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ゼームス坂から幽霊坂 吉村 達也:著, 双葉社 (2000 読後感:☆☆
61ezgxfa03l_sy344_bo1204203200_ 【嵐の夜に自殺した妻を庭に埋めて隠した夫。霊として蘇った彼女と愛の復活は果たせるか?ホラーを超えた感動の結末。】
これもまた余韻の強烈に残る物語であった。粗を探せばいくらでもある。なにしろ、死んだ妻の"復活"の原因が"雷"による転写作用だというのだから苦笑してしまう。これは本書のなかで登場人物が云う科白なのだが、おそらく著者は、"カミナリ"="神なり"という着想が浮かんでしまったので、なんとかこれを小説にしてみたくなったのではないのかと思う。
しかしオレからしたらそんな"オチ"はいらないのになぁ、と云いたくなるのだ。所詮、死んだ人間が復活するなんてことは、どんな理屈を並べてみても納得などさせられるものではないではないか? どうしたって無理筋な話であるのだから、そこの説明によって物語を中断させる必要もない。カフカの「変身」のように、何事もなかったかのように日常が流れていく風景を読まされるのも戸惑うが、これはSFでも怪奇でもなく、愛の物語としてオレは読んだのだから。
ある大雨の降る夜に死んだひとりの女性。人間離れした美貌を持つこの女性は他人には理解しがたい悲しみを持っているのだった。それは夫にも知られていない過去の記憶である。本当なら自分が死んでいるはずだった。最愛のひとが自分を庇って犠牲になった。許されるはずのない愛の終わりは壮絶であった。
こういう過去を持つ女性であるがゆえに、いつも憂いを帯びている。他人からは、美しい妻を持って幸せな男だと羨まれる夫ではあったが、彼は自分の妻に何か云い難い不満を感じていた。それはそうだろう。彼女のなかには今でも"最愛のひと"がいるのだから。そしてこの妻は"自分は死なねばならない"と決めている女性なのであるから。
こころに入り込める余地のない人を愛するのは辛いことだなと思うし、そう考えるとこの夫も可哀想な男ではあるなと同情もしたくなる。それくらい、妻の最愛のひとと正反対の男として描かれているのだから。
死ぬと決めているのに何故結婚したのかとか、どうにもやるせない気持ちにさせられる。にもかかわらず、何故☆ふたつつけるか。
それは、彼女と最愛のひととの別れの場面の壮絶さに、しばし頁をめくる手が止まってしまったからである。悲しすぎた。夫となったひとと、そのひととの間に生まれたひとり子を、この地上に残してでも、そのひとのもとへ行きたい、行かねばならないというこの想い。
残酷なまでの愛。 彼女を見送る夫と子。なんとも云えない複雑な想いに胸が締め付けられる小説であった。
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