1. はじめに
広島県の大崎上島町には3つの位置未確認ダムがありました。
ダム便覧2011ではそれぞれ次のように記載されています。
■しかく観音谷池 北緯34度14分49秒,東経132度53分17秒 【位置未確認】
■しかく上地下池 北緯34度13分45秒,東経132度51分54秒 【位置未確認】
■しかく清水谷ダム 位置情報なし
大崎上島町は、瀬戸内海に浮かぶ大崎上島にある自治体です。かつて、この島には東野町・大崎町・木江町という3つの町が存在していました。これらは平成の大合併により統一され、島全体が単一の大崎上島町として新たにスタートすることになりました。
瀬戸内海には岩礁のような無人島から多数の人口を擁する島まで数々の島があります。かねがね日本地図を見て不思議に思うことがあります。岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋以東の島々は、ほとんど全てが香川県の所属になっています。「岡山県ののど元まで香川県が根こそぎ奪っていった」という印象です。
これに対して、西側は広島県・山口県・愛媛県の各知事が協議をしたように瀬戸内海の島々を領有し合っています。都道府県の面積ランキングでは、最下位の香川県も、海面の部分を含めれば相当な実力者なのかもしれません。
近年、瀬戸内海の主要な島は、橋梁で結ばれ、本州・四国と陸続きになっています。安芸灘の島々も連絡橋で本州と陸続きとなり、行政区画上、広島県呉市に編入されました。しかし、大崎上島は現在でもフェリーが唯一のアクセス手段です。
上記3つの位置未確認ダムについて、2つは推定位置が記載されています。この位置情報と河川名を頼りにこれらの位置未確認ダムが解明できそうです。小さな島の川の流域面積は、それほど広いものではありません。ゆえに、離島の位置未確認ダムは河川名を一つの手掛かりにすべきであると考えました。
2. 大崎上島
位置情報と道路との関係を考慮すると、竹原港(広島県竹原市)から白水港(大崎上島町)に渡り、観音谷池、上地下池を確認した後に清水谷ダムを探すのが合理的な経路となりそうです。竹原−大崎上島間は、フェリーで30分程度です。日中は毎時1便〜2便運航されています。
白水港でフェリーを降り、県道を進みます。県道沿いには、小さな溜池をいくつも見かけます。真水は、1滴たりとも無駄にしない。瀬戸内海に浮かぶ島の水事情の厳しさをあらためて知らされました。
?@ 観音谷池
観音谷池は、原下(はらげ)川に建設されたアースダムです。位置未確認ではありながらもダム便覧には推定される位置情報が記載されていました。
「原下」という交差点付近で地元の方に溜池について聞いてみます。すると、この場所より山側に大きな溜池があるということでした。便覧記載の位置情報によれば観音谷池は、この交差点より海側に位置するはずでした。
●くろまる目印は、工務店の看板を左に曲がって...、坂を下りて...。
●くろまる名前は、あやふやじゃけん、大崎島では大きな溜池じゃけに...。
島ではトップクラスの溜池であっても、恐らく本州ではごく平凡なアースダムと映るかもしれません。しかし、今回はあまり馴れないフェリーを利用してこの島に来たのです。本日宿泊予定の広島市内に戻ることが可能なフェリー出航時刻まで時間を有効に活用しようと考え、少し寄り道をすることにしました。
目印とされた工務店付近で「土石流危険渓流」の標識があるのが確認できました。この標識はかなり色あせてはいましたが、「原下川水系原下川」の文字を判読することができます。設置者は「大崎町」で、これは旧町名のままこの場所にあるようです。「原下川」はダム便覧記載の観音谷池の河川名と一致しています。それにしても、島の河川は写真の通り極めて小規模なものです。
教えていただいた場所にあったものは、本土では何ら変哲のないアースダムでした。予想通りです。ところが大きな河川のない瀬戸内海の島では、この池はあたかも黒部ダムのように君臨している存在であったのです。
現地では石碑や標識など、この池の名称を確定させる物的なものは見つけられませんでした。
住宅地図で確認してみると、やはりこの池が観音谷池であることが記されていました。この結果、観音谷池の位置情報は、北緯34度14分14秒,東経132度54分01秒付近に変更されることになりそうです。
?A 上地下池
上地下池(かみじしもいけ)は、大串川に建設されたアースダムです。上地下池についても位置未確認ながら、推定される位置情報が便覧に記載されています。
ダム便覧で上地下池の推定位置に到着してみると、予想外なことにコンクリート堰堤による貯水池が存在していました。上地下池はアースダムのはずですから、この場所が上地下池である可能性は少なくなります。
もっとも、○しろまる○しろまる×ばつ上池とペアを組むはずです。この堤体の上流部には、小堰堤を含めても上池に相当するものが見当たりません。このため、この場所が上地下池であるという可能性は限りなく低いものとなります。
下流側は樹木が生い茂り、堤体下流面を一望できる場所はないようです。堤頂から観察してみると、砂防堰堤に特有の「水抜き」の穴はありません。その一方で下流面の勾配は砂防堰堤を彷彿させるように、絶壁を呈していました。
堰堤下流に沈砂槽のようなものが確認できました。小さな橋もあるようです。とりあえず、その場所に向かうことにします。この大串川に架けられた小さな橋には「浄水橋」というプレートが残されていました。このことから、かつてはこの場所が浄水場として利用されていたことが推測できます。
堰堤直下でこのようなものを見つけました。この中にはバルブの開閉に関係するものがあったはずです。
鉄製の蓋には、「大崎町水踏制水」という文字が確認できます。『水踏』は『水道』の異字とみなして問題ありません。この中には水量を調節する制水栓があったのでしょう。これらのことから、コンクリート堤体は、上水道用の水源として利用されていたことが確実になりました。しかし残念なことに、周囲を見渡しても廃墟の雰囲気が漂っています。
かつて、貴重な水道水源であったこの貯水池は、何らかの事情により放棄され、現在では農業用に転用されているようです。
タンクとして使用していたと思われる鋼製の筒からは樹木が成長しています。浄水場としての機能を停止してから相当の年月が経過していることが解ります。事実をありのままに述べれば、廃墟から遺跡に進行しつつある状況です。
堰堤は非常に薄いコンクリート堤体でした。ほぼ水平な天端橋梁もあり、また越流部の形式から砂防堰堤であるとも断言できません。ダム便覧では清水谷ダムの堤体積が2千立方メートルと記載されています。これは、重力式コンクリートダムとしては、異常値ともいえるほど少ないものです。このほか、堤長・堤高ともにダム便覧に記載されている清水谷ダムのスペックに符合している感触です。
しかしながら、堤体はあくまでも大串川に位置しています。清水谷ダムは、清水谷川に設置されていたはずです。堤体の諸元は、清水谷ダムに一致していると思われるものの、河川名が異なります。
探してみた限りでは、コンクリート堰堤の名称につながる標識などは見つかりませんでした。
さらに、住宅地図でも確認しましたが、残念ながらこの場所については名称が何も記載されていません。
?B 清水谷ダム
ダム便覧によれば、清水谷ダムは清水谷川に建設された重力式コンクリートダムで、目的はW(上水道用)となっています。清水谷ダムについては、推定される位置情報がありません。所在地は、「大崎上島町白石」と記載されていますが、同町に「白石」という地名は見当たりません。旧地名あるいは誤記かもしれません。
いろいろ調べたところ大串川に近い「明石」という地名の場所で、総九郎川の支流に清水谷川が存在することがわかりました。地図には、ダムや貯水池らしきものは記されておりません。
この清水谷川と思われる場所付近で、農家の方に話を伺うと、
●くろまる確かに、この川のことを清水谷(しみずだに)川と呼んでいる。
●くろまる清水谷川の上流には、あなたが訊いているような池やダムなどあるはずない。
●くろまる生まれてこのかた、ここでずっとみかんを作ってきた。過去にもこの谷にダム計画がもちあがったことなど聞いたことがない。
ということでした。
清水谷川といっても、写真の通り私たちの通常の認識でいう側溝のレベルです。当日は水さえ流れていませんでした。瀬戸内海に浮かぶ離島の水事情の現実を痛切に感じます。
ダム便覧の記載では、清水谷ダムは「清水川水系清水谷川」とされています。今回、私が訪れた場所は、厳密にいえば「総九郎川水系」の「清水谷川」になりますので少し調べが甘かったのかもしれません。
?C 仮説
上地下池と清水谷ダムについては、結局その全貌を明らかにすることができませんでした。
上地下池の所在地とされる「大串」という地名の場所を調べたところ「恋地下池」という池があることがわかりました。この池に行くためには果樹園(みかん畑)の中を通らなければならないようです。立入の許可を得るため農作業中の人がいないかどうか声をかけてみましたが、園内からは反応がありません。李下に冠を正すことは、厳に慎むべきです。このため、今回はこの池の堤体までは確認していません。
一つの仮説として「上地下池」は「恋地下池」の誤記もしくは別名であることを考えました。ただし、「恋地」は「こいじ」と読むようです。
水道水源確保を目的に建設された清水谷ダムが、位置未確認のままとなっているのは、少なからず腑に落ちません。仮にダム年鑑の記載に誤りがあって、清水谷ダムの設置河川が「清水谷川」ではなく、「大串川」であるとするならば、大串川にあったコンクリート堤体が清水谷ダムであると考えられます。しかしこれもまた仮説にしかすぎません。
ところで、常に水不足と戦ってきた瀬戸内海の離島の行政が、浄水施設を廃墟同然に放置しても大丈夫なのでしょうか?水道用水の確保は一体どうしているのでしょうか?
3. 広島水道用水供給事業
今日では、大崎上島を含む安芸灘諸島の水道用水は、海底送水管を使用して本土から供給されるようになりました。これは「広島水道用水供給事業」として広島県が主体となって実施しているものです。この事業は昭和46年に着工、水道供給は昭和49年4月から開始されたということです。大串川にあった浄水場施設は、この水道供給開始から程なくして使用休止になったものだと思われます。
?@ 高瀬堰
太田川にある高瀬堰(左岸所在地:広島市安佐北区)は、可動堰としては必ずしも大規模なものではありません。ところが、この堰は、中国地方最大の都市である広島市の治水・利水に重要な役割を果たしています。このため、国土交通省太田川河川事務所高瀬分室が管理にあたっています。また、高瀬堰は、ダム年鑑・ダム便覧ともにダムとして登録されています。
この高瀬堰右岸にある説明板「高瀬堰のあらまし」では、高瀬堰で取水された水が瀬戸内海沿岸部に送水されていることが解説されています。水源となるダムは、昭和49年に完成した土師ダムです。なお、平成14年からは太田川上流の温井ダムも水道水源として利用開始され、送水事業はより心強いものとなりました。
「高瀬堰のあらまし」にある図は多少し古く、呉市側から伸びた送水管が大崎上島で止まっています。現在では、竹原市と大崎上島間の安芸灘海底送水管が供用開始(平成14年7月)され安芸灘の島々と本土との送水管のループ化が完成しました。
「水道用水供給事業概要」広島県公営企業部発行パンフレットより
竹原市側からの送水管は、大崎上島に近い長島まで海底に敷設されています。さらに、長島から大崎上島までは、長島大橋とともに水管橋として海を渡っています。
長島大橋(一部塗装工事中)、前方は中国電力大崎火力発電所
海底送水管が一方通行ではなく環状(ループ)になっているのは、地震などの災害で部分的に破断しても水道供給に支障がないように計画されているためです。
?A 土師ダム
土師ダムは、広島県安芸高田市にある国土交通省直轄のダムです。ダム湖名は、合併で安芸高田市に編入された旧八千代町の名前から八千代湖となっています。
八千代湖右岸に設置された分水取水塔からは中国電力によって最大22トン(毎秒)の水が取水されています。この水は導水トンネルを通じて中国電力の可部発電所に送られ発電機を回します。その後一度、太田川支流の根ノ谷川に放流され、再び高瀬堰に貯水されます。
こうして、高瀬堰左岸の高陽取水口から取水された水は、瀬野川浄水場(広島市安芸区)・宮原浄水場(呉市)を通じて広島市をはじめ、瀬戸内海沿岸の地域に供給されて行きます。土師ダムから導水された水は2次・3次...、と利用され、多くの人々の日常生活を陰から支えているのです。
土師ダムは、江の川上流部に建設されたダムです。江の川は島根県江津市に河口がある一級河川です。すなわち本来、日本海に注ぐはずであった川の水が、水力発電所を経由して導水され瀬戸内海で生活する人々に役立つようになったのです。水力発電所からの放流水いわば『産業廃棄物』が、有効に再利用されているのです。"廃棄物"というのは、あくまで比喩的な言い方です。このように、発電で一度使われたものが有効活用されるのは他の発電方法では真似 のできない芸当です。
歴史的に水不足に苦労してきた瀬戸内海沿岸に住む人々は、日本海側に住む人々から水を譲ってもらうことにより生活が激変したに違いありません。当然ですが、土師ダム建設のために住居移転を余儀なくされた方々にも感謝の念を持ち続けなければなりません。
4. 栗原ダム
ダム便覧によれば清水谷ダムは、1951(昭和26)年に竣工されたことになっています。大串川にあったコンクリート堤体は、砂防のようであり砂防でもないような曖昧な堰堤でした。この堤体は、既存の砂防堰堤を改修してできたダムであった可能性もあります。
このような改修の実例として栗原ダム(広島県尾道市)があげられます。地元で門田貯水池堰堤として親しまれている栗原ダムは、砂防堰堤を改修して1950(昭和25)年に竣工したダムでした。竣工年から、栗原ダムと清水谷ダムはほぼ同世代ということができます。
栗原ダム(別名:門田貯水池堰堤)は、尾道市の水道水源として誕生しました。栗原ダムについての詳細な内容は、こちらをご一読ください。
雀の社会科見学帖 門田貯水池見学 その1
THE SIDE WAY 門田貯水池堰堤
これらのレポートにもあるように、栗原ダムは戦後の人口急増による水不足に対応するために既設の砂防堰堤を応急的に改修したものでした。ところが、このダムは、現在では、水道水源として利用されていないということです。
尾道市は同じ広島県が事業主体となって行っている「沼田川水道用水供給事業」(椋梨ダムなどを水源とする)のエリアです。県が供給する水道用水により栗原ダムは、水道水源としては利用されなくなりました。このように共通する過去の経緯には何か因縁めいたものを感じます。
また、少し考え過ぎかもしれませんが、栗原ダム・清水谷ダムともに本体施工者が「大成建設」となっています。スーパーゼネコンの大成建設さんは当時、砂防堰堤を利水ダムに改修する技法を得意としていたのかもしれません。
5. おわりに
一つの可能性として大串川にあったコンクリート堰堤が、清水谷ダムであると述べました。清水谷ダムの堤体積がきわめて小さいのは、戦後の資材不足の中、水需要の急増に対して緊急避難的に、砂防堰堤を改造して対応したと考えるのが妥当であるからです。
別の可能性として、清水谷ダムは、砂防堰堤に復職して総九郎川上流の谷に埋没し、人知れず自然に帰しているということもあるのかもしれません。
上述のことから、清水谷ダムは、位置が確定されたとしても現役で稼働している可能性はほとんど期待できません。ただし今後、海底送水管を全損させるような大規模な災害が発生したときに、自治体の自己水源として活用される可能性は考えられます。想定外の事態に備えて、町の秘密兵器として永遠に位置未確認のまま静かに見守った方がよいのかもしれません。
最後になりましたが、大崎上島の人々
・自転車で買い物に向かうご婦人
・みかんを一生懸命育てている農園主
・道路工事の交通整理の警備員さん
・昼間からお酒を飲み岸壁で釣り糸を垂れていたおじさん
・島では数少ない売店にアイスを買いに来た子供たち
皆々が、海底送水管で本土から水が送られて来ていること。その水を確保するために中国山地にダムができたこと。こうして安心できる生活基盤が整ったこと。これらの事実を常識のように知っていました。そして、見たことのない遠方のダムに感謝して生活していることをご報告します。
節電の夏、打ち水をすると冷却効果があるといわれてきました。
水道から水が出るのは、ダム建設のために苦労された多くの先人のおかげです。
蛇口をひねれば水が出るのは当たり前ではないことを知ったうえで、水は大切に使うべきです。
限りある資源を譲り合って有効利用することが、日本復興への第一歩のはずです。
追記
三高ダム(広島県江田島市)は、旧日本海軍が海軍兵学校の水道水源として建設したものです。
江田島市もまた「広島水道用水供給事業」により送水を受けている地域です。現在、三高ダムは再開発され、農業用のダムとして利用されています。
旧海軍築造のダムを嵩上げ(三高ダム)
雀の社会科見学帖・三高ダム見学 その1
(2011年8月作成)
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