島津忠厚
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 天明2年5月19日(1782年 6月29日) |
死没 | 弘化4年3月16日(1847年 4月30日) |
別名 | 雄五郎、因幡、安芸、久邦 |
主君 | 島津斉宣、島津斉興 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津重豪(異説では島津久徴の子)、養父:島津忠温 |
兄弟 | 斉宣、奥平昌高、忠厚 |
子 | 久徳、忠喬 、娘(島津久陽室)、娘(島津忠公室) |
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島津 忠厚(しまづ ただあつ)は、今和泉島津家第8代当主。
生涯
[編集 ]天明2年(1782年)5月19日、出生し、次兄の奥平昌高が中津藩主を相続した翌年かつ長兄の島津斉宣が薩摩藩主となった天明7年(1787年)6月、前藩主島津重豪の実子(三男)として幕府に届けられる。
「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では加治木島津久徴の子とされている。また、「鹿児島県史料集」の『家譜』では旗本で佐土原藩分家の島之内島津家当主の島津久般(式部少輔)の密子(都合上、認知出来ないために存在が秘密になっている子)が生母とされている。
父の従兄弟の島津忠温の遺跡を相続し、今和泉家の当主となる。文化6年(1809年)、重豪の孫の島津斉興が藩主に就任すると、その後見を務めた。
文政8年(1825年)、隠居して家督を忠喬に譲る。弘化4年(1847年)3月16日死去。享年66。
参考文献
[編集 ]- 林匡「島津氏の縁組--島津氏の縁組. 重豪・斉宣・斉興を中心に」
- 「鹿児島県史料」『伊地知季安著作史料集六』
- 「鹿児島県史料集」『家譜』
宗家 | |
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総州家 | |
奥州家 | 氏久 1363-1387 | 元久 1387-1411 | 久豊 1411-1425 | 忠国 1425-1470 | 立久 1470-1474 | 忠昌 1474-1508 | 忠治 1508-1515 | 忠隆 1515-1519 | 勝久 1519-1526 | 貴久 1526-1566 | 義久 1566-1587 | 義弘 1587-1602 | 家久 1602-1638 | 光久 1638-1687 | 綱貴 1687-1704 | 吉貴 1704-1721 | 継豊 1721-1746 | 宗信 1746-1749 | 重年 1749-1755 | 重豪 1755-1787 | 斉宣 1787-1809 | 斉興 1809-1851 | 斉彬 1851-1858 | 忠義 1858-1897 | 忠重 1897-1968 | 忠秀 1968-1996 | 修久 1996-現在 |
分家・支流 | |
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播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
相州家→ 垂水家 | |
豊州家 | |
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