一力次郎
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いちりき じろう 一力 次郎 | |
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生誕 |
(1893年08月12日) 1893年 8月12日 宮城県 仙台市 |
死没 |
(1970年07月07日) 1970年 7月7日(76歳没) 宮城県仙台市 |
出身校 | 京都帝国大学法学部 |
職業 | 実業家、ジャーナリスト、弁護士 |
配偶者 | あり |
子供 | 一力一夫 |
栄誉 | 仙台市名誉市民、藍綬褒章、勲三等旭日中綬章、交通文化賞、従四位 |
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一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月12日 - 1970年(昭和45年)7月7日)は、日本の実業家。河北新報社元社長、会長、社主。
人物
[編集 ]河北新報社創業者である一力健治郎の次男として宮城県 仙台市に生まれる[1] 。
1917年京都帝国大学法学部卒業後、コロンビア大学、オックスフォード大学に留学し法律学、新聞学を専攻。帰国後、東京にて弁護士を開業する[2] 。
1924年(大正13年)1月1日河北新報社入社。副社長として、父を補佐する。
1929年(昭和4年)には父が逝去したことに伴い社長に昇格する。また、弟である五郎が実質的な副社長として兄を補佐した。
社長、会長時代は東北の振興に力を注ぎ、東北開発三法(北海道東北開発公庫法、東北開発株式会社法、東北開発促進法)の制定に傾注した上、政府の東北開発審議会委員となり、計画の策定や実施に貢献した。また、東北経済連合会や東北放送の設立にも参画したほか、日本新聞協会常任理事や共同通信社理事、国際新聞編集者協会(IPI)国内委員等、百余を超える役職も歴任した[3] 。
温厚篤実で謙虚な性格が、多くの人より敬愛を受けた[3] 。
1970年(昭和45年)7月7日、急性骨髄性白血病で逝去。戒名:昭徳院殿賢譽融円大居士[3] 。
1971年(昭和46年)、東京千鳥ヶ淵の新聞人顕彰記念像「自由の群像」に名が刻まれ父と共に、親子2代にわたって顕彰を受けることとなった[3] 。
略歴
[編集 ]- 宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)卒業
- 旧制第二高等学校卒業
- 1919年(大正8年)- 京都帝国大学法学部卒業
- 1924年(大正13年)- 河北新報社入社。
- 1929年(昭和4年)- 同社長
- 1946年(昭和21年)- 同会長
- 1954年(昭和29年)- 東北放送社長
- 1970年(昭和45年)- 逝去。76歳没。
栄典
[編集 ]- 仙台市名誉市民 [4] 、藍綬褒章 - 1964年(昭和39年)
- 勲三等 旭日中綬章 - 1965年(昭和40年)
- 交通文化賞 - 1966年(昭和41年)
- 従四位銀杯授与 - 1970年(昭和45年)
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 創刊百周年記念事業委員会編『河北新報の百年』河北新報社、1997年。
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。ISBN 4651700799
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