いま何かを知りたいとき「Googleで検索」するのではなく、ChatGPTをはじめとした「AIに相談」する人が増加しているという。それはなぜなのか?30万部超・新書大賞2025受賞作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)著者で文芸評論家の三宅香帆さんが解説する。
※(注記)本稿は、『Voice』2025年6月号を抜粋・編集したものです。
コンテンツ履修社会
「報われたい」という欲望が現代の若者を読み解く一つの鍵である。
たとえば、昨今の流行語に「履修」というものがある。「あのドラマ、すでに履修済みだわ」「このジャンルはまだ履修できてません」といったように、コンテンツをすでに観たり読んだりし終わった状態を「履修」と言う。大学の授業の単位を取るように、話題のドラマやアニメを観ることを呼ぶ語彙である。
ここにあるのは、「物語を味わうこと=行動としての過程」だけではなく、「物語を履修し終わったという事実=報酬としての結果がほしい」という感覚ではないだろうか。つまり、物語を味わうという現在進行形の体験だけでなく、物語を履修し終わったという現在完了形の体験にも、フォーカスが当たっているのだ。話題のコンテンツをすでに知っているという状態、それこそが「履修」なのである。
こういう流行語を紹介すると「そんな映画やアニメの鑑賞を『履修』なんて言ってて楽しめるの? 大学の授業みたいに物語を楽しんでも、意味なくない?」と感じられる方もいるかもしれない。しかし、そのように思ったあなたは、「体験だけではなく報酬もほしい」という欲望について誤解している。体験はもちろん楽しむのだ。しかしそれ以上に、観たという体験が報われた状態がほしいのだ。
まさに大学の単位で考えてみれば、わかりやすいかもしれない。ある授業を受けて、先生が話していることそのものも面白い。しかしそれだけではなく、授業を受けたという体験が報われた結果――単位もほしい。そりゃそうだ、と理解できる。話題のコンテンツを鑑賞することもまた、同じような感覚になっているのではないか。報酬あってこその、行動なのだ。
アイドルのライブを楽しむだけではなく、アイドルを応援した結果がほしい。ドラマを楽しむだけではなく、ドラマを観てよかったという正解がほしい。仕事の面白さだけではなく、仕事で成長できたという証がほしい。アニメを観ることを楽しむだけではなく、アニメを履修したという事実がほしい。
――報われたい。
行動の報酬があってこそ「報われ度」が高まる。実体験に対して報われ度が上がれば上がるほど、手が伸びるのである。
ググるからジピるへ...報われたい若者たち
従来、仕事や勉強や恋愛といった努力を必要とする側面においては、報われることはたしかに重要視されていた。しかし現代においては、余暇もまた資本主義の内部にあり、時間効率の良さを求める人が多い。 すると、同じお金や同じ時間をかけるならば、報酬が多いほうがいい。
たとえば2024年4月に発売開始された「キリンビール 晴れ風」は、3カ月で300万ケースを突破するヒットを見せた。このビールには、味だけでなく、「ビールの売り上げの一部が地方の桜や花火に寄付される」という寄付の仕組みへの共感が集まったのだという(日経クロストレンド、2024年8月2日)。
つまり、ビールを味わうだけではなく、このビールを買うことでさらに寄付が可能になる、という消費が報われた感覚があった。この仕組みこそがヒットを生み出したのではないか。結果的にキリンビール株式会社は、年間販売目標を上方修正するにまで至っていた。
もはやCDは曲を聴くためのものではなく、推しを応援するという報われ方のために買うものとなっている。あるいはアニメはストーリーを楽しむだけではなく、履修したという結果、報酬を同時にもらうことが重要になる。ドラマも鑑賞するだけではなく、考察して作者の正解を当てるという報われ方をしたほうが面白く感じる。すると世の中には、どんどん「報われ消費」とでも言うべき現象が増えていくのではないか。
――と考えたところで、いま最も広がっている「報われ消費」とは何か。
それは、AIではないだろうか?
最近しばしばSNSで見かける言葉をご存じだろうか。「チャッピー」というものだ。これ、何かと言えば、生成AIのChatGPTなのである。
そしてその派生なのか、ChatGPTを使うことを、「ジピる」と呼ぶ人も増えているのだという。
ChatGPTに何かを尋ねることは、Google検索に似ている。自分の聞きたいことや知りたいこと、やってほしいことをAIに打ち込み、答えを出してもらう。ググることとジピることは、一見よく似ている。もはや回答の精度が異なるだけではないか、と思うかもしれない。
しかしChatGPTに打ち込むことと、Google検索をすることの最も大きな違いは何か。
それは、AIの提示した正しい回答以外を知る余地がない、ということだ。
Google検索後にヒットするブログやサイトは、年代も作者もさまざまなものであることが大前提だった。Googleに掲載された情報を提出するのは、それぞれ別個の人間たちである。私が書いた記事も、大手出版社の公式サイトも、10年前に書かれた情報の古いブログも、それぞれが並んでいた。
アルゴリズムによってそれらの順番は並べ替えられるが、それでも書き手はさまざまな個人だった。そして、検索した私たちもまた、大いなる情報の渦から答えを選び取る必要があった。
しかしChatGPTに打ち込んで出てくる情報は、AIという、いわば「大きな個体」が取捨選択した答えである。もちろんいくつか回答を提示してくれることはある。出典となるさまざまなサイトを提示してくれることはある。だがそれでもChatGPTが提示するものは、Google検索のように、さまざまな人間の声から「私たちが選ぶ」回答ではない。「ChatGPTが選んだ」回答である。
これは決してマイナスな事象ではない。正しい検索結果を求めて複雑な取捨選択を行なう必要はなくなったし、古い情報は切り捨てられるようになったので、間違った回答を私たちが行なうことも減った。
結果として、問いに対して必ず正しい回答が返ってくるという「報われ度」が上がったのだ。
同じ問いを発しても、Google検索より、ChatGPTのほうが「報われ度」が高い。
なぜなら、正しい回答を、提示してくれるからだ。
「正解を提示する擬似親」としてのAI
ググるよりジピるほうが、報われやすい。なぜなら問いに対して、答えを提示してくれるからである。
――このような傾向はたしかに、これまで見てきたような「考察」を好む人びとと相性が良いだろう。考察とは究極、読者の切り口や視点(批評的観点)よりも、作者のもつ正解(考察的観点)を好む試みである。その場合、世界に受容者と発信者がいたとき、受容者の多様な解釈よりも発信者の唯一無二の正解を優先する。
ドラマを観たとき、自分の感想や解釈よりも、作者の提示する謎に対して回答を出し、そしてそれが正解するかどうかを重視すること。それが考察文化であるとき、ChatGPTというAIの提示する「正解」は、ドラマ以外においても重視されることになる。
考察文化とAIは、とても相性が良い。
なぜなら問いを提示した自分が納得できる「正解」を、AIは提示しやすいからだ。
......と書くと、AIのことをそんなふうに信頼できない、正解だと思えない人もいるよ、と思われるかもしれない。たしかにそうだ。私も、AIの言っていることは正しいのか? と苦笑するときがある。が、それはいまだけの話であると思っている。
AIは今後、もっと「正解を提示する擬似親」として受け入れられるようになるのではないか。
それが、私がこれまで現代のヒットコンテンツについて考えてきたうえでの、一つの予感である。というのも、Googleを使うとき、私たちはつねに「インターネットには嘘の情報もある」「インターネットは信頼できる情報を見極めることが重要だ」と説かれ続けてきた。それはGoogleという網(ウェブ)に存在する情報が、つねに、多様な人間の提示した解釈であるからだ。
しかしAIは違う。人間の情報を吸い上げたうえで、一つの回答という名の正しさを提示する、人工知能である。だからこそ人びとはあまり「AIの情報を信頼するな」とは言わない。
なぜなら、AIは正解の決まった情報を提示すること――たとえば将棋やプログラミングなど――がむしろ得意分野だからである。
AIをうまく使いこなせるかどうかは人間の技量であり、そこにあるのは、インターネットを信頼できないものとして警戒していた時代が遠くなっていく足音である。AIはむしろ人間よりも信頼できる、正しさを提示してくれる、問いを尋ねる私たちを報われさせてくれるものとして存在する。
ウェブからコクーンへ
では、世界には絶対的な正しさなんて存在するのだろうか?
もちろんそんなものが存在したら、戦争なんてとっくの昔に終わっている。国によって、解釈によって、利害によって、正しさは異なる。しかしAIは現代のAI文化圏(つまりデータを吸い上げる元ネタ)の場所における、とりあえずの正しさを提示する存在である。
つまり、もちろんAIの正しさとは、カッコつきの「正しさ」でしかないのだ。
AIの存在する世界について警戒を促す歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、まさにこの点について説いている。つまり、AIはGoogleがグローバル化し開いてきた社会を文化的に閉じ込める存在になるのではないか、ということだ。現状、中国のAIはアメリカのデータを使わずに中国文化圏でのみ作成されているのだ。
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これら二つのデジタル領域は、互いからしだいに離れていくかもしれない。中国のソフトウェアは、中国のハードウェアとインフラとだけやりとりし、シリコンのカーテンの反対側でも同じようなことが起こるだろう。デジタルコードは人間の行動に影響を与えるし、人間の行動はデジタルコードの在り方を決めるので、両陣営は違う軌道に沿って進み続け、そのせいでテクノロジーだけではなく文化的な価値観や社会規範や政治構造でも、両者の違いはいっそう拡がる可能性が高い。
人類は何世代にもわたって、一点に向かって収束してきた後、別々の方向へ発散していく、きわめて重要な転換点に立つかもしれない。過去何世紀もの間、さまざまな新しい情報テクノロジーがグローバル化の過程を推し進め、世界中の人々がしだいに緊密に接触できるようになった。皮肉にも、今日の情報テクノロジーはあまりに強力なので、異なる人々を別個の情報の繭(コクーン)の中に囲い込んで人類を分断し、人間として単一の現実を共有するという考え方に終止符を打つ可能性がある。ここ数十年間は、網(ウェブ)が私たちにとって主要な比喩だったが、未来はコクーンの中にあるのかもしれない。
(ユヴァル・ノア・ハラリ『NEXUS 情報の人類史(下)AI革命』柴田裕之訳、河出書房新社、2025年)
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ウェブからコクーンへ。この流れは、前稿で見たような「界隈化」する日本とも合致する。Googleによって開けてきた社会は、ChatGPTによって閉じていく。それはつまり、私たちが一時的でもいいから、と現代の文化圏におけるとりあえずの正しさを求めた結果なのである。
目に見える「正しさ」で報われるか?
界隈を越える冒険をする物語において、擬似親がある種のユートピアとして機能することを前稿で見た。私たちはいま、AIを擬似親として求める。なぜならもう、信頼できない情報に疲れたからだ。陰謀論やフェイクニュースにあふれ、データベース化されそうなくらいたくさんいるアイドルの濁流に呑み込まれ、情報が洪水のように湧き出る世の中において、「チャッピー」は、私たちが流れる川の中で、どうしてもしがみついてしまうような存在なのである。
ノーベル文学賞受賞者のカズオ・イシグロは『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房、2006年)のなかで、以下のような描写をしていた。
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「そうだな、キャス。君は優秀だ。君が君じゃなかったら、おれにも完璧な介護人だったんだけどな」
トミーは笑い、横に並んだままのわたしに腕を回しました。そして、こう言いました。
「おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついてる。必死でしがみついてるんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ? 残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から――ずっと昔から――愛し合ってたんだから。けど、最後はな......永遠に一緒ってわけにはいかん」
(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』)
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流れの速い川の中で、『わたしを離さないで』はそれでも二人がしがみつき合う様子を描いていた。それはまるで濁流の中で人間同士が出会っては喧嘩し別れてゆく様子を描いたかのようである。
しかしいま、人間にしがみつくことに、皆疲れているのかもしれない。人間はいつか「別々に流される」ことがわかってきたからだ。
批評よりも考察が好まれるのは、人間よりもAIを信頼することによく似ている。解釈より正解が好まれる。
ではAIのような、とりあえず目に見える「正しさ」にしがみつくとき、私たちは報われるのだろうか?
その答えは、きっともっと先にわかることだろう。
著者紹介
三宅香帆(みやけ・かほ)
文芸評論家
文芸評論家。京都市立芸術大学非常勤講師。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院博士前期課程修了(専門は萬葉集)。京都天狼院書店元店長。IT企業勤務を経て独立。著作に『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない——自分の言葉でつくるオタク文章術』、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』など多数。
関連書籍・雑誌
Voice 2025年 6月号
トランプ政権の狙い、様変わりする日本の国際収支、新しい産業政策やエネルギー政策、対内直接投資の可能性、さらには日本経済の大宗を占める自動車産業の勝利シナリオなどを検討し、激変する国際環境と日本経済の活路を考えます。巻頭には、澤田純・NTT会長のインタビューを掲載。自国ファーストと自由貿易のいずれを選ぶべきかという二元論的な議論に警鐘を鳴らします。