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岡野繁蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡野繁蔵
生年月日 1894年 6月4日
出生地 静岡県 志太郡青島村
没年月日 (1975年07月16日) 1975年 7月16日(81歳没)
出身校 育英学校中学科中退
所属政党 民主党
称号 従五位
勲四等 瑞宝章

選挙区 静岡県第1区
当選回数 1回
在任期間 1947年 4月25日 - 1948年 12月23日
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岡野 繁蔵(繁藏[1] 、おかの しげぞう、1894年(明治27年)6月4日 [2] - 1975年(昭和50年)7月16日 [3] )は、大正から昭和期の実業家政治家衆議院議員(1期)。「南洋の貿易王」と称された[4]

児童文学作家の岡野薫子の大伯父にあたる[5]

経歴

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静岡県 志太郡 青島村南新屋(青島町を経て、現藤枝市)で、岡野和吉の二男として生まれる[2] [4] 高等小学校を経て私立育英学校中学科[注 1] に進んだ[3] [4] 。2年次に瀬戸川の氾濫で実家が被災したため学校を中退し、藤枝駅前の丸十運送で住み込みで働く[2] [4] 。育英中学に教師として赴任してきた橋本清之助と知り合い、社会教育団体の修養団藤枝支部の結成に関わった[4]

1914年(大正3年)にスマトラの雑貨商・豊原辰熊から青年の紹介依頼を修養団の蓮沼門三を通して聞き、同年、東洋貿易[注 2] に入社した[2] [4] 。本店支配人、バタヴィア支配人を歴任し、1919年(大正8年)に独立してスラバヤに大信洋行を設立した[2] [3] [4] 。1922年(大正11年)にはスマランに支店を開設した[4] 。続いて1933年(昭和8年)にトコ千代田百貨店をスラバヤ、バンドンに開設し、さらに、バタヴィア、ジョクジャ、マゲランなどにも開店した[3] [4] 。しかし、太平洋戦争勃発により事業を断念して東京に引き上げた[4]

1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙静岡県第1区から民主党所属で出馬して当選し[4] 、衆議院議員に1期在任した[3] 。この間、民主党常議員会副会長、同国際貿易部長、同静岡県支部長などを務めた[3] 第24回総選挙で落選した後に体調を崩し、長野県 野尻湖畔の別荘で静養する[4] 。その後、同地の周辺を別荘地として開発し、亡妻の名にちなんで「ふみの丘」と名付けた[4] 。また、東京都内でカレーチェーン「サモワールおかの」を経営した[4] 。1975年(昭和50年)7月11日、勲四等 瑞宝章受章[1] 。同月16日死去、81歳。死没日をもって従五位に叙される[6] 。墓所は青山霊園

著作

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  • 編『青年会情况彙集』宗徳書院、1915年。
  • 『日蘭会商の経過と其後の貿易状況』〈資料叢書 第5〉東京輸出協会、1936年
  • 『南洋の生活記録』錦城出版社、1942年。
  • 『南方周紀』主婦の友社、1944年。

伝記

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  • 岸井紫浪『日本の飛石:南方雄飛岡野繁蔵錬成時代』興亜書局、1942年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の藤枝市田中に所在していた。『志太の人物遺産』28頁。
  2. ^ 『志太の人物遺産』28頁では東洋商会。

出典

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  1. ^ a b 『官報』第14560号9-10頁 昭和50年7月16日号
  2. ^ a b c d e 『大衆人事録 第3版』オ之部164頁。
  3. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』149頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『志太の人物遺産』28-29頁。
  5. ^ 岡野薫子『太平洋戦争下の学校生活』新潮社、1990年、13頁。
  6. ^ 『官報』第14566号10頁 昭和50年7月23日号

参考文献

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  • 小嶋良之『志太の人物遺産』志太情報創造ネット、2017年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
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