斎藤孝治
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年2月4日) - 1917年(大正6年)8月22日)[1] は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。
略歴
[編集 ]古河藩士・斎藤三平の子[4] として江戸 駒込の藩邸で生まれた[5] 。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ[5] 。1875年 警視庁 巡査となり[1] 、西南戦争に従軍[5] 。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった[1] 。
1882年に代言人試験に合格し[5] 、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事[1] 。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった[1] 。1912年に弁護士業を廃業して公証人となった[1] 。
地方政界にも進出し、1899年に神田区から東京府会議員選挙に出馬して当選[6] 、府会議長も2期(1903年10月 - 1907年9月、1915年10月 - 1917年8月)務めた[7] 。
1917年8月22日、議長在任中に胃癌で死去[1] 。葬儀は明治大学の校葬として同月26日に谷中瑞輪寺で執行され[8] 、後藤新平・井上友一・高田早苗・尾崎行雄のほか、歌舞伎俳優や能楽師も[9] 多数参列した[8] 。
著書
[編集 ]- 『民事訴訟提要』 共著、明法堂ほか、1891年
- 『改正登記法全書』 青木嵩山堂、1899年
- 『改正刑事訴訟法釈義』 魁真楼、1899年
- 『新商法要義:訓註』 魁真楼、1899年
- 『改正府県制郡制釈義』 共著、魁真楼ほか、1899年
- 『改正日本刑法釈義』 共著、青木嵩山堂、1909年
- 『ポケット刑法:新旧対照』 共著、魁真書楼、1910年
- 『改正商法要義:訓註』 岡崎屋、1911年
位階
[編集 ]脚注
[編集 ][脚注の使い方]
参考文献
[編集 ]- 東恵仁 『明治弁護士列伝:肖像入』 周弘社、1898年
- 東京府 『東京府史 府会篇 第一巻』 1929年
- 大植四郎 編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262271 。
- 明治大学 『明治大学六十年史』 1940年
- 明治大学創立100周年記念事業委員会・歴史編纂委員会 『図録明治大学百年』 明治大学、1980年
- 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3