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宣帝 (陳)

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(2016年9月)
宣帝 陳頊
第4代皇帝
陳宣帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵)
王朝
在位期間 太建元年1月4日 - 太建14年1月10日
(569年 2月5日 - 582年 2月17日)
都城 建康
姓・諱 陳頊
紹世
小字 師利
諡号 孝宣皇帝
廟号 高宗
生年 中大通2年7月6日 [1]
(530年 8月14日)
没年 太建14年1月9日
(582年 2月17日)
陳道談
后妃 柳皇后
陵墓 顕寧陵
年号 太建 : 569年 - 582年

宣帝(せんてい)は、南朝 の第4代皇帝。姓は

生涯

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陳道談の次男として生まれた。承聖元年(552年)に叔父の陳霸先侯景の乱を平定して京口に駐屯すると、南朝梁元帝が陳霸先の子弟の出仕を求めたため、陳頊は江陵に赴いて、直閤将軍・中書侍郎となった。承聖3年(554年)に江陵が西魏の侵攻により陥落すると、陳頊は関中に連行された。永定元年(557年)に陳が建国されるが、陳頊の身柄は北周に置かれたまま、陳の始興郡王に封じられた。永定3年(559年)に兄の文帝が即位すると、安成王に改封された。天嘉3年(562年)3月に北周から帰国し、侍中・中書監・中衛将軍の位を受けた。6月、使持節・都督揚南徐東揚南豫北江五州諸軍事・揚州 刺史となり、驃騎将軍に進んだ。天嘉4年(563年)4月、開府儀同三司の位を受けた。天嘉6年(565年)4月には司空に上った。

天康元年(566年)3月、尚書令となった。4月に文帝が崩御するにあたって、劉師知到仲挙らとともに陳伯宗の補佐を遺命された。陳伯宗が即位すると、5月に陳頊は司徒・驃騎大将軍・録尚書事・都督中外諸軍事となった。光大元年(567年)には劉師知や到仲挙らを排除して陳朝における独裁権を確立した。翌光大2年(568年)1月に太傅に進み、司徒を兼ねた。11月、沈太后の令により陳伯宗が廃位された。

太建元年(569年)1月、建康の太極前殿で皇帝位についた。太建2年(570年)4月には廃帝の臨海王陳伯宗を殺害している。即位後は水路の整備や開墾、流民対策や租税の減免などの内政に力を注いだ。対外的には太建5年(573年)に呉明徹の北伐により北斉から淮南地方を奪取した。しかし太建9年(577年)に北周が北斉を滅ぼして華北を統一すると、その圧迫を受けるようになり、翌太建10年(578年)の呂梁の戦いの敗戦によって淮南の領土のほとんどを失った。太建12年(580年)に北周で司馬消難の乱が起こると、これを支援し、その敗北後は亡命を受け入れた。

太建14年(582年)1月、病のために宣福殿で崩御した。

妻子

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后妃

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  • 柳敬言
  • 銭貴妃
  • 彭貴人
  • 曹淑華
  • 何淑儀
  • 魏昭容
  • 袁昭容
  • 劉昭儀
  • 王修華
  • 韋修容
  • 申婕妤
  • 王姫
  • 呉姫
  • 徐姫
  • 淳于姫
  • 施姫
  • 曾姫
  • 楊姫
  • 袁姫
  • 呉姫
  • 劉姫
  • 秦姫

男子

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42人の男子をもうけた。

女子

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  • 楽昌公主(徐徳言の妻、破鏡重円の故事で知られる)
  • 斉熙公主 陳浄玲
  • 寧遠公主(母は施姫。の文帝楊堅の夫人となった。)

注釈・出典

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  1. ^ 南史』巻10, 陳本紀下による。
先代
廃帝
皇帝
第4代:569年 - 582年
次代
後主
南朝の皇帝

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