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後藤牧太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ごとう まきた

後藤 牧太
生誕 (1853年11月05日) 1853年 11月5日(嘉永6年10月5日)
三河国 宝飯郡下地村(現・愛知県 豊橋市)
死没 (1930年03月25日) 1930年 3月25日(76歳没)
東京府 東京市 本郷区西片町(現・東京都 文京区 西片)
墓地 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾
職業 教育者
肩書き 東京高等師範学校 名誉教授(1914年)
配偶者 せつ(西友輔妹)
子供 隆造、慶二、久(佐藤吉郎妻)
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後藤 牧太(ごとう まきた、1853年 11月5日(嘉永6年10月5日) - 1930年(昭和5年)3月25日)は明治時代から昭和初期にかけての日本教育者理科教育の先駆者で、「手工教育の開拓者」と呼ばれる。

来歴

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三河国 宝飯郡出身。
1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。翌年、下谷医学校に勤めたが、ほどなく慶應義塾に戻って勉学を続け、後には義塾の教員も務めた。
1872年(明治5年)生徒として通っていた英語塾のクリストファー・カロザースを慶応義塾の講師として紹介している。
1877年(明治10年)に東京師範学校雇教師、次いで同校訓導となった。
1881年(明治14年)には教諭に就任。
物理学の著書を多く執筆しており、1885年(明治18年)には、弟子であり当時群馬県師範学校の教諭であった滝沢菊太郎篠田利英柳生寧生とともに、簡易器械を用いた実験を中心とする教科書『小学校生徒用物理書』を出版した。
1887年(明治20年)からイギリススウェーデンに派遣され、帰国後は高等師範学校(筑波大学の前身)教授となり、 1914年(大正3年)7月に退官し東京高等師範学校名誉教授となった[1] 後も、没するまで講師として同校に勤務した。

明治16年(1883年)の大日本教育会結成より会員として参加し、大日本教育会・帝国教育会で32年間評議員を務め、名誉会員となる。また辻新次湯本武比古高津鍬三郎などと共に言文一致会を結成。帝国教育会の國字改良部の羅馬字書方取調委員の筆頭として、小西信八と共に国字改良に携わり、「かなのくわい」の有力者として活動した。
明治38年(1905年)慶應義塾評議員となる。
明治43年(1910年)当時千里眼として透視できるとされていた御船千鶴子に対し、理化学における実験重視を唱えた立場より、「かような封じ方では實驗が實驗とならない千鶴子の能力について斷定を下すに足るほどの實驗とわならない」と懐疑的な見方を示している。 墓所は多磨霊園(6-1-16)

栄典

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位階
勲章等

著作

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  • 「三十年前の慶応義塾」(『教育時論』第635号、開発社、1902年12月)
  • 「修学旅行の始まり」(『教育』第344号、茗渓会、1911年10月)
  • 「義塾懐旧談」(『三田評論』第229号、慶応義塾、1916年8月)
    • 「新銭座から三田時代まで」(『慶応義塾誌』 慶応義塾誌編纂部、1922年)
  • 「戦後に於ける我国の理科教育」(『現代教育』第52号、現代教育社、1917年11月)
  • 「留学生時代の思い出」(『科学知識』第4巻第8号、科学知識普及会、1924年8月)
著書・編書

脚注

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参考文献

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関連文献

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外部リンク

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筑波大学学長(高等師範学校長心得:1900年 - 1901年)
(高等師範学校長事務取扱:1899年)
 
前身諸学校・大学長
 
 
師範学校学長
東京師範学校長
体操伝習所主幹
高等師範学校長
東京高等師範学校長
 
東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所主事
東京帝国大学農学部附属農業教員養成所主事
東京農業教育専門学校
 
東京体育専門学校長
体育研究所長
東京高等体育学校長
東京体育専門学校長
 
国立盲教育学校長
 
国立ろう教育学校長
 
 
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図書館短期大学
図書館情報大学
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