コンテンツにスキップ
Wikipedia

安藤光彰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この存命人物の記事には検証可能出典が不足しています 信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります
出典検索?"安藤光彰" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2015年6月)
安藤光彰
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 (1959年01月05日) 1959年 1月5日(66歳)
身長 162cm
体重 50kg
血液型 A型
騎手情報
所属厩舎 フリー
初免許年 1976年(笠松)
2007年 (JRA)
免許区分 平地競走
騎手引退日 2012年 2月29日
重賞勝利 2勝 (JRA)
経歴
所属 騎手/笠松(1976 - 2007)
騎手/JRA(2007 - 2012)
坪憲章/調教助手(2012 - 2017)
谷潔/調教助手(2017 - )
テンプレートを表示

安藤 光彰(あんどう みつあき、1959年 1月5日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンター所属の元騎手調教助手2007年 2月までは笠松競馬場所属、同年3月から2009年 1月までは美浦トレーニングセンター菊川正達厩舎所属の騎手だった。笠松競馬所属時の勝負服の服色は胴紫、白山形一本輪、袖黄。愛知県 一宮市出身。JRA騎手の安藤勝己は実弟、長男・安藤洋一大井競馬場所属の騎手。また、JRA騎手の太宰啓介は娘婿(洋一の義理の兄)にあたる。

来歴

[編集 ]

出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが、中学3年生のときに両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親はのちに復縁したが、復縁時には逆に父親が安藤籍に入ったため、本名は現在でも「安藤光彰」である[1]

初騎乗は1976年 10月20日。翌10月21日にはさっそく初勝利を挙げる。笠松競馬時代は小井戸金一厩舎に所属し、地方競馬においてJRAに移籍するまでの間に2818勝を挙げており、笠松競馬のみならず地方競馬全体を代表する騎手として長年活躍してきた。

JRAにおいては1992年 6月27日、第2回中京競馬場3日目第11競走(テレビ愛知賞)でベッスルエースに騎乗したのが初騎乗(12頭立ての4着)。しかしその後JRAにおいては勝ち星に恵まれず、初勝利は7年後の1999年 12月19日、第3回小倉競馬場第12レースのラパシオン。地方競馬所属時代のJRA通算成績は12勝(うち重賞2勝)。

2005年12月に地方競馬再興会議での合意に基づき新たに創設された期間限定騎乗騎手制度により、2006年 1月10日から3月10日まで大井高橋三郎厩舎、同年5月1日から6月30日まで船橋渋谷信博厩舎に所属するなど地元以外の競馬場にも積極的に参戦してきた。

JRAの騎手免許試験を1次試験から受験し、2006年度の試験を突破し[2] 2007年 3月1日からはJRAの騎手として騎乗した。移籍当初から栗東に所属した弟とは対照的に、美浦・菊川正達厩舎に所属した。

移籍当初、美浦所属とした理由は長男の洋一が公営・大井にて騎手になる修行をしていたためである。同様に、高齢になった家族の世話をする必要がでてきたという理由で、2009年 2月から拠点を栗東に移した[3]

2012年2月29日付で騎手を引退。同日の笠松競馬での交流競走が最終騎乗(2着[4] )となり、レース後の引退セレモニーでは弟の勝己から花束の贈呈を受けている。

引退後は坪憲章厩舎を経て谷潔厩舎にて調教助手を務めている。

おもな勝利

[編集 ]

いずれも中央競馬移籍以前。

脚注

[編集 ]
  1. ^ 安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照
  2. ^ 地方競馬免許所得者で1次受験からの合格者は赤木高太郎柴山雄一に次いで3人目。
  3. ^ 安藤光騎手、拠点を栗東へ移籍 サンケイスポーツ 2009年1月9日付
  4. ^ 1着は和田竜二
  5. ^ 1978年新冠産のドン産駒。1986年門別産の同名競走馬とは別馬。

関連項目

[編集 ]

外部リンク

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /