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いよいよ終わったな日本は。最早、地上最凶の生物支那畜と戦う気概も失っているようだ。世界は支那に武漢ウィルスの落とし前をつけさせようと動き出しているにもかかわらず、日本は早々に支那を免罪してしまったわけだ。
滅びの道を自ら選択しているわけだから未来はないな。国家が当てにならないことがはっきりした以上、ゲリラ的に支那畜を〇〇していくほかあるまい。
Newtype 2020年4月29日 (水) 19時43分 ニュース, 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク | コメント (0)
特に日本が酷い、世界は支那畜の下劣さに気づいてきた(遅すぎるが)のに、日本人は、いまだに支那に忖度している。武漢ウィルスとはっきり云う事すらしない腰のひけっぷりである。
早晩、日本も世界も、庇を貸して母屋を取られる事態に陥るだろうが、これ程の敵性生物に対してすらお行儀よく対応しているようでは、もう、団結してこの凶悪に立ち向かう事は望めそうもない。
Pax Sinica(支那による覇権)という時代は、より野蛮になれる者しか生き残れないだろう。人間性の最悪の面だけを極大化できる、ヒトモドキしか生存できない世界である。これは私の確信である、人種差別と云いたければ好きに云ってろ。そもそも同じモンゴロイドの日本人が支那畜を否定したところで人種差別にはならないが、そんな理屈はこのさいどうでもいい。
Newtype 2020年4月28日 (火) 23時04分 日記・コラム・つぶやき | 固定リンク | コメント (0)
新型コロナ対応で「日本は韓国の支援を内心期待?」と韓国メディア=韓国ネット難色「公式要請なければ...」|ニフティニュース
は?何をキムチ悪いこと云ってんだ?鮮の字の手など借りた日にゃ、事が余計に悪化するだろが。おまえらはこっちに構うな。半島から出ないで国内で火病ってろ。
驚くほど馬鹿な本なので軽く紹介してみる。
●くろまる日本の未来はどうなるのだろうか。何の手も打たなければ,人口激減の直撃を受ける農業・林業地帯では地域住民がひとりもいなくなって消えてゆく農山村が相次ぎ,日本人が営々と守り続けてきた水田と森林は荒廃の一途をたどるであろう。人口減が深刻化する一方の日本は,もはや手をこまねいているわけにはいかない。今こそ,日本の大改革に向けて,活発な国民的議論を始めなければならない。(はしがきより抜粋)
まず、日本人が営々と守り続けてきた水田と森林 を、移民が守ってくれると考えられる根拠がない。文化的にも精神的にも、背景となるものが違う国である。所詮出稼ぎ根性で移り住んでくる連中であり、母国をまっとうに建設できなかった者たちが、既に出来上がっているよその国に、利益だけを求めて移ってくるのである。例外的に志高い者もいるかもしれないが、まず稀であると考えるのが現実的である。
そもそもこの移民1000万人構想というもの、元ネタは毛沢東ではないかと私は考えている。毛は、確かキッシンジャーとかいう声が汚く狡猾な輩との会談で、シナが将来的に米国にとって軍事的脅威になる懸念を否定するかたちで、こう述べているのだ。
"中国は軍事的に米国を侵略するような真似はしません。その必要がないのです。我が国の女性を1000万人あなたの国に移住させましょう。そうすれば彼女たちが勝手に子をつくり、だまっていてもいずれ中国になりますよ"
これは原書が手元にないので正確な引用はできないのだが、1000万移民させてしまえばこっちのものという趣旨であった。つまり、シナ人というのは、どこへ移住してもそこに同化はしないという事である。シナ人の住む土地はシナであるという感覚が、中共のみならずシナ人民じたいにも沁みついている感覚なのであり、中共の戦略は、その習性を西洋近代が生み出した「人権、平等、自由」という観念を利用し、極めて合法的に「乗っ取る」だけでよいというわけである。
したがって、移民なくして日本の存続はないという言説を吐くものは、第五列である。
はっきり云うがそれは甘い。過ぎるお人よしは馬鹿と変わらんことを弁えるべき。
あの人民にしてあの政府と考えるべきなのだ。あの人民に規範意識はない。"上に政策在れば下に対策在り"これは体内に染みついているチャンコロの性質なのだ。
現在の情況は、シナとの係わり方を見直す機運を全世界的に高めることになるだろうし、そうでなくては終わっている。4千年だか何年だかしらないが(中国としての歴史自体は百年に満たない)ここの人民が延々と繰り返してきた王朝と人民との叩き合い騙し合いを、いまも続けているというだけのことだ。同情することでもない。西欧人は相も変わらずシナ国内の人権弾圧を問題視しているが、無駄骨である。寧ろシナ人の敵はシナ人と当人たちが云ってのけるのだから、好きにさせておけばよい。我々としては、シナ人が団結して国外にその凶悪さと劣悪さを吐き出すことを防ぐことなのだ。この度の武漢肺炎は、それに失敗したということなのだ。
[フレーム]
という東洋経済の記事を読んでの感想だが、企業の国内回帰は始まってもらわねば困る。内需で利益上げられるのが本来理想なはず。人は消費者としてのみ存在しているのではない。なんらかの生産に携わらなければ生きられないので、生産機能が海外へ移転してしまえば、畢竟内需も減少するに決まっている。安い人間を探して転々と移動し続けるというこの構造、なんというか、狩猟採集民的な様式を感じるものの、考えが纏まらないので深追いはよそう。言い出したついでだが、当記事にも登場する、サピエンス全史の著者は、そういえば、ひとを土地に縛り付ける農業こそが害悪であり、狩猟採集時代の暮らしを美化しているというではないか。そう考えると、この度の武漢肺炎に発する反グローバリズムへの動きを懸念するのも分かる気がしてきた。
だが私は反グローバリズムを歓迎する。グローバリズムというのは世界をひとつにすることであり、恰も人類皆兄弟的平和主義であるかのような幻想を抱かせるが、実際は弱肉強食である。強者が喰えるだけ喰い散らかし、禿地にしては他所に移るということを繰り返し行う仕組みである。ユダヤ及びシナ人のような、歴史的に流浪の民として生き延びてきた部族とは相性が良さそうだが、土地に定住してきた民にとっては、このような根無し草的生き方は受け入れがたい。畢竟、グローバリズムとは人類を平等に根無し草にしようという試みではないのかと考えられる。ならばこの機に反グローバリズムの潮流を世界的なものにし、国民国家解体を目論んでいる(と考えられる)グローバリストとの戦いに勝利したいところである。
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