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諫早茂門

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諫早茂門
時代 江戸時代前期
生誕 寛文3年1月1日(1663年 2月8日)
死没 延宝12年3月17日(1680年 4月16日)
別名 主馬之佐、豊前
墓所 長崎県 諫早市西小路町天祐寺
主君 鍋島光茂
肥前 佐賀藩
氏族 諫早鍋島家(諫早氏)
父母 諫早茂真
兄弟 茂門茂元
茂元
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諫早 茂門(いさはや しげかど)は、江戸時代前期の武士肥前国 佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)5代当主。

出自

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龍造寺隆信の又従兄弟家晴の玄孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。

龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。祖父・諫早茂敬の生母は鍋島直茂三女・彦菊。

略歴

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寛文3年(1663年)諫早邑主・諫早茂真の四男として誕生。寛文12年(1672年)8月6日、父・茂真が死去したため、四男ながら嫡出の男子として9月1日に家督を相続した。

延宝元年(1673年)にイングランド船「リターン号」が日英貿易の再開を求めて長崎に来航した際に、長崎港警備のために鉄砲隊を編成して諫早より派兵した。

延宝8年(1680年)3月17日死去。享年18。菩提寺の天祐寺に葬られた。家督は実弟・茂照(茂元)が相続。

諫早陣屋の設置

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諫早家が代々城主を務めた諫早城を、茂門が元禄12年(1699年)に財政難で補修が困難との理由から、破却し東麓に新しく諫早陣屋を築いたとする文献が見られるが、延宝8年(1680年)に死去しており、元禄12年に諫早家の当主なのは7代茂晴である。

参考文献

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諫早鍋島家5代当主
村中家

分家・支流

水ケ江家
会津龍造寺家
村田家
原田家
諫早鍋島家
多久鍋島家
武雄鍋島家
須古鍋島家

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