文献にみる補償の精神【44】
「ああ、光栄の三峡大ダムは、われわれの犠牲によったのだ」
(三峡ダム・中国)

古賀 邦雄
水・河川・湖沼関係文献研究会

これは、財団法人公共用地補償機構編集、株式会社大成出版社発行の「用地ジャーナル」に掲載された記事の転載です。

1.「長江哀歌」の二人

平成19年10月27日、福岡市天神の映画館で「長江哀歌」を観る。2006年ベネチア国際映画祭金獅子賞グランプリに輝いた作品である。
長江の絶景と三峡ダム建設を背景としながら、水没する、解体されていく古都・奉節(フォンジェ)の街が舞台である。この三峡ダムの現場に妻と夫を捜しにくる男と女を中心に物語は進む。

農民で炭鉱坑夫の韓三明(ハン・サンミン)は妻と娘に会うためにやってくる。出稼ぎ労働者(民工)として、ビルの解体工事の現場で働くうち妻と再会できる。そして、妻を迎えるために晴れやかな表情で山西省へ帰っていく。しかし、妻の借金を返すためにまた炭鉱で働かなければならないが。一方、看護師の沈江(シェン・ホン)は音信不通の夫の捜査である。いまでは夫は怪しげな商売をしており、女性とダンスホールを共同経営しており高級車を乗り廻す身分である。二人が話し合うシーンはほとんど完成した三峡ダムのダムサイトである。沈江は「私は好きな人ができたから、その人と明日上海行きの船に乗る」と嘘をつき、傷心のうちに奉節の街から去っていく。

この映画では、無残にも伝統ある建物が民工たちのハンマーによって壊されるシーンが幾度も写し出される。また移住者によるトラブルも描き出される。二人の男女が去っていたあとには、大河長江の景勝地、そして伝統や文化、二千年の歴史をもつ古都・奉節もまた消えていく。2009年の完成へむけて建設の三峡ダムは、いま北京オリンピックに向けて近代化を図る中国の姿を象徴している。それらの背景には三峡ダムによって113万人の水没移住者の存在がある。


2.三峡ダム建設の経過

「長江哀歌」は三峡ダム建設の一断面を描いたに過ぎないが、建設の是非をめぐる三峡プロジェクトの経緯について、載晴編著「三峡ダム−建設をめぐっての論争」(筑地書館・平成8年)と藤村幸義著「中国の世紀−鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」(中央経済社・平成13年)により追ってみた。

1911年 若いドイツ人、ビス夫妻が武漢から船で重慶まで下る
1919年 孫文(1886〜1925)が「建国方略」の中で、三峡ダムについて最初に言及
1944年 アメリカ開発局のサバーンが長江三峡の調査に基づき計画書を提出
1947年 国民党政府は三峡ダムに関する一切の設計作業を中止した
1949年 中華人民共和国が成立。長江水利委員会を設置
1953年 毛沢東(1983〜1976)が洪水制御の目的のために三峡地域のダムを提唱
1955年 ソ連の専門家により、三峡ダムサイトの調査実施
1956年 毛沢東は「江に石の壁を立て、坐峡を堰き止め、高き峡に平なる湖を作り出せ」の詩をつくる
長江流域企画弁公室(以下「長弁」という。)が設立
1958年 毛沢東は推進派の林一山と反対派の李鋭の意見を聴取、結論出ず
1959年 長弁は三斗坪地点を三峡ダムサイトに決定
1965〜75年 文化大革命が発生し、一切のダム建設準備作業を中止
1970年 三峡ダムの準備作業として、長江本流に葛州覇ダムを建設決定(1988年完成)
1973年 丹江口ダムが15年を経て完成
1981年 長弁は三峡ダムの段階的開発の方式を承認
1982年 水利部と電力部が合体、水利電力部を再建
1983年 「三峡プロジェクトのフィージビリティ調査報告書」を提出、150m級の高位ダムを承認
1984年 国務院は国家計画委員会の見解を受け入れ、175mのダム建設を承認
1985年 全人代で財政難のため審議を延期
「三峡工程論証指導小組」を結成
1986年 中国人民政治協商会議が38日間にわたって現地調査し、着工の見合せを勧告
カナダ政府は三峡プロジェクトの「フィージビリティ調査」のために874万ドルの贈与を行う旨を発表
1988年 カナダ世銀合同による調査報告発表、185mダム案早期着工を提案
1989年 戴晴編著「長江 長江」を出版。全人代の報告書が三峡プロジェクトの延期を勧告
天安門事件起こり、戴晴が逮捕。「長江 長江」が発売禁止となる。
1991年 国務院はダム建設への着工を承認、1993年に準備作業を開始されるべきとした
1992年 全人代で三峡ダムの着工を採決(賛成票1767票/反対177票/棄権644票/無投票25票)
国際水裁判諸(アムステルダム)は、三峡プロジェクトについて中国政府とカナダ政府に対し、人権、環境の面から敗訴の判断
1993年 三峡ダム建設事業実施の「中国長江三峡工程開発総公司」を設立
三峡ダム建設のために全国の電気料金を値上げ
1994年 三峡ダム着工
1995年 アメリカ政府は、アメリカ輸出入銀行による三峡ダムへの融資を見合わせる
1996年 通産省、三峡ダム事業に貿易保険適用、日本輸出入銀行も融資の実施を図る
1997年 日本の8社連合、発電機(14基)の国際入札に敗退、欧州勢が受注
長江本流を堰止め、第二期建設工事が始まる
1998年 長江で100年に1度の洪水(中流域で死者1320人)
NKKが高級厚板を受注。二灘発電所1号機を稼働。湖北省・姉帰県の新しい移転先が完成。朱鎔基首相が現地視察、品質管理を注文
1999年 武漢の雑誌「戦略と経営」が住民移転など、三峡ダムを批判
朱鎔基首相が住民移転政策の調整を指示
「南水北調」の「中央線」プロジェクトの測量、地質調査が完了
NKKがステンレス・クラッド銅板を受注。住友商事、三菱電気連合が変電設備の国際公開入札で敗退
2000年 日本の無償援助による荊江大堤防の補強工事完成
重慶市雲陽県の農民639人が上海河口崇明島に到着(初の外地移転)
コンクリート打ち込み機の一部崩壊(作業員3名死亡、負傷者30人)
2002年 第一次仮締切
2003年 第二期工事完成、一部発電開始
ダム湖の水位135mに達する
第三期工事開始
2008年 北京オリンピック開催
2009年 三峡ダム完成予定(ダム湖水位175mに達する)


3.三峡ダムの建設

三峡ダムは、1919年孫文が提唱して以来、その建設をめぐって長く激しい論争を重ねてきた。1992年全国人民代表大会において建設が採択され、1994年4月に着工された。第1期工事、第2期工事が完了し、現在、2009年の完成に向けて第3期工事が進んでいる。事業者は、中国国務院直属企業の「中国長江三峡工程開発総公司」である。

科学雑誌Newton臨時増刊「帰らざる三峡」(・ニュートンプレス・平成15年)によれば、三峡ダムの諸元について次のように記してある。

−三峡ダムプロジェクトの概要−
ダム
ダムサイト:湖北省宜昌県三斗坪
建設予定期間:1993年〜2009年
ダムの型式:重力式コンクリートダム
堤体の高さ:185m(通常水位175m)
堤体の長さ:2309.47m
右岸発電ブロックの長さ:584.2m
放水ブロックの長さ:483.0m
左岸発電ブロックの長さ:643.6m
コンクリートの使用量:2700万m3
ダム湖
貯水容量:393億m3
うち洪水を貯める容量:221.5億m3
面積:1084m3
長さ:約570km
通常水位:標高175m
発電所
年間発電量:846.8億kwh
発電機の数:26基(6基増設計画あり)
1基の発電能力:70万kw
総発電能力:1820万kw
事業費
総事業費(1993年5月時点の価格計算):
900.9億元
うち工事費 500.9億元
うち補償費 400 億元
物価変動や金利を考慮した総事業費:2039億元(1元=15円で、約3兆円)
水没関係
水没する市:13市
住民の移転:約113万人
水没する歴史的遺産:1208基


4.三峡ダム10の利点

中国当局は、「三峡ダム10の利点」について、次のように主張している。前述の「中国の世紀」を参考とした。

・洪水の防止:10年に1回の洪水を100年に1回に抑えることができる。1870年の大洪水の流量11万m3/sを7万m3/s〜7万7000m3/sに抑え、中下流の2300万ムーの耕地と1500万人の財産を守る。
・発電:発電能力1820万kw、年間発電量846億8000万kwhを起こす。
・水運:宜昌から重慶まで660kmであるが、危険箇所、単線航行箇所はなくなる。平均川幅1100mに広がり、1万トンの船舶が航行可能となり、水運能力は現在の年間1000万トンから5000万トンに増加し、コストも37%低下する。
・養殖:1150km2の水面の拡大によって、このうち700km2で養殖が可能となり、えび、貝、魚類など、さまざまな淡水水産物一大養殖池となる。
・観光:水位が上がることによって、「大足石刻」「高嵐」「小三峡」「神農加」の名勝地は新名所に生まれ変わる。
・生態保護:三峡地区の温度は夏に2°C下がり、冬には2°C上がる。樹木の成長には有利となり、住血吸虫病の拡散も防ぐことができる。
・南水北調:長江の水が北方に送られ北京などの華北地方の水不足が解消される。
・開発性移民:移転者は移転先地で家をつくり、道路や橋も建設され、地域の経済発展、生活向上を発展させる。
・環境浄化:発電で年間4000万トンから5000万トンの石炭使用が削減され、環境汚染が軽減される。
・貯水:約393億・の水を貯えることができる。

三峡ダムの発電は、ダムの上流側と下流側の水位差約71〜131mを利用して発電する。水路から取り入れた水は、ダム内部の鉄管を流れ下り水車を回して発電を行う「フランシス水車」と呼ばれる方式が採用されており、水は水車の下へ落ち、ダム下流へ流れ出る。発電機1基あたりの能力は70万kw、26基の総発電量1820万kw、年間の発電電力は846.8億kwhを生み出す。電力不足の解消に貢献できると同時に年間4000万〜5000万トンの石炭を削減することができる、と推測されている。

このように、中国当局は「三峡ダム10の利点」を挙げているが、観光、生態保護、開発性住民について、メリットのみをもたらすとは一概にはいえないようだ。


5.20万人の移民の子どもたち

三峡ダムの建設によって113万人の移住者がでた。移住者たちは、住みなれた故郷に永久に別れを告げ、新たな人生を歩みはじめた。子どもたちの移住者は113万人のうちに20万人にも及ぶ。子どもたちも大人たちと同様に故郷を離れ、転校を余儀なくされ、友だちとの別れ、祖父母との別離が続く、そして悲哀を体験する。

馮緒施著、家野四郎訳「長江三峡の移民の子どもたち(原題・三峡小移民)」(新風舎・平成19年)には、女の子王争艶(ワンチェンイェン)が一家をあげて、故郷湖北省から新しい土地宜市伍家崗区に移り住み、その喜怒哀楽の人生を歩みながら成長していく姿を描いている。
文成国は、この書の序で、20万人の移民の子どもたちに対し、次のようにエールをおくっている。

「小さな主人公たちが自分の故郷を熟愛し、自分たちを育ててくれた三峡を熟愛している。しかし、どうしても離れなければならなかった生活のなかで、この子どもたちは父母たちと一緒に毅然として故郷を去り、新しい土地で新しい生活を始めた。新しい生活はすべて挑戦で、苦しいこと、つらいことを経験し尽くした。わたしはこれらの物語を読むたびに、この子どもたちが家を捨てて国のために勇ましく前進する精神に感動して熱い涙がこぼれる、そして同時に、彼らがその貧困な立ち遅れた運命に別れを告げることに、深い喜びを感じるのだ。」


6.王争艶の移民生活

王争艶の移民生活について、「長江三峡の移民の子どもたち」により次のように追ってみた。

「長江三峡の西陵峡北岸に、香渓と言われる小川がある。香渓は底が見えるほどきれいで、泳いでいる魚が数えられ、まるで翡翠色のエメラルドが山々の間をはためいているかのようにみえる」

王争艶一家は、美しすぎる香渓に別れを告げた。
「みなさん、移民のみなさん、あなたたちは三峡ダムの工事のために自分の家を捨て、国家のために」涙が県長のほほを流れはじめた。たちまち広場には泣き声があちこちで起こった。現場のリーダーが出発命令を出した。

「この小屋がわたしたちの新しい家よ」また雑草の中へ出来かけのような家を指さして、「もう何ヵ月かしたら新しい家が建つから、今はこの掘っ建て小屋で辛抱するのよ」

「争艶はざぼんの苗を植える場所を選んだ。それは新しい家の前側だ。そこを選んだわけは、陽がよく当たり、土がよく肥えていることも当然その理由だが、もっと大切なことは、家の前へ植えておけば、将来大きくなって自分の家の風景になり、お祖父さんの家の前にある三本のざぼんと同じようになる」

「君たち、新しく来た移民の子どもたちかい?」
一人の女の子が、王争艶のクラスの主任のところへ連れていってくれた。
クラス主任は、若い先生で張治銀(チャンチーィン)という名だった。
先生は名簿に王争艶の名を書いた。それから特別に名前の後ろへ括弧して"三峡小移民"と書いた。

張先生が話し始めた。
「みんなね。わたしらのクラスには、たくさん小移民たちがやってきた。この子たちの故郷は、大きな山があって、人口が少なくたいへん辺鄙なところだから、普通語を習い覚えるのにとても不便なんだ。だから、この子たちは普通語が話せない。わたしたちみんなでほんとうに親切に普通語を教えてあげよう。」

「おまえたち、どうしてそんなに向円男をいじめるんだ?この子は三峡ダムの建設工事のために自分の愛しい故郷を離れて新しい学校へやってきた子じゃないか。三峡ダムの建設工事に貢献している子として尊敬しないといけないのだぞ」

「王争艶一家はとうとう新しい家に移り住んだ。新しい家は鉄筋に、セメント赤煉瓦を使った二階建てだ。そしてその裏には炊事場と豚小屋がある。」

働きすぎた王争艶のお父さんが病気で倒れ、入院した。
「作文のノートを持ってきてないのか?読んで聞かせておくれ」
王争艶は鞄からノートを取り出した。
「特等賞をもらった詩を読むわよ。いい?」
ああ、光栄の三峡大ダムは
われわれの犠牲によったのだ
ああ、偉大な三峡大ダムは、
われわれの献身によって
われわれのたくさんな両手を
百年の夢に託して
われわれの民族の魂を
世界の東方に立ち上がらせたのだ!

お父さんは、娘が捧げた詩のなかで静かに目を閉じた。

王争艶は父を亡くし、学費を納めるのに困るようになるが、奨学金が授与され勉学を続け、宜昌市の田家炳高校に学ぶ。そして、王争艶たちが三峡ダムの現場を訪れたところで、この書は終わっている。


7.百年の夢を託して

繰り返すことになるが、王争艶は病状に伏す父に自分が作った詩を読みあげる。この詩に「補償の精神」が生きているようだ。
「ああ、光栄の三峡大ダムは
われわれの犠牲によったのだ」
それは、113万人の移民たちの
「われわれの献身によって
われわれのたくさんな両手を
百年の夢に託して
われわれの民族の魂を
世界の東方に立ち上がらせたのだ。」と、讃える。
国家建設のために、子どもたち20万人もまた献身をもって三峡ダム建設の一翼を担った。このことが「補償の精神」である。

シネマ「長江哀歌」では三峡ダム建設による中国の人たちの光と影を描いた。とにもかくにも、中国の社会は大きな変革の真っ最中であり、2008年北京オリンピックが開催される。そして2009年には世界で最大のダム、三峡ダムは完成するが、「補償の精神」の成就は王争艶家ら移民者たちが貧困から脱却し、日常的に安定した暮らしができたときであろう。

(2009年9月作成)
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