【社会的要請によって公益事業を推進するのに、何故、地元町村にこんなにまで頭を低くして工事容認の懇願をしなければならないのか。工事のための土地立入り、調査、測量、あるいは機材搬入、運搬道路の改良、請負附託等にいたるまで、村に予め説明し了解を求めざるを得ないのである。この用地担当者の呟きは、全国的に共通するが、「泣く子と地頭には勝てぬ」と思いながらも、やはり、いかにして合意形成に向けて進むしかないだろう。
勿論、これだけの大工事を施工するには地元町村の協力を得ることは必要であり、つとめて村および村民と協調して事を進め、いたずらに刺戟しないようとの会社の配慮は分る。だからといって地元自体は当然に、これらの権限でもあるかの如くにその座にふんぞり返るとは、全くゲシかねる......。
「泣く子と、地頭には勝てぬ」とは、今でも尚実感として、われわれの肌にヒシヒシ戸感じることができるのである。ともあれ、そんな理屈よりも、今日はなんとかして話をつけたいものだ。】
【柱時計をあおぐと八時に近い。現在九州電力(株)の電源は、原子力が約40%を占め、水力、地熱、石炭、LNG、石油である。いまでは一ツ瀬川沿いの地区が無点灯であったことはとても信じられないが、S氏との補償解決は電力導入の先駆けとなった。
僅かに障子の隙間から風が入って、矢張り寒い、私は煙草をくわえて火鉢を抱いた手の中の魚か?副長の顔は気のせいか明るい。打ち合わせが終わった三人が出て来た。
吉?凶?、私は膝を直した。
座に着くやS氏は
「副長さん、千原さん、負けました。要求の百五十万円は撤回して協定価格の二万五千円をのみます、兜を脱ぎました。どうか今後も点灯問題に協力願います」遂に牙城は根底から潰え去った。かつてS氏が豪語した金城鉄壁も、所詮は、砂上の楼閣でしかなかった。】
【わたしたち一生を通じて今日のような嬉しい事はありません。世は原始時代と云うのに私達の地区はランプで一生を終わらなければならないか、又幾代の後世までまでも電気の恩恵には浴しえないかと思っていたのに、両発電所の建設により思いがけなく文化の光に恵まれた事は私共生涯通じての大きな喜びです。今は地区民揚げての感激でいっぱいです。交渉中は最後に至るまで駄目かとばかり思い続けました。建設所のあなた方と徹夜交渉して地区に帰って報告すると、まるで建設所の手先の様な事まで云われ情けないみじめさを感じた事はいく度となくありました。正に交渉決裂寸前と思われたとき、幸いに交渉妥結し今日この喜びに至りました事は誠に九電の御理解の賜と感謝いたします。】このとき、村民は総出で、手踊り、仁輪加、合唱などにより、点灯の喜びを最大限に表現している。
【あらゆる部門の補償交渉に、大なり小なりの至難さは当然のことであるが、人間感情の起伏の総てが相手となる、管財業務の難しさを痛いほど身に覚え、自分の器量のないのに腹立たしさを感じた。特に、個人補償については、東米良、西米良の両村ともに、即席の大ボス、小ボスや、自称有資産家の排出に手を焼いたが、その一つ一つが何とも形容しようのない複雑なものだった。優越、誘惑、脅迫から、愛情、憐憫にと移り、苦痛、謝罪、後悔と、しまいには妥協を余儀なくされているその他さまざまの、人間の持つ心理の織りなす綾の総てが、東西米良村の山中にあった。】と、自問自答しながらも、有力者と協議を重ねた。そして、昭和38年8月12日のことである。
【深夜突然の来客に慌てる家内を尻目にずかずかと上り込み、どっかと胡座をかいた開副長は偉丈夫そのものである。・補償金と銀行
「平川君。後藤氏がたった今妥結をしたぞ......」
口吻のあとは言葉にならず渋面となった。まさかと思わることがらだけに、私は吃驚した。瞳が霞み涙が止めどなく溢れた。】
【「九電が歩くところ銀行が来る。」これは水没者のじかの声である。5.補償の精神
「うにゃ、昔かい持っちょる土地を手離さんならんとじゃがかい、もちっと出してくりやれんどかい。」
「あなたの水没する財産からしても、その精神的な面も考慮して、この金額は相当大きいし......、銀行の方も言っとった様に、六00万という金はたいしたものだし、どぎゃんですな、思い切って解決していただけないでしょうか。」
同じ様な問答を繰返し、説得を続けて約一時間四十分後、頑固親父のAさんとしては割合に短時間に、いくらかすてばちながら口を開いた。
「ぜにゃ、何時くりやっどかい。そりゃ九電で銀行に入れちくりやっどかい。」快哉。これは解決を意味する。
Aさんとの交渉は今日で七回目であったが、これでうまく実を結んだ。】
【長い歳月土地の人々をはぐくんだふるさとの地区のあとが、そして通い慣れた道路このように、永倉三郎は、一ツ瀬ダムに尽力された凡ての方々に「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と言い切っている。この言葉こそ「補償の精神」を貫いている。
が歴史と感慨を残して忘却の彼方へ消えようとしている。
私達は五年間に及ぶ建設の過程をふりかえって、古いものが新しく生まれかわる為の犠牲と悲哀をあらためて思いおこして、目頭があつくなるのを禁じえないのである。そして私は心からなる祈りをこめて、凡てに対して只「有難う御座いました」「御苦労さまでした」と感謝の言葉を捧げたいのである。】