'12-53 東海道一人歩き その9
今回の投稿は「清水から静岡まで」についてです
'12/11/6 (火) 雨のち曇り
Photo_11雨の中を2時方向にある清水の宿をスタート
清水次郎長の生家を探したのですが、迷子になり東海道に戻る
都鳥の供養塔を経由し、草薙駅を過ぎ
8時方向の静岡に向かう
昨日からの雨が今朝も降り続いていて ガッカリ
それでも気力はマァあるので、傘をさして歩き出しましょう
ただ、あまり写真を撮ることが出来ませんでした
先ず清水に来たのですから「清水次郎長の生家」を尋ね、仁義を切らなければ男が廃る と思い、生家の場所を宿で聞きそこに向かって歩き出したのですが、どうもハッキリしない。
人に聞くにも誰も歩いていない。
ウロウロしてる間に自分の行く道が判らなくなってしまい、やむなく振り出しに戻って街道歩きを始めました
Dscn1178
都鳥(都田)吉兵衛供養塔 10:20
『都田吉兵衛は,通称「都鳥」と呼ばれた幕末のヤクザである。
清水の次郎長の子分であった森の石松は都田吉兵衛の家に厄介になるうちに、賭場の金の貸し借りが原因で吉兵衛との仲がこじれて,だまし討ちにあって殺されてしまう。
東海地方に勢力を張るヤクザの大親分「清水の次郎長」の子分を殺したということで、都鳥吉兵衛は逐電。
次郎長は烈火のごとく怒り彼の行方を捜す。
吉兵衛はこの地の茶屋の1軒に潜んでいるところを遂に見つかり、次郎長一家の急襲を受けて殺されてしまう。
殺された吉兵衛の死体は、次郎長による後難を恐れた人たちによって野ざらしになっていたが、これを哀れんだ人がここに埋葬し、ここに供養塔を建てたという』 ことです
この供養塔も説明板を見て エッ ホント? と思ったくらいです
次郎長映画など観ると、合羽をからげて三度笠、大勢の子分を引き連れて颯爽と歩き、遠くには富士が見えるのが定番のシーンですが、この供養塔から清水駅まで直線距離で約1500メートル なので、このシーンはもっと遠くへ遠征する時だったのでしょうね??
草薙駅の傍を通った時、草薙神社まで遠いでしょうか? 何キロくらいでしょうか?
と尋ねたのですが、「だいぶ遠い キロは判らない」
とのことなので止めました。それに雨も降ってるし
Photo_12上のルート図の続きで、道は「静鉄清水線」と付かず離れず
護国神社に寄り道し
駿府城公園に行き
繁華街の中で「西郷・山岡の会談跡」を偶然出合ったが、殆ど収穫のない1日でした
左:静岡護国神社 14:11
『靜岡縣護國神社は静岡県静岡市葵区にある神社で、明治維新から太平洋戦争に至る静岡県出身の英霊7万6千余柱を祀る。
社務所の二階は遺品館になっており、戦没者の遺品約4千点が展示されている
明治32年11月13日-「共祭招魂社」として静岡市北番町に創建』 だそうで、立派な神社です
左:駿府城 16:03
右:当時の石垣 16:07
本丸堀で、三重堀のいちばん内側の堀。
明治29年に埋められたが発掘調査により水路付近が確認され、その姿を現している石垣はその当時のままだそうです
Dscn1196_2 西郷・山岡会談跡 16:21
官軍・西郷隆盛と幕府軍・山岡鉄舟が会談した場所ですが、繁華街の中にこれだけがポツンと立っているだけです
この会談をする前に、山岡鉄舟は「さった峠」で官軍に追われ、「望嶽亭」に隠れて難を逃れた ということは 前に書きましたが、ここでも清水次郎長が脱出後の面倒をみたそうです
清水の宿 9:10 スタート
静岡の宿着 16:40 頃
歩行距離 19,5キロ (31200歩)
余談・・・静岡でこの宿を選んだのは 「フリードリンクサービスがあるから」 というイヤシイ思いからでしたが、これは選んで正解でした
ビールはもちろん、焼酎・ワイン・ウイスキーなどが並べられ、静岡おでんまでフリーです
但しセルフサービスですが、この方が気兼ねがなくて私には有り難い
それに最近は酎ハイ専科だったので、久し振りの水割りはウイスキーの味を思いださせてくれました
〜〜〜〜〜〜〜〜
蛇足1・・・ここで清水の次郎長について・・・(長文です)
『清水で有名なものといえば清水の次郎長
その次郎長は本名山本長五郎、幕末近い文政3年(1820)1月1日清水湊の船頭の三男として生まれる。
元日生まれは賢人か極道になるという言い伝えから、これを恐れた両親によって母の弟の米問屋山本次郎八の養子にやられてしまう。「次郎八」のところの「長五郎」で、通称「次郎長」である。
子供の頃からとんでもない乱暴者の悪童で、ついには寺に預けられてしまう。
15歳の時に改心し、養父の跡を継いで米問屋の生業に精を出し、資産4〜5千両といわれるまでになるが、22歳で再び悪心を現しヤクザとなる。
賭場の上がりと水運の利権を巡る縄張り争いで、対立する者を次々殺傷するその凶暴さで名を知られ、東海一帯に縄張りを広げる。
すっかり悪名高くなった次郎長である、そんなとき起こったのが戊辰戦争である。
その戦争のさなか、鳥羽伏見で敗れ江戸に逃げ帰った幕府に見切りをつけ、北海道にわたりそこで旧幕臣を集めて自分の理想国家を造ろう と考えた男がいた。西洋帰りの榎本武揚である。
次郎長の前半生を「義理の人」とするならば、後半生はまさに「人情の人」と言えよう。
彼の後半生は明治維新の最中、政府の要人との関わり合いの中で花開いた。
特に有名な話に「咸臨丸の事件」がある。
時は明治元年(1868)9月18日、榎本武揚が率いる徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が、新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。
次郎長は傷つく徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬ったのだった。
これらの行為が駿府藩の耳に止まり、出頭、詰問を受けたが、次郎長は
「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けします」
と答えたのだった。
抗争で人を殺し、自分も生死の狭間を生きた一人の博徒が初老にしてたどりついた境地であった。
このいきさつをあとで聞いた山岡鉄舟は、ただの博徒に過ぎない次郎長が一番高いところからものを見ていることを知って以来、いたく感服し、鉄舟が明治21年に亡くなるまで親交が続き、また次郎長も、自分より17歳も年下の鉄舟に心酔し数多くのことを学び、大きな感化を受けたのである。
山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を得た次郎長は、その後様々な社会活動をおこなった。
有度山の開発、三保の新田開拓、巴川の架橋、などの地元事業のほかに、遠州相良で油田の発掘事業にも携わったり、明治8年には鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市あたり)の開墾に着手、自らも鍬を握り十年にわたって開墾に励んだのである。(これには勝海舟も力を貸した という話もあります)
また開墾のかたわら、「これからは外交の時代、言葉ぐらい話せなくては」と先駆け、明治9年に清水に英語教師を招いて若者の英語教育を始めたほか、蒸気船の必要を力説し自らも所有して清水港とその発展に尽力した。
明治26年6月12日、74才で大往生をとげ、遺骸は妻のお蝶(三代目)、大政、小政らの子分らの墓に守られて静かに梅蔭寺に眠っている。
前半生の次郎長はたしかに博徒であった。だが人の功績は死したあとに定まるものであるとするならば、信念を持って地域に尽くした人情家、社会事業家としての晩年の次郎長を無視することは出来ない。
幕末から明治に生きたひとかどの人物であったことは間違いないのである』
【子供の頃、広沢虎造の浪曲を夢中で聞き、次郎長映画を見て拍手喝采したことを思い出します
尤も後半のこれらの事については 浪曲でも映画でも聴いたことも、観たこともありませんでしたが】
【これで「清水から静岡まで」を終わります】
2012年12月 8日 (土) ★ 「東海道」一人旅 | 固定リンク
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