1.井谷池の所在地
三重県松阪市は、松阪牛として知られる高級和牛の産地です。松阪市は平成の大合併で近隣町村を合併し、今日では三重県下第2位の面積を有するに至っています。人口でも、四日市市、津市に次ぐ第3位の規模を持っています。井谷池は、この松阪市で位置未確認とされていたアースダムでした。
ダム便覧2010では、
北緯34度29分23秒,東経136度26分44秒 【位置未確認】
と記載されています。
地図で確認すると、この場所には比較的大きな貯水池があります。その右上流にある2つの貯水池のうち1つが「井谷池」の位置であることになります。すでにダム便覧のフォトアーカイブスには先人が多数の写真を投稿しており、この池が「井谷池」である確実性が高いものと思われます。
2.『北谷池』
地図で一番大きな貯水池を長男、次に次男、最後にもっとも小さいものを三男と勝手に名付けます。長男がダム便覧に掲載されていないのは、堤高が足りないためであり、三男も同じ理由で非掲載あることは容易に想像できます。しかし、次男は法的にダムと認定できる堤高を持ったため三兄弟を代表してダム便覧に登録されるに至ったようです。
現地に到着します。次男と面会するためには、下流の長男右岸を経由しなければなりません。すでに長男の湖尻にはアース堤体(=次男)が顔を出しており、堤高という基準は十分クリアーしているものと感じました。
この貯水池群の盟主である長男右岸には「北谷池」という竣工記念の石碑が設置されていました。これが長男の正式な名前のようです。湛水面積は広いものの実際に堤体を見ると、事前の予測通り15mには少し足りないものと判断できます。
石碑の裏面には、この堤体が平成18年に竣工したことが記載されています。しかし、平成10年に出版された地図にもこの池が描かれています。したがって、碑文中の「平成18年」は、この池の大規模改修工事が竣工した年と解すべきです。石碑には肝心の堤高は記載されていません。余水吐を観察する限り本格的なフィルダムのようにも見えます。
しかし前述通り、河川法上のダムの定義は満たしていないようです。
3.井谷池?
北谷池右岸の道を進み、目的地に向かいます。井谷池は堤高19mほどのアースダムです。
現地に到着しました。相当の高さがあることは実感できます。仮に次男が「井谷池」ではなかったとしてもダム便覧に掲載される資格を有しているものと思えます。この堤体は全体を撮影するポイントを探すのが難しいようです。この写真はあくまでも、中腹にある犬走より上の部分です。実際はこの約2倍の堤高を有しています。
名称解明の手掛かりとなるものを探しましたが、「井谷池」であることを示すものは何も確認できませんでした。
池のほとりで、犬を連れて散歩をしていた方に遭遇しました。
地元の方と思われましたので、この池のことについて尋ねてみます。すると、意外なことに、この方は次のような話をしてくれました。
●くろまるここでは昔から、あの池を「中池(ちゅういけ)」と呼んでいる。
●くろまる自分は農家ではないので正確なことは分らないが、中池はあなたが訊いている「井谷池」という別名では呼ばないと思う。第一そのような名前は、聞いたことがない。
●くろまる地元の住民は、ここで一番大きい池を「大池(おおいけ)」、あの池を「中池(ちゅういけ)」そして、この奥にある小さな池を「小池(しょういけ)」と呼んでいる。
●くろまる恐らく、この溜池の一連の名前が石碑にある「北谷池」ではないか。これが正式な名前であろう。
●くろまるあなたが訊いている「井谷」という名前は、この山の向こう側の谷の地名なので、そちらではないか。
以上のような内容でした。
長男=大池、次男=中池、三男=小池で、一家の名字が「北谷さん」ということです。
さっそく、井谷という場所に向かうことにしました。しかし、「山の向こう側にある谷」への進入路がよくわかりません。日没も近かったため、井谷池の探索は後日のリベンジとしました。
4.『井谷池』
「山の向こう側にある谷」付近を、Yahooの航空写真で確認してみたところ、北緯34度29分4秒、東経136度26分2秒にそれらしいアース堤体が存在することが分りました。
後日あらためて、現地を再訪することにします。地図では、国道166号線から分岐する道を進むと目的地に到達できるはずです。分岐する道は、とても目立たないT字路でした。後で「井谷林道」という名前であることが判ったこの道路は、一応アスファルトで舗装が施されてはいます。しかし、普段ほとんど利用されていないためか、路上には小さな落石がゴロゴロしています。
林道入口にはロープやチェーンなどバリケードの類はありませんでしたが、安全のため徒歩で進むことにします。国道から目的地までは林道を歩いても、あまり遠くはないはずです。なお、数週間前にこの場所からそれほど遠くない中学校付近で、小熊の目撃情報があったようです。松阪市のHPにも注意が促されています。人里近い所ではありますが、念には念を入れてクマよけの鈴も装備します。こうして急勾配の林道を歩くこと10分程度で、貯水池に到着しました。
堤体は、目測でも高さ20m程のしっかりとしたものでした。余水吐は、おそらく近年改修工事を受けているものと見られます。満水の貯水池から、静寂な山間に静かに越流しています。この池の周辺には人家は全くありません。堤体付近には、名称確定につながる石碑等は見当たりませんでした。
帰路、崖下に潰れかかった看板のようなものを発見しました。看板は笹で覆い隠されるような状態であったため、往路には気がつきませんでした。そして、この笹を取り除けてみるとこのようなものでした。
やはり、この堤体が「井谷池」である可能性が高いようです。
5.農業用水
溜池は、関東では房総半島、関西では大阪府泉州地区・兵庫県南部など古来より水利に不便であった場所に集中的に作られています。河川から安定的な農業用水が得られれば、溜池を作る必要はありません。溜池やダムは、安定的な農業用水を確保したという意味でやはり「人類の英知」と言えるものだと思います。
農業用水といえば水田を連想し溜池は稲作に関連した農業土木構造物であるという認識があります。しかし、一般に稲作を行っていないヨーロッパにもアースダムが多数存在するようです。
Pendigo Lake(イギリス バーミンガム市郊外)
イギリスにある溜池は、牧牛・牧羊を目的としたものだということです。牛も羊も草食動物です。その飼料となる牧草を育成するためには、常に一定の農業用水を確保しておく必要があるということでした。郊外にあるこの貯水池は、本来の用途のほかに市民の憩いの場としても利用されているようです。
三重県は、他県に比して一級河川が多くあります。これは水が豊かな平野が広がっているということではありません。むしろ急峻な山間部に狭い平野が織りなす地形が、大変複雑であることを意味しています。このように水利に不便であった集落に造られたアース堰堤は、お米だけではなく国産和牛を育てる牧草地をも潤して来たのです。水は生命の源であるということを再認識しなければなりません。
【平成23年5月 追記】
その後、日本ダム協会さんに調べていただくと、井谷池の位置は、やはり井谷林道の途中にある池であることが確定しました。しかし、さらに詳細な調査の結果、堤高が10mであったということです。このため、アースダムには該当しないことが判明しました。井谷池は、ダム便覧からは削除されます。
(2010年12月作成、2011年5月修正)
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