当該に係る水没協議会は、秩父市に3協議会(浦山ダム対策協議会、浦山ダム建設地元対策協議会、浦山ダム対策同志会)と荒川村に1協議会(荒川村浦山ダム対策協議会)の4協議会があり、用地調査については、秩父市関係は昭和54年2月、荒川村は同年5月に立入協定を締結し、同年6月から調査を開始、昭和59年1月には物件調査を含め概ね完了して、昭和61年1月一般補償基準を提示、昭和62年4月妥結した。公共補償は平成3年3月妥結、特殊補償についても発電所は昭和63年3月、高圧電線路は昭和62年8月、漁業補償は平成2年3月妥結した。また、生活再建対策については、浦山ダムはすべて個人移転であり、代替地の取得等については埼玉県の協力を得るとともに、利根川・荒川水源地域対策基金により、利子補給を行うほか生活相談に応じた。
原石山関係者との交渉は、地主が原石山の実態をよく研究していたのか、立方買いの要求がでて解決が長引いておりました。しかし6月には原石山を発注したいと思っていましたので、結局最後は、奥さんも含めて話し合いの場を持ち、その帰り際、貴家は秩父市民の注目の的になっている、それくらいの名家だと思います。それが山のことで、かりかりしているとみんなの感情がどうなるか考えたことはありますか、と大きな声で言ったことがあり、それが功を奏したのか、数日後に妥結できました。おかげで31日入札と約束を果たすことができました。ところが、倉信所長は、翌日から体の具合が悪いわけでもないのに起きることが出来ず、次の日も辞令交付しなければならないのに、やはり起きられない。自分はストレスなどたまるような人間ではないと思っていたが、あれは相当ストレスがたまっていたのだろう。どこも痛くないし、頭はスカッとしているのに2日間も起きられなかった、という。
貴家は秩父市民の注目の的になっている、それくらいの名家だと思います。それが山のことで、かりかりしていると、みんなの感情がどうなるか考えたことはありますか補償の精神の底を流れているのは勘定と感情のぶつかり合いであって、この2つのカンジョウがどのようなカタチで折り合うかではなかろうか。倉信所長の一言がこの折り合いのカンジョウをつけたと思われ、ここに補償の精神の成立をみることができる。