泥にまみれた嫁入り衣装 森本美喜恵(当時27歳)2.大渡ダムの建設
『 祖母が「もう、ここに(2階)いては命が危ない。泳げる者だけで逃げるかよ」
といいましたが、この嵐の中どうやって逃げられましょう。
いっそうだめならみんな一緒の方がいいと覚悟をきめました。
いろいろのことが頭の中を走馬灯のように駆けめぐり、涙がこぼれて仕方ありません。この秋には長かった独身時代に終止符を打って第二の人生への門出が待っていたのに......運命なんてなんと皮肉なものでしょう。心待ちにして色々と嫁入仕度も準備していたのに。−−−(略)−−−
それからどれだけ時間がたったのでしょう。
「命だけは助かったよ」
「まあよかった、よかった」
「これが夜なら水に流されていたろう」
それぞれの声が出るようになりました。
翌日の昼前から少しずつ水が引き始め、階段が一つずつ現れてきました。
−−−(略)−−−
それから二ヵ月たった十一月六日、結婚式をあげました。
式や披露宴だけでも大変なのに、嫁入り仕度が二度になり、家の修理など親たちの苦労は大変なものだったろうと感謝しております。』
仁淀川は、四国の雄峰石鎚山(標高1982m)にその源を発し、愛媛、高知両県にまたがって太平洋に流れる四国有数の河川である。流路延長 124km、流域面積は1560km2でその大部分は、山地であるが、下流域は、高知県の主要な農耕地帯をなし、最近は特に、園芸農業が盛んである。大渡ダムの建設経過をみると、昭和41年度に実施計画調査に入り、昭和43年度工事に着手、昭和46年7月損失補償基準妥結、昭和51年6月にダムコンクリート打設を開始し、昭和55年8月打設を完了した。そして昭和56年試験湛水を開始したが、翌昭和57年4月湖畔において地すべりが発生したが為貯水位を低下し対策工事を行い昭和60年10年湛水を再開、昭和61年7月試験湛水を終了し、11月に竣工、翌昭和62年5月大渡ダム管理所となった。
また、仁淀川流域は、台風の常襲地帯に位置すると同時に、わが国有数の温暖多雨地帯で、上、中流域の年間総雨量は、3500┝を越え、その殆どが、台風に起因しており、大洪水を引き起こす原因にもなっている。特に、昭和18年と20年には大洪水に見舞われ、各地に被害を受けたが、まだその復旧の進まぬ昭和21年の洪水ではついに下流地域において破堤するなど、大被害を与える惨事となった。これらを契機として昭和23年11月から建設省直轄による河川改修に着手したが、昭和38年8月洪水では基準点伊野においてやく13,000m3/sにおよぶ出水があり、しかも沿川一帯は近年益々土地利用の高度化、資産の蓄積が進んでおり、治水の安全度をさらに向上させることが重要になった。
一方、仁淀川は、年間を通じて流况が不安定であり、豊水渇水の差は河状係数1700と極めて大きく、地域開発において隘路となっていた。また、高知市は年々需要量の増加している水道用水の水源を仁淀川に求めた。
このような状況から仁淀川上流に洪水調節、不特定かんがい等用水の補給、水道用水の供給及び発電をあわせた多目的ダムである大渡ダムを建設したもので、この総事業費は約 780億円である。
『 そのためには立ち入り禁止の区域をきちんと明示しなければならないということで、上流・下流の締め切りから左岸・右岸の高いところへ、ずっとバラ線の柵を張りまして、「関係者以外、立入禁止」という札をつけたり、ダムの下流から入ってくるところ、前の村道のところ、ちょうどコンプレッサー室がありました曲がり角のあたりに黄色い線を入れて、「ここから先は関係者以外、立ち入り禁止」という表示をしたわけです。6.補償交渉の精神
機動隊は絶対に前に出ませんので、起業者と施工者が前に出て、そこで話し合いをするというか言い合いをした。最初は「工事をとめろ」、「いや、影響はない」という話し合いをしておりまして、3日ほどそれを続けましたが、向こうも、そう簡単なものではないという判断と、県のほうも、いつまでもというわけにもいかんので、「なんとか、もう1回、話し合いをしましょう」と。向こうは「工事をとめろ」というけれども、「それはできない。工事をやりながら話し合いはしましょう」ということで、さらに話し合いを続けていきましたが、最終的に回答をしたのは52年の春になってからでした。
建設省としては、「影響はない。ダム完成後、影響があった場合には、調査して、損害賠償の協議に応じましょう」という文書回答をして解決しました。』