蕭長懋
蕭 長懋(しょう ちょうぼう、大明2年(458年)- 永明11年1月25日 [1] (493年 2月26日))は、南朝斉の皇太子。文恵太子と諡された。武帝蕭賾の長男。字は雲喬。小字は白沢。
経歴
[編集 ]蕭賾と裴恵昭のあいだの長男として生まれた。その容姿はふくよかで、祖父の蕭道成に愛された。元徽4年(476年)、父の蕭賾に従って郢州に下った。昇明元年(477年)、蕭賾が湓城に駐屯して沈攸之を討つと、長懋は従軍して将帥たちの応接にあたった。秘書郎に任じられたが、受けなかった。輔国将軍の号を受け、晋熙王撫軍主簿に転じた。昇明2年(478年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、長懋は蕭賾の命を受けて建康に帰った。蕭道成の命を受けて東斎に府を置き、文武の賓客と交際した。建康の城中の軍はすべて長懋の節度を受けた。秘書丞に任じられたが、曾祖父の蕭承之の諱を犯しているとして就任せず、中書郎に任じられた。黄門侍郎に転じたが、受けなかった。昇明3年(479年)、蕭道成が禅譲を受ける準備をおこない、蕭賾が建康に帰還したが、襄陽を軍事上の要地として他族に委ねることはできないとして、長懋は持節・都督雍梁二州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・左中郎将・寧蛮校尉・雍州 刺史に任じられて出向した。
同年(建元元年)、蕭道成が帝位につくと、長懋は南郡王に封じられた。南朝で嫡皇孫が王に封じられたのは初めてのことであった。また、征虜将軍の号を受けた。かつて梁州刺史の范柏年が晋寿郡の李烏奴を降伏させ、氐の楊城・蘇道熾らを討ち平らげて、威名があった。宋末に朝廷は王玄邈を新たな梁州刺史として派遣したが、范柏年は李烏奴の勧めを容れて漢中に拠ったまま命を受けなかった。王玄邈がやってくると、范柏年は遅ればせながら魏興郡に移ったが、召還に応じようとはしなかった。長懋は范柏年が兵乱が起こすことを心配して、使者を派遣して范柏年を説得し、府長史に任じて、襄陽に出頭してきたところを捕らえて処刑した。建元2年(480年)、建康に召還されて侍中・中軍将軍の位を受け、府を置き、石頭に駐屯した。母の裴恵昭が死去すると、長懋は侍中の任を解かれて喪に服した。哀哭のあまり病にかかったため、石頭山から西州に移された。建元4年(482年)、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・征北将軍・南徐州刺史に任じられた。
武帝(蕭賾)が即位すると、長懋は皇太子に立てられた。永明3年(485年)、崇正殿で『孝経』を講義し、少傅の王倹はその講義の記録から太子僕の周顒に『孝経義疏』を編纂させた。永明5年(487年)冬、みずから国学で諸生に試問をおこなった。長懋は長年にわたって国学の教壇に立ったが、皇太子としては前代未聞のことであった。また長懋は竟陵王蕭子良とともに仏教を好み、六疾館を立てて窮民を養った。
永明11年正月丙子(493年2月26日)、病のために死去した。享年は36。諡は文恵といい、崇安陵に葬られた。蕭昭業が即位すると、文帝と追尊され、廟号を世宗とされた。
子女
[編集 ]脚注
[編集 ]- ^ 『南斉書』巻3, 武帝紀 永明十一年正月丙子条による。