明帝 (南朝斉)
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明帝 蕭鸞 | |
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斉 | |
第5代皇帝 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 |
建武元年11月10日 - 永泰元年7月30日 (494年 12月22日 - 498年 9月1日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 蕭鸞 |
字 | 景栖 |
諡号 | 明皇帝 |
廟号 | 高宗 |
生年 | 元嘉29年(452年) |
没年 |
永泰元年7月30日 (498年 9月1日) |
父 | 蕭道生 |
母 | 江氏 |
陵墓 | 興安陵 |
年号 |
建武 : 494年 - 498年 永泰 : 498年 |
※(注記)幼名は玄度 |
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
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明帝(めいてい)は、南朝 斉(南斉)の第5代皇帝。姓は蕭、諱は鸞(らん)。高帝蕭道成の兄の蕭道生の次男。
生涯
[編集 ]幼い頃に両親を亡くし、叔父の蕭道成により育てられた。武帝蕭賾の死後、蕭子良とともに若き皇帝蕭昭業を輔佐するが、やがて蕭子良が死去した頃から実権を握り、蕭昭業、代わって皇位に就けた蕭昭文を次々に廃位・殺害し、ついには自らが皇帝となった。
蕭昭業に疑われた時、鄱陽王蕭鏘に庇われて事なきを得たが、即位した時に蕭鏘を殺した。在位中は皇室の権力の抑制策を採る一方で倹約を進め、地方からの進上も控えさせるなどの政策を行った。
有能だったが猜疑心が強い性格で、即位後に武帝の子孫を全員誅殺するなどの所業を重ねた。皇族を処刑する時、自ら毒薬の調合を命じながら焼香して涙を流す不安定な性格だった。
晩年は重病にかかり、道教に没頭したり服装を全て紅くするなどの行動に出たが、病は癒えず、永泰元年(498年)に崩御した。