らかになった後は、再び、アースダムとして復活することを期待します。
東北農業の復活が、日本復興のカギを握るはずです。
がんばろう日本! 上を向こう東北!
(2011年6月作成)
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