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広岡威吹の作家ブログ

たくさん落選しましたが第6回GA文庫大賞前期で奨励賞をいただきました。受賞作は「魔王子グレイの勇者生活(チートライフ)」と改題してGA文庫より発売されました。全三巻発売中!

・・村上春樹感想

天井裏」は村上春樹の短編集「夜のくもざる」に収録された作品。
あらすじはこんな感じ。


正月の元旦、妻が突然、家の天井裏に小人が住んでいるから調べてと言い出す。
どんな小人かと尋ねるが、なおみちゃんという名前以外、何も分からない。
天井裏を覗いて懐中電灯で照らすが、小人は見当たらない。

いないじゃないかと文句を言うが、妻は「なおみちゃんは天井裏にいて、いつも私たちのことを上からじっと観察しているんです。なおみちゃんは私たち二人のことならなんだって知っているんです」と答えた。

そんなのが本当にいるなら不気味だと思いつつもう一度天井裏を見ると、今度は本当に小人がいた。
体長12センチで尻尾の短いぶちのある犬。顔は妻にそっくりだった。
ひるんだけど、ここはうちの家だから出て行けと言った。
なおみちゃんの目は小さな氷のかたまりみたいに硬く凍てついていた。

それから下へ降りると、家の様子が一変していた。
テレビもなく、冷蔵庫もなく、妻の姿もなく、正月もなかった。
終わり。


小人が出てくるからというので読んだ作品。
正直、意味がわからんです。
天井裏に住み着いていた化け物に出て行けといったら何もかも失ってしまったという話。

伝承的には、小人は住み着いた家に幸運をもたらす存在です。
なので夫婦を観察していたのではなく、見守っていたのではないか。
それを追い出そうとしたから何もかも失ってしまったのではないか、という解釈が一つ。
でもこの考えだと妻の顔に似てる意味がないですよね。


妻に似ていたという部分から考えると、
天井裏を覗くという行為は、妻の内面を覗き見したのではないか。
なおみちゃんは、妻の心が生み出した心の住人。
夫に対する視線はとうの昔に冷え切っていた。

だからなおみちゃんに出て行けというのは妻に出て行けと言うのと同じことだった。


さらに考えると、夫に対して冷え切っていたが、その気持ちを心から追い出した。
しかし夫の言葉によって元の妻の心へ戻ったから、妻は冷めた心を取り戻して夫に愛想尽かして出て行ったとか。

でもテレビや冷蔵庫までも持っていけるとは思えない。


本当に小人がいて、ひどい言葉を投げ掛けた上に凍てついた瞳を見続けたために失明したとか。
だから何も見えなくなったとか。
正月がなくなったというのは、正月の楽しい気分まで失ってしまったということか。


そもそも家やテレビや冷蔵庫や夫婦というのは幸せの象徴で、さらに正月の元旦だからとってもめでたい。
なぜ一番幸せな状況で妻は小人の話をし始めたのだろう。
しかも夫がたしなめても妻は話をやめなかった。

ひょっとしたら、それらの幸せは夫にとっての幸せであって、妻の幸せではなかったのではないか。
妻の不満や不幸せの象徴がなおみちゃんだとしたら。

妻も幸せになりたかった。
だから夫に自分の不満や不幸せを何とかしてくれるように頼んだ。
けれど夫は暴力的な拒絶でしか対処しなかった。

だから、これ以上夫のための幸せを続けることが出来なくなり、テレビや妻や正月といった幸せの象徴が消えた。


まあ、つらつらと思いつくことを書いてみましたけれど。
本当のところはよくわからぬです。
夢を書いただけで意味なんてないと言われても納得してしまいます。

ともあれ、いろいろな解釈が出来る楽しい短編でありました。

終わり。

夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について」は平成7年に刊行された村上春樹の短編集「夜のくもざる」に収録されている短編。
あらすじはこんな感じ。


女の子が「どれぐらい私のことを好き?」と尋ねた。
すると男の子は「夜中の汽笛くらい」と答える。

そして男の子は理由を説明する。
真夜中に目を覚まして自分が世界から隔てて一人ぼっちだと気がつく瞬間があって、本当に死んでしまいたいくらい悲しくて辛い気持ちになる。
その時にかすかな汽笛が聞こえてくる。胸の痛みはやみ、時間の流れが元に戻る。
その汽笛と同じぐらい君のことを愛してる、と男の子は言う。

それを受けて、今度は少女が自分の物語を語り始める。
終わり。


とても短い話ですが、比喩がとても心に染みる話。
男の子にとって少女は、夜中の汽笛と同じぐらい孤独を癒してくれる存在なんだろうなということが伝わってきます。
そのことを正確に伝えるために、物語で語ってしまうぐらいですから。

基本的に「私のことどれぐらい好き?」と尋ねられると、どう答えても不満顔をされてしまいます。けれどここまで心の微に入り細を穿った語りかけなら、女の子が満足しそうだと思いました。


そして女の子のいたわりというか心遣いも見て取れます。
少年がきっと続きを言うだろうと黙って待っていたり、長い話の間もうなずくだけで割り込まない。
すべてが終わったのを聞き届けてから、自分の話しをする。

なんだか静かで素敵な恋人同士だと思いました。
言葉以上のものを語り合っている気がします。
さすが村上春樹。とても短いけど良い短編でした。

終わり。

とんがり焼の盛衰」は村上春樹の短編集「カンガルー日和」に収録された作品。

「トレフル」という雑誌が初出。
あらすじはこんな感じ。


僕が新聞を見ていたら「とんがり焼」というお菓子の説明会&新製品募集を目にする。
お菓子にうるさい僕は説明会に出かけた。
伝統のあるお菓子らしいが、べたべたと甘くて古臭いお菓子だった。

そして新しいとんがり焼を募集していた。よいものを作れば賞金がもらえた。
僕は若い人の好みに合わせたとんがり焼を制作して会社に提出する。


ある日、とんがり焼の会社に呼ばれる。
社内では好評であるが、僕の作ったとんがり焼は新しすぎたらしい。

ちゃんとしたとんがり焼かどうか、とんがり鴉に食べてもらって判定することになる。
とんがり烏は古来よりとんがり焼だけを食べて生きてきた鴉。一メートルはある大きな鴉。百羽以上いたが全部むくんでいて目のあるところには脂肪があるだけ。おぞましい生き物。

とんがり鴉は、とんがり焼だけを食べるが、僕の制作したとんがり焼を撒くと、おいしく食べる鴉と吐き出す鴉に分かれた。さらにとんがり焼かそうじゃないかで鴉たちは殺し合いを始めた。
賞金は惜しく思ったが鴉の相手をするなんて嫌だから、これからは自分の食べたいものだけ作ろうと考え、僕はさっさと帰った。
終わり。


なんだろう。一読した感じではすごく普通だった。
伝統を守っているがゆえに古臭い存在を
伝統を知らない僕が新機軸を打ち出して、
その結果、波乱と混乱を呼ぶ。

伝統と革新の軋轢、みたいな感じ。


ただとんがり焼ととんがり鴉のイメージが面白かった。
一行で済む説明を長々と一時間もする社長。とんがり焼の真偽を確かめる方法。
伝統が内包してしまう大仰な形式やオカルトな方法を揶揄していて面白い。

特にとんがり烏の、菓子だけ食べて生きてきたため生み出された醜悪な姿と浅ましさ。
本質ではなく定義や形式?にこだわる滑稽さ。面白い。

目が見えないのも、物事をちゃんと把握できていないという皮肉だろうか。
味だけ確かめられたら菓子の見た目はどうでもいいと鴉は判断したのかもしれないけれど、見た目も味の一つのはず。
結局、鴉は菓子の真偽をちゃんと判定できる存在ではないのに、殺し合いまでしてしまった。
伝統を盲信する愚かさを描いている、のかもしれない。

終わり。

カンガルー日和」は雑誌トレフルに掲載された作品。
1983年に発行された村上春樹の短編集「カンガルー日和」に収録されている。
あらすじはこんな感じ。


動物園に四匹のカンガルーがいた。
大きな父親一匹とメスが二匹、そして赤ちゃんが一匹。

その生まれたばかりの赤ちゃんを、僕と彼女は見に行こうとする。
しかし、なかなかタイミングが合わず、結局一ヵ月後になった。


その日はカンガルーを見るには絶好のカンガルー日和になった。
生まれて一ヶ月たったカンガルーの赤ちゃんは、赤ちゃんというより、小型のカンガルーになっていた。

二人でしばらくカンガルーを眺める。
彼女は「もう赤ん坊じゃないみたい」「もっと早く来るべきだった」「もう赤ん坊じゃないのよ」と言う。

僕らはそれでもアイスを食べたりしてカンガルーを見続ける。
メスが二匹いるなら、どちらかが母親でどちらかはそうじゃない。では母親じゃないカンガルーはいったいなんだ?と僕は彼女に尋ねるが答えは出ない。


狭い柵の中でカンガルーは飛び跳ねる。
それを見て彼女が、なぜカンガルーはあんなに速く飛んで走るのか、と疑問を口にする。
「敵から逃げるためさ」「敵? どんな敵?」「人間だよ。人間がブーメランでカンガルーを殺して肉をて食べるんだ」

また彼女は、なぜカンガルーの赤ん坊はお母さんのおなかの袋に入るのか、と尋ねる。
「一緒に逃げるためさ。子供はそんなに速く走れないから」「保護されてるのね?」「うん。子供はみんな保護されてるんだ」


そしてあの子はまだ生まれて一ヶ月だからお母さんの袋に入るわけね、と赤ん坊を指差しつつ、彼女は言った。
「あの袋に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって体内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」
「きっとそうよ」


僕がホットドッグを買って戻ると赤ん坊カンガルーは母親の袋にもぐりこんでいた。
大きく膨れた袋を見て、重くないのかしらと彼女は言った。僕は、カンガルーは力持ちなんだと答える。
僕は母親カンガルーにスーパーマーケットで買い物を済ませて、一休みしている人間の母親的なイメージを重ねる。

そして袋に入って眠った赤ん坊を見て彼女は言う。
「保護されているのね?」
「うん」

母親ではないメスカンガルーをミステリアスと評し、僕らは帰った。
「ねえ、ビールでも飲まない?」と彼女は言った。「いいね」と僕は言った。
終わり。


一読した時は笑ってしまいました。
感想書くのがめっちゃ難しいなと思って。

話自体は、カンガルーに赤ちゃんが生まれたのでそれを見に行った僕と彼女の話、と一行で言えてしまうぐらい、あっけない話です。他愛ない話です。

でも、この作品は書かれていない部分こそが重要なのだろうと思います。
感想が書けないのも、一行で表せてしまうのも、表面を描いただけだから、と言えます。


たあいない一日のように見えて、おそらく結婚を巡る攻防とでも言うべきものが展開されています。
恐らくこの男女は付き合って長いけれど、結婚はしていないか、してても子供がいないように思われます。

彼女はカンガルーの赤ちゃんだから見に行ったのに、すでに赤ちゃんじゃなくなってたから不満を抱いて、でもやっぱり母親の袋で眠る赤ちゃんだったから機嫌を直しています。

暗に子供が欲しい、もしくは結婚したいと匂わせている、のかもしれない。


それに対する僕の意地悪な質問。
父親と母親と子供がいて、じゃあもう一匹いるメスはなに?と尋ねています。
その答えは「うん」と「わからない」という彼女の乗り気じゃない答え。
愛人とか浮気相手とは答えられない。

逆に袋に入ることは体内回帰願望だの尋ねられた時は、僕の答えが「そうだね」「どうかな」など、乗り気じゃない答え。


このカンガルーたちは、家庭の縮図なのかも。
子供で膨れ上がった袋を抱える母親カンガルー。
カンガルーとしての強さではなく、母親としての強さを見ています。


あと、子供の誕生というのが、生の象徴なのかも。
そして子供は保護されているのね?と二度も尋ねてくる彼女。知らないから尋ねたというよりは、知っていて確認してきたような感じ。
いや、確認じゃなくて「僕」の肯定が欲しかったのかもしれない。


最後の「ビール飲まない?」「いいね」は、
母親ではなく彼女としての立場から発言されたから、
僕も気安く肯定したのかも知れないと思った。


二人の心情が全く語られていないけれど、カンガルーの一家が鏡のように作用して、二人の思惑があぶり出しのように浮かび上がってくる作品でした。

さすが村上春樹と言いたくなるような、
いろいろ考えさせられる、とても面白い作品でした。


終わり。

待ち伏せ」はベトナム戦争従軍の経験をもとに書かれた短編。
オブライエンの短編集「本当の戦争の話をしよう」に収録。
村上春樹が翻訳している。あらすじはこんな感じ。


九歳の娘が私に尋ねる。パパは人を殺したことがあるかと。
ないと答えたが本当はあった。

昔、戦争に従軍していた頃の話。
ある道を小部隊で待ち伏せをしていた。
すると武器を持った青年が通りかかった。
こちらには気がつかずのんびりと歩いていた。
私は恐怖に駆られて手榴弾を投げて殺した。

死の瀬戸際での攻防ではなく、ただ散歩していた青年を殺した事に心が苛まれる。
その傷は戦争が終わった今となっても、たびたび霧に包まれた青年の幻を見る。
その幻影に対して私は何もせず見送る。


という話。
戦争をしている以上、敵兵を殺さないといけない。
しかし、生死をかけた攻防ではないのに殺してしまった。
気がつかないふりをして見過ごすこともできたのだ。
良心の呵責に苛まれた結果、何もせずに見送る幻影を見ることによって、心を癒そうとする。
殺したくなかったと言う願望の表れだから。

しかも、敵を殺そうとは思っていなかったのに殺してしまった。
敵がそこにいるという恐怖。
その恐怖につき動かされて「殺そう」という意識がないままに、手が動いて殺してしまう。

けれど、戦争になればこういう戦いも頻繁にあるはずです。
相手が戦う準備をしていないという点では、待ち伏せ以外に奇襲もそうかも知れません。
仲間は「戦争なんだからしかたがない」と慰めるけれども、果たしてそれは正しいのか。
戦争が起きるたびに、こうした苦しみを持つ人が少なからず出るのではないか。
そこまでして争わないといけないのだろうか。

戦争の怖さ、恐ろしさが、短い中にもありありと描かれている作品だと思いました。終わり。


......というのが、普通の感想なのでしょうけれど。
僕は少し別のことを思いました。

何かと言えば、無意識に敵兵を殺せるなんて、よく訓練された良い兵士だなと。


つまり、この話の一番の恐ろしさは、戦争で無抵抗の敵を殺してしまったことではなく、「私」の意識はすでに人間ではない別の物に作り変えられていたことではないでしょうか。
「敵を殺すぞ!」という自らの意志がなくても、目標が現れただけで殺せてしまう一個の機械に鍛え直されていたのです。
しかも、そのことに作中の「私」は気がついていません。戦争が終わった今も良心の呵責に苦しんでいるばかりです。

戦争の恐ろしさとは、人間を人間でなくさせる、殺人マシンに作り変えてしまうことではないかなと、この話を読んで思いました。


終わり。

七番目の男」は村上春樹が平成八年に「文藝春秋」に発表した短編小説。
文庫「レキシントンの幽霊」に収録されている。
あらすじはこんな感じ。


七人の人間が輪になって座っていた。一人一つずつ話をするらしい。
そして最後の七番目の男が語りだす。
男の見た目は五十台。白髪交じりの男だった。

小学生のころの話。海の傍の町に住んでいた。
男にはKという友人がいた。弟のような存在。兄のように慕ってくれていた。
Kは女の子のような顔立ちで、華奢な子。言語障害があるが、絵はべらぼうにうまかった。

ある日、町に台風が来た。巨大な台風だった。
家に閉じこもっていたが、突然雨も風も止んだ。
外を覗くと青空が広がっていた。台風の目に入ったらしい。

男は海へ向かった。すると男を見つけたKが外へ出てきた。後ろを着いて歩く。
「ちょっとでも風が吹いてきたら、すぐに家に戻るんだよ」と忠告する。

海に行くと波打ち際が遠くまで後退していた。
台風で流れ着いたものを見て回るのに夢中になる。
すると、地響きを立てて波が戻ってくるのに気がついた。

男は恐怖を覚えてKに逃げるよう叫ぶ。
しかしKは漂流物に夢中になっていて気がつかない。
男は、Kを引っ張ってでも逃げなくてはと考えるが、体は別の行動をとっていた。
Kを置いて防波堤まで逃げた。

Kは波に飲まれた。けれど大波は繰り返し来る。
男は数十秒後の大波には防波堤の上に立って逃げなかった。
すると二度目に来た波の中にKがいるのが見えた。耳まで口を裂いて笑っているK。
男は恐怖で気絶する。高熱を出す。一週間寝込む。

Kの遺体はあがらなかった。Kの両親は男を責めなかった。事実を知る村人も責めなかった。
そのため余計に男は苦しんだ。海辺の町を逃げ出して、海のない長野県に移り住んだ。

何十年も過ぎたころ、Kの遺品の絵が出てくる。恐怖するが、それでも捨てるに捨てられない。絵を一枚一枚見ていく。
すると自分がKを勘違いしていたのではないかと思うようになる。
数十年ぶりに海の町へと帰ってくる。恐れていた海に入る。
恐怖の源が自分からなくなっているのに気がつく。
救われた、回復した、と知る。

最後に男は言う。
人生で真実怖いのは、恐怖そのものではない、恐怖に背を向けて目を閉じてしまうことだと。


ものすごく大きな体験をしてトラウマを抱えた人が救われる話。
トラウマに対して逃げてはダメなんだ、しっかりと向き合わなければと言っている話。

のように見えます。
僕も最初はそう読みました。でもどこかしら違和感がある。


それはどこかといえば、この告白している男は、終始、自分のことしか話していないからです。もちろん、告白する形で書かれているからという意味ではないです。
超利己的な男という意味です。まさに浅ましい人間の典型と言えます。


「助けられたはずの友人を見殺しにした。だから友人に恨まれていると考えた」これは良く分かります。自然な発想だと言えます。

しかし「友人は恨んでいないと気がついた。だから自分は許されたと考えた」は、トラウマから立ち直ったから正しく思えますが。
実際にはおかしいですよね。結局、自分の事しか考えていないのです。

「友人は恨んでいない、だからトラウマから逃げる必要はない」ここまではわかるので、その後は「トラウマから逃げないで、友人への謝罪を前向きに続けていく」が普通ではないでしょうか。

今のままだと、自分は救われた! だけで終わってしまい、助けられたはずの友人を見殺しにした罪が忘れ去られています。


この話の一番恐ろしいところは、ここだと思います。
一貫して自分の事しか考えない利己的な人間が描かれているのに、一見正しく思えてしまうところ。
しかもそれに思わず共感してしまいそうになるところ。

これが村上春樹の恐ろしさではないでしょうか。
人間誰しも甘い言葉や素敵な言葉に弱いのです。
ついつい楽なほうに流されてしまいそうになるのです。まるで波に飲まれるように。

自身の人間としての価値を試されたかのような、そういう怖さを感じました。
つまり「七番目の男」は、人間の愚かさ罪深さを抉り出すとともに、読む人間の心をも照らし出す作品になっていると思いました。
枚数は短いのにとても怖い作品です。


終わり。

レキシントンの幽霊」は村上春樹が平成8年に「群像」に発表した短編小説。
文庫「レキシントンの幽霊」に収録されている。
あらすじはこんな感じ。


冒頭に、名前以外は事実だと断りを入れてから始められる私小説風の小説。

アメリカに住んでいたとき一人の男と知り合った。五十代の壮健な男。名はケイシー。大きな犬と、三十代のジェレミーという男と一緒に住んでいた。
ケイシーは「僕」の書いた本の翻訳を読んで感銘を受けて手紙をよこす。「僕」はケイシーが持つと言う完璧なジャズレコードコレクションに興味を惹かれて会うことに。そこから交流が始まる。

ある日、ケイシーが一週間ほど家を留守にすることになった。ジェレミーも用があって家にはいない。そこで「僕」が留守番を頼まれる。
ケイシーの家は古いけれど重厚で何もかもに歴史が感じられた。時間が体になじむような、とても快適な家だった。レコードも聴き放題だった。

しかし一人で寝ていると真夜中になって、階下で大勢の騒ぐ声が聞こえてきた。音楽まで流れている。
最初は泥棒か、それともドッキリか、はたまたケイシーの友人かと思い悩む。
ところがはたと気がつく。犬がいない。外から人が入ってきた形跡がない。

居間の広間でパーティーをしているのは幽霊に違いないと結論付ける。
部屋に引き返すが、パーティーは夜通し続いて寝られなかった。
もちろん翌朝調べてもパーティーの形跡はなかった。
その後は二度と幽霊のパーティーに出会わず、留守番は終わった。

それから半年がたってケイシーに会う。とてもやつれていた。
長い話を聞く。告白にも懺悔にも似ていた。
まずはジェイミーのこと。母親が死んで別人のようになってしまったらしい。もう帰ってこないという。

そしてケイシーは、自分の両親の話をする。母が十歳の時に死んだこと。
母が死んだとき、父が数週間も眠り続けたこと。
次に父が死んだ時、今度はケイシーが何週間も眠り続けたこと。
ある種の物事は悲しむ代わりに別のかたちをとるのだとケイシーは言った。
でもケイシーは一人暮らし。次自分が死んでも誰も眠り続けてくれる人はいない。達観したかのような、あるいは自虐的な微笑みを浮かべてそう言った。

「僕」は時々レキシントンの幽霊を思い出す。
しかしあまりにも遠い時間の遠い記憶のように感じるので、その遠さが逆に奇異を感じさせなかった。


村上春樹は本当に「死」をテーマにした作品が好きだなと思ってしまう。
「蛍」もそうだったし「鏡」もそうだった。
それともたまたまそういう作品に当たっただけだろうか。
いや、でも。過去に読んだ「風の歌を聴け」「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」「国境の南、太陽の西」「ねじまき鳥クロニクル」「ノルウェイの森」など、死が絡んだ作品が多い気がする。
――って、意外と読んでる自分に驚いた。


「レキシントンの幽霊」ではケイシーの体験した死を受け入れる儀式が書かれる。それは眠り続けること。悲しみの代替であるのと同時に、いとしい人の死の追体験でもある。

また「僕」は眠り続ける孤独なケイシーを「予備的な死者」と表現する。予備とは広辞苑を引くと「あらかじめそなえること。前もって用意しておくこと。」とある。
つまり眠り続ける行為は、死の予行演習であるということか。本人にとってはもちろんのこと、周りの人たちにとっても。

ただしケイシーは孤独だった。誰も悲しんでくれないし、予行演習を見せてデジャビュを感じさせることもできなかった。
そういう意味でつながりの絶たれたケイシーという存在の悲しさが伝わってくるようだった。

ジェイミーのことを自分のことよりも先に気にかけていたのも、自分が死んだ時に悲しんでほしかったからではないだろうか。
そう考えると、一緒に暮らしていたのに断絶してしまった関係が、いっそう重みを増すように思われた。

「僕」はケイシーが病気になったからやつれたのかと推測するけれど、本当にそうだろうか。ジェイミーが帰ってこなくて、このままだと孤独の中で死ぬ事になったからやつれた可能性はないだろうか。
どちらにしろ、ケイシーの悲しみは深いように思う。


このほか、読んでいて疑問に思うことがいくつかあった。

なぜ幽霊がパーティーをする居間に入らなかったのだろうか?
そこが死者の世界で、生きている自分は部外者だと感じたからか。

でもそれなら、なぜ「僕」はレキシントンの幽霊とそれら死の気配のするものすべてを、たびたび思い出すのだろう?


これはタイトルにも関係するけれど「幽霊」とまで入っているわりには、この作品には怪異的な恐怖は描かれていない。
確かに「僕」が恐怖する描写はあるけれど、幽霊と理解すると「怖さを超えた何か」を感じてしまう。
それは死や死者の世界への親しみではなかったか。

だから幽霊だとわかってもしばらくは玄関ホールのベンチに「魅入られたように座り」、その日から毎日真夜中に起きては、居間へと出かけた。また幽霊のパーティーに出会うために。
「僕」にとって死は忌避すべき存在ではなく、近付きたい存在だったのかもしれない。


そして幽霊にまつわるすべてを「ひどく遠く感じる」が「奇妙だとは思えない」という。
おそらく人はいずれみんな死ぬからという常識的な部分と、死に親しみを感じている特殊な語り手の性格からきていると考える。


死に親しむ特殊な語り手。
村上春樹の作品ではこの語り手が語ることが多いと思う。

村上春樹の作品は上辺だけ見ると、
「軽快なのに淡々とした文章」と「詳しく書き込まれているのに、逆に空虚になる描写」で作られているように見える。
しかしそれは表面でしかなくて。
本質はやはり、語り手の心が死んでいる小説ではないかと考える。
死をテーマにした作品は山ほどあるけれど、語り手の視点自体が死んでいる作品は「城の崎にて」ぐらいしかない。そういった意味で村上春樹はとても稀有な作家だと思う。


最後に「レキシントンの幽霊」で分からなかったこと。
それはどうして冒頭で「これは実話です」と断ったのかということ。
別にフィクションでもかまわないのに。意図がよく分からない。

あと、ケイシーとジェレミーは恋人同士だったのだろうか、と、そんな無粋な事も考えた。


終わり。

は村上春樹が昭和57年に中央公論に発表した短編小説。
新潮文庫から「螢・納屋を焼く・その他の短編」として刊行されてます。
この作品はノルウェイの森の原型らしいとネットで見かけたので読み返してみました。さすがにノルウェイを読み返す気力はもうないので。
あらすじはこんな感じ。


目的もなく大学へ入学した主人公。できるだけ過去を忘れて、茫漠と生きていた。けれども良くあるスチューデントアパシーではなかった。
それは唯一の親友を自殺で失ったショックから立ち直れないまま、それでもなんとか生きようとしていたからだった。

そんな時、親友の恋人だった彼女と出会う。主人公は親友と彼女の三人でよく遊んでいたため顔は知っていた。けれど話の中心にいつもいた親友がいない今は、まったく会話が続かなかった。
しかも彼女は奇異な行動が目立った。週に一度ぐらいの頻度で会って遊ぶけれど、ずんずん歩き続けるだけ。
それでも一年も会い続けていれば、少しは仲良くなった。クリスマスプレゼントも交換した。

ある日、彼女の二十歳の誕生日をお祝いした。二人だけのお祝い。一人暮らしの彼女の部屋でケーキをつついて、ワインを飲んだ。すると酔った彼女は長々と自分語りを始めた。
初めは頷いて返事をしていたが、いつまで経っても終わらない。結局、四時間以上も喋り続ける。そして、終電なくなるから帰るといったら、いきなり泣き始めた。
主人公は慰めようとした。けれど彼女はますます泣いて、なんだかんだのうちに最終的には彼女を抱いた。

けれど。
二人の体は接近するまでに触れ合ったが、心の中は限りなく離れた。
その日を最後に彼女と会うことはなくなった。
彼女は精神を病んだため、施設に入った。
主人公は親友に続いて、彼女までも失った。

その後、夏になって同じ寮の友達から蛍を貰った。寮の庭で捕まえたという。
蛍は弱々しく光っていた。今にも死にそうだった。
主人公は屋上へ登って、そこから夜の闇へ蛍を逃がそうとした。
壁に放たれた蛍は長い間そこに留まって、主人公と一緒に停止した時間を過ごした。
そのあと主人公を置いて、一人だけで光の軌跡を残しながら闇へ消えた。

主人公の脳裏には、おぼろげな光が魂を思わせるかのように焼きついていた。
しかし闇の中の光の軌跡に何度も手を伸ばすけれど、いつも光は少し先にあって指先に触れることはなかった。
おしまい。


許容することが出来ないほどの大きな死を抱え込んだ、主人公と彼女の物語。
本文中には『死は生の対極にあるのではなくて、その一部として存在する』と太文字で装飾してまで語られている。
そのため一見、主人公が何かを悟った上で語っているように見える。危うく騙されそうになる。

しかし実は、頭では分かっているけれど心がついていっていない状態になっていた。
なぜなら主人公は友人の死を受け止めきれていない。未だに心の傷は口を開いて、血を流し続けている。主人公は出来るだけそれを見ないように気がつかないように、自分を騙して生きている。

結局主人公は、肉体は健康的に生きているけれど、心が死んでいる状態だった。
それは彼女も同じ。奇異な行動はすべて心と体のアンバランスから来るものだし、親友の死から立ち直れていない証拠でもあった。

最後に主人公は、蛍に生への希望を託して逃がした。
けれど、未だに手に触れられないでいる。生き返れていない。
親友の死は主人公と彼女に重く圧し掛かっている。そして主人公には彼女の喪失も重みとなって圧し掛かっていた。


......こんな感じかな。
40ページほどの短編小説ですけど、驚くほどよくできています。
構成も文章も、本当に上手いと思いました。


特にやっぱり村上春樹は文章がうまかったです。
でもこの上手さは、オシャレな文章だからじゃないなと、読み返して思いました。
視点のおかしさからきているんだと気がつきました。
昔に読んだ時は気付かなかった。「数字にこだわる」とか「やれやれ」とか、文章の表面しか見ていなかった。

詳しく言うと、この作品では、
どこにでもいるような普通の青年である「僕」が語り手の小説です。
一見、ちょっとすかしてるような、きどってるようなそんな文章に見えます。
昔はそう思っていましたが、今読み返すと違います。
この語り手、心が死んでます。

心の死んだ人間が、生きた世界を描写し続けている。まるで意識のない自動書記(オートマチックライター)のように。
だから語り手は何気ない描写を冗長なまでに垂れ流しているにもかかわらず、どこかしら冷たいような淡々としてるような、もっと言えば寂しいような印象を与えているんだと思いました。

また、語り手の心が死んでいるという点で志賀直哉「城の崎にて」を思い出した。
けどあれは、語り手の身に直接降り注いだ死なので、悩みはなく淡々と受け入れていました。
「蛍」は語り手に死が直接降り注いだわけではないです。原因は友人の自殺。
つまり死は友人を通して間接的に訪れていた。なので受け止めきれずに心が死んだ。

しかも語り手はただ死んでしまっているわけじゃない。
トラウマに触れないように生き続けようとしている。
時には生き返ろうともがいている。
そこが読んでいる読者の心を不安定に揺れさせるのではないでしょうか。

本当に凄い文章であり作品だと思った。
こんな視点から僕は文章を書けるだろうか?
考えてみたけれどいまいち判然としません。

そのほか、「蛍」を内包する形で書き上げられた「ノルウェイの森」ではその辺はどうなったのだろうと気にかかりました。
うろ覚えであれば、最初のうちは語り手の心は死んでいたような気がします。
後半は希望を得たのだろうか。生き返れたのだろうか。
確認のために読み返したくなってきたけど、今のところはやめておきます。


終わり。










新人賞受賞作


4月発売受賞作





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4月発売









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7月発売




受賞作既刊

当ブログ管理人
広岡威吹のデビュー作!!
第6回GA文庫大賞受賞者五人目!! ついに管理人である広岡威吹の本が出ました! 魔界最弱だけど超強い?主人公グレイと、お目付け役でありヒロインでもあるサラ。本性はひた隠しにしつつ勇者学校でのチートな生活を繰り広げます! ドジっ子ミレーヌも健気で可愛いです。でもエロいらしいので注意が必要ですっ! ――可愛いイラストはAn2Aさんに描いていただきました。デザインは柊椋さんにしていただきました!

受賞作第二弾!目先の脅威は退けたものの封印を解除できないグレイ。王女の悩みを解決する代わりに魔法を知ろうとする。しかしその悩みは何者かによる国を揺るがす企みだった――。二巻の注目はなんと言っても新キャラ。とても面白いキャラになりました、乞うご期待です!

当ブログ管理人の新作!
1月15日発売!
受賞作第三巻!
バヌトリウスを倒して平和な生活を手に入れたグレイ。
しかし突如として大量の魔物が魔界から押し寄せてくる!
いったい何が起きたのか!?
そして対処できるのか――なぜか魔界に詳しいグレイが作戦立案、ついに勇者として立ち上がる!
......まあ、魔界の王子なんだから詳しいの当たり前なんですけどね。三巻の見所は魔王子だとバレないようにしながら活躍するグレイと、万単位の大規模戦闘かな。
ヒロイン全員の大活躍も目が離せない! 乞うご期待です!


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