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2012年1月

2012年1月25日 (水)

またデカイの来やがるか!?

[画像:http://www.google.co.jp/#qsourceid=navclient&aq=f&oq=%e5%9c%b0%e9%9c%87%e3%80%80%e9%af%a8%e3%80%80%e3%82%a4%e3%83%ab%e3%82%ab&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4FTJB_jaJP445JP445&q=%e5%9c%b0%e9%9c%87%e3%80%80%e9%af%a8%e3%80%80%e3%82%a4%e3%83%ab%e3%82%ab&gs_upl=0l0l0l12730lllllllllll0]

地震 鯨 イルカ - Google 検索

鯨さんやイルカさんを有色人種よりも大切にしてくれる人々に、まさかポセイドンの怒りは落ちるまいw

となると、またしてもその怒りの矛先は、日蓮が本国(日寛上人曰く)こと、日本国ですかな〜。

[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/WijvIk420Hw?version=3&feature=player_detailpage]
ま〜、地震発生は地盤のズレが原因とされているみたいですんで、日本のように4つのplateの上に国土がある国は、法華経の行者が多かろうが少なかろうが、お構いなしに来るものは来ちまうわけでしてw
ご本尊さんに今からお祈りしとこ。
頼むから、その時は一発で仕留めてくれ!、とw

2012年1月21日 (土)

やや日刊カルト新聞社主催 「アセンション・プリーズ!!人類滅亡新年会2012」

[フレーム]

15:04から音声が出る。

宗教に対する真摯な語らいとは云えないかも。信者のイタさを知るには良いかもしれんね。

元オウム信者の話を聞いていると、マジで世界を救う気で始めたんだな、というのは一応伝わってきた。だから余計に宗教の難しさを思わずにいられない。

否、思想の難しさというべきか。

2012年1月16日 (月)

アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか

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アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか- 超大国に力を振るうユダヤ・ロビー

佐藤唯行:著,ダイヤモンド社( 2006

読後感:☆

【世界を裏で支配するという「ユダヤ陰謀論」。
そして、ユダヤ人団体が主張する「控えめなユダヤ論」。
真実は、その間にこそ、存在する―。
ユダヤ・ロビーと彼らに同調する人びとが、中東の孤児だったイスラエルを支えるため、アメリカの政策をいかにして傾けていったのか。
F・D・ルーズベルトからオバマまで、各政権の内情を分析しながら、ユダヤ系パワーの深奥に迫ってゆく。】

第1章 最強のユダヤ・ロビー 第2章 ユダヤを思いやる米国議会 第3章 イスラエル=キリスト教右派同盟の誕生 第4章 ユダヤ人議員の実力 第5章 ユダヤ・マネーの仕組み 第6章 大統領とユダヤ人社会1—F.D.ルーズベルトからジョンソン 第7章 大統領とユダヤ人社会2—ニクソンからオバマ

しろまるo。+..:*しろまるo。+..:*しろまるo。+..:*しろまるo。+..:*しろまるo。+..:*しろまるo。+..:*

出自を異にする人たちによる、移民国家の米国内において、ユダヤの影響力が抜きん出ているように見える。実際、そうでなければ何故、米国政府がイスラエルを擁護し続けるのかが分からない。

中道派のユダヤというのもいるようだが、やはりイスラエルを約束の地と認識する正統派ユダヤは、持てる財力をイスラエルを支援する為に投入するのである。

当初、脆弱だったAIPACが急成長できたのは次の四つの能力を磨いてきたことによる。第一は「議員が必要とする情報の提供者となる」ことであった。AIPAC職員の多くは、実は高度な情報分析者として、専門分野の調査活動に従事しているのだ。彼らは、議員たちが国会での答弁の際に必要とする中東情勢から最新のミサイル技術にいたる幅広い争点に関する詳細な情報を入念に調べあげ、その要旨を議員たちが必要とする日時までに提供してきた。これこそ、議員たちの判断に対して彼らが影響力を行使できる秘訣なのである。(p16,第1章 最強のユダヤ・ロビー)

アメリカには内陸部に住む保守的な人々を中心として、諸外国への経済援助に消極的な人々が数多く住んでいる。世論調査によれば、国民の七五パーセントがアメリカ政府は海外援助にあまりに予算を使いすぎていると答えている。それにも拘らず、連邦議会内の親イスラエル派議員たちは、イスラエル政府が要求する金額をほぼ一〇〇パーセント満たす援助法案をこれまで一貫して可決し続けてきたのである。(p36,第2章 ユダヤを思いやる米国議会)

75%が批判的にも拘らず、それを上回る影響力を持つ2%の民。知力、財力、それらを総合したうえでの政治力。それに宗教的信念によるユダヤ以外の支援も加わる。強い訳だ。

そうして米国にとってのイスラエルは、他の国とは位置づけが違ってくることになる。

例えば、アメリカ政府から諸外国へ支給される援助金は、その流れを米国際開発局の職員たちが用心深く監視できるように、年四分割して与えられている。ところが、イスラエルだけは各会計年度の初めに一括して援助金を受給できるのだ。これらの援助金のうち、当面、使用しない分は米連邦準備銀行へ直接預金され、年利八パーセントの利子を稼ぐことが許されている。イスラエルはこの「特権」を与えられた唯一の国なのである。(p38,同)

なんというか、この本読んでいてまず思ったのは、いつか日本にとって朝鮮半島が、米国にとってのイスラエルと同じ位置づけになってしまうのではないかということであった。考えただけで恐ろしいんだが。

外国人の献金が禁じられているにも拘らず、実際には、それが起きているという事実があるわけだ。額は勿論、ユダヤとは比べものにならないとしても、既に道筋はできてると思われてならない。内外の親朝鮮勢力が結託して、半島を特別扱いしだすなんてことになったら、たまらんな。

ユダヤ・ロビーがその目的を遂げることができた原因を追求すれば、彼らと手を結ぶ強力な同盟者の存在が浮びあがってくるのである。その同盟者とは、膨大な数(一説に七〇〇〇万人)のキリスト教右派の信徒たちであり、同時に海を超えたイスラエルの右派政党である。(p56,第3章 イスラエル=キリスト教右派同盟の誕生)

第16代イスラエル首相のイェフード・オルメルトが"アメリカ国内で恒久的な募金活動を行なうために設立した「イェフード・オルメルト財団」の代表が、実はユダヤ・ロビーAIPACの財務責任者でもある"(p57,同)

外国の議員が、自国の支援の為に募金活動をしに来るというのだ。イスラエル以外でこんなことやっているところはあるのだろうか?

それにしても、総人口の2%弱にすぎないユダヤが、全米上位100の大富豪の内、32人も占めるのだそうである(本書刊行時で)。 そして、この経済力がイスラエルを守る為に、献金として使われている。

これらの献金はほとんど全て国政選挙に投入される。州や自治体の選挙には投入されないのである。州や自治体を押さえたとしても、州や自治体はアメリカ・ユダヤ人にとり最優先の政治目標であるイスラエルの安全保障のために何ら実行的手だてを講じることができないからである。ここに「ユダヤ・マネー」投入戦術の特色がある。つまり、持てる金を様々なレベルの選挙に分散して使うのではなく自分たちにとって最も重要な大統領選挙と連邦議員選挙に集中して資金を投入するのである。これが重点特化の戦術なのである。(p114,第5章 ユダヤ・マネーの仕組み)

選挙には金がかかる。TV・CMの放送枠を確保するためにも、ユダヤの経済力の持つ魅力に抗えなくなってしまうようだ。草の根の市民運動で、ユダヤ・マネーに勝てるだけの献金をするのは難しいのだろうか。

草の根の運動の場合、市民一人ひとりの利害はなかなか一致することがないという面もあるからだろうか。その点、宗教的信念による結びつきは強いといえる。

ならば、同じセム系一神教のムスリム社会はどうなのか。選挙に於いて、なんらかの影響力を及ぼしているのだろうか。

アラブ産油国の王族たちが握る莫大なオイル・マネーの恩恵は、在米アラブ系のもとには届かないのである。封建的意識の強い王族たちにとり、アメリカ国内で暮らすアラブ系の政治的地位向上など、そもそも念頭にないからである。(p74,第3章 イスラエル=キリスト教右派同盟の誕生)

頭脳で稼ぐユダヤと、天然資源の恩恵に浴しているだけの富豪では、金の使い方が違うようである。多分、こういうことだから堕落したムスリム富豪に、ビンラディンのような男の怒りが向けられていくのではないか。

テロリスト・ハンター」を読む限りでは、在米ムスリムの団結は、過激派の集会になりがちという印象が強い。政治力はユダヤの方が上のようだ。

ちなみに、このユダヤ・ロビーの意に反する態度を示した場合どうなるのか。カーターや父ブッシュは、イスラエルに批判的な姿勢を見せたために、痛い目をみたようだ。

一九九二年選挙におけるブッシュの敗北は、その後の大統領たちに忘れがたい教訓を与えたと言われる。それは中東和平仲介役としてイスラエル政府に圧力をかければ、選挙で高い代償を支払わされるという教訓であった。(p171,第7章 大統領とユダヤ人社会II)

父ブッシュは、冷戦の勝利と湾岸戦争における勝利で、強気であったようだが結果は敗北だった。ユダヤの票がクリントンに向かったのが大きかったという。

しかし、2%弱の人口のユダヤが、例え政治献金によって議員の政策に影響を及ぼすことができたとしても、選挙は有権者の投票なわけだから、ユダヤ票以外の動きが重要になってくるはずだ。ユダヤの影響が強い候補者を避けて投票するということもできるはずなのに、そういう候補者が当選してしまうというのは、やはり耶蘇教右派の勢力が多いということになるのだろう。

この手の連中には、キリストの再臨の為には、世界最終戦争が起きなければならないとマジで考えている者もいるらしいから恐ろしい。

ただし、ユダヤ・ロビーが決して万能ではないことも分かってはいる。米国の国益に反する事に関しては、さすがに受け入れられない。例えば、イスラエルが自国製の戦闘機をシナに売るといった場合である。

だから、そのときは逆にユダヤ・ロビーはイスラエルを説得する立場となる。米国の支援抜きでイスラエルの存続はありえないと分かっているからだろうか。

゚。°。°。°。°。°。°。°。 ゚。°。°。°。 ゚。°。°。°。°。°。°。°。 ゚。°。°。°。

この本、著者の指摘したいことが結びに完結にまとまっているので、はっきり云ってそこだけ読めば充分だと思う。

それとこの著者、獨協大学教授という肩書きで専門はユダヤ人史とのことだが、本書に関しては、自分の足で集めた情報でなく公表されている資料(新聞・雑誌・書籍等)を論拠としているだけのように見受けられる。処々、「〜と言われている」という表現があり、調査が足らんのじゃないかとの疑念も起きる。

云ってみれば、田中宇みたいな感じか。その点に不満が残る。

Newtype 2012年1月16日 (月) 02時35分 書籍・雑誌:☆ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 8日 (日)

日本人と靖国神社

日本人と靖国神社

516dqt7tmdl__sl500_aa300_ 新野哲也:著,光人社,(2003

読後感:✖

【戊辰・西南戦争から太平洋戦争にいたる戦死者247万人余を祀った社のすべてを、多角的に捉えた異色の歴史論考。平和主義、民主主義の名のもとで「国家主権」の回復を拒み続けてきた戦後日本人の意識構造を探る。】

第1章 靖国神社は日本の鎮守の森 第2章 なぜ靖国神社を冒涜するのか 第3章 靖国信仰にみる古きよき日本 第4章 現代人が忘れている靖国の心 第5章 日本を護った靖国神社の英霊 第6章 靖国に背を向けた戦後日本の迷走

靖国の成り立ちから知りたい向きには、もっと適切な書があるだろう。これは、靖国が持つ政治的な意味を捉え直し、靖国参拝に囂しく因縁付けてくる奴らに、ふざけんじゃねえぞタコが! 、と怒りの反論をしている書である。

日本人の信仰心についての解釈には、ややマンセーし過ぎなきらいが有り、その点で読後感は快に振れなかった。

日本では天皇制が宗教の重圧から庶民をまもった。八百万の神々はけっしてひとの心のなかにふみこまないからだ。しかも神事はすべて天皇にまかせっぱなしである。日本人にとって宗教はあくまでも神話なのである。ビル建設に神主の御祓いをする日本人が合理的な行動をとることができるはそのおかげである。宗教の重圧がなかったため日本は伝統の保持(=文化)と近代化(=文明)の両方を手にできたのである。

時と場所によって聖俗を使い分け、世俗の合理性と宗教の非合理性をともにうけいれたところに日本人の二元論の発想がある。西田幾多郎が"絶対矛盾の自己同一化"といったのがこれである。寛容なアニミズム的精神と近代合理主義をともに生かす。これがハイテクと神社信仰を共存させる日本人のふところの深さといえまいか。(p154,第五章 日本を護った靖国神社の英霊)

これはちと苦しい解釈ではないかな。そこまで高尚な精神からきている"寛容"ではないと思う。深く考えない態度がなせるものだろう。「宗教の重圧がなかったため日本は伝統の保持(=文化)と近代化(=文明)の両方を手にできたのである。」というのは、説得力はないな。ならば、宗教の重圧か強烈だった西洋から文明の発展が起こっている事をどう考えるのか。重圧が強かったからこそ、それから解放されようとする力も強くなり、文明を産む原動力にもなったのではないか?

絶対者を自明のものとする勢力と、絶対者を否定する勢力との神学論争は、結果的に科学の進歩を促したと見える。それに対して素朴な自然崇拝は、おそらくは天然の理を、あるがままに受けとめる態度となってあらわれたのではないか。この態度からは、何故?と疑問を持ち、追求していく科学的精神は生まれない気がするのだ。

ただ、animismだから科学が発展しなかったのか、一神教だから科学が発展したのかは、はっきりと云い切れる知見はないが。

日本人の信仰心の問題とは別箇に、この靖国神社については、何より、合祀される人の基準が今ひとつ解りにくい。

[画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE]

靖國神社 - Wikipedia

朝敵は逆賊となるというが、幕府側にしても、天皇の首を取る為に戦った訳ではないと思ったが。

それは兎も角、政治家の靖国参拝は是か非か。これは、国家主権とは何かということに関わってくる問題だろう。

国家主権とは、畢竟、交戦権のことである。ところが"平和ボケ"の日本では、そんな物騒な権利はいらないという。どんな生物にも自己保存本能があり、いざというときにはたたかうものだが、日本は、その最低の生物的尊厳すらを捨てさった。これはきわめつけの道徳的頽廃である。平和主義から腐臭が漂うのはそのせいである。

たしかに憲法九条では「国の交戦権はこれをみとめない」としている。これが"主権放棄"条項である。主権がないということは、人間に人権がないのにひとしい。(中略)

国家主権を否定する憲法─これが"占領"憲法の最大の落とし穴である。ところが多くの日本人はこれを"平和"憲法とよんで胸をなでおろす。「丸腰だから平和」というのは、山賊が出没する夜道を大金をもって女一人、用心棒なしで往くのが安全というにひとしい。(中略)

日本にむけられた中国・北朝鮮の核ミサイルを、軍事バランスでおさえこんでいるのは同盟国のアメリカの核である。そのアメリカが中・朝と交戦状態になったとき、アメリカを支援すると憲法違反になるというのが、平和主義者の言い分である。ちぐはぐ、というより最低の卑劣漢である。

じじつ平和主義・不戦主義のパシフィストとは、腰抜け、卑怯者という意味なのである。

これが─首相の靖国神社参拝に反対する人々の姿である。主権なき国家は人格・人権なき人間つまり奴隷にひとしいが、それが日本の平和主義なのである。(pp206〜207 第六章 靖国に背を向けた戦後日本の迷走)

などという言葉が、政治家の口から出てきたら大したもんだと思うのだが。まず、無理だろう。

このように、特亜の鬱陶しい因縁を受けて素直に跪くまえに、国家主権との絡みで靖国を紐解く必要もあるかと思う。

まぁ、著者の靖国観を綴った書であるため、学問として、本格的に日本史や靖国神社に代表される日本人の信仰心を論じたものとは云えない。処々に粗も目立つ。

日本はマルクス主義とも戦っていたのだと云いつつ、片やでは、毛沢東が日本のおかげで国民党を追い払うことが出来たと云っている言葉を引いて、日本の大陸侵攻の正当性を語ろうとするのは無理があるというか、矛盾ではないか?

シナを赤く染めた毛沢東に感謝されたとなると、マルクス主義と戦っていたはずの日本が、逆の結果をもたらしたってことにならないか。

そんなわけで、すっきりと読後感が快に振れなかったものの、良い言葉も頂いた。

ひとの心に聖域がなければ、美や文化、高貴さがうまれるはずはない。(p22,第一章 靖国神社は日本の鎮守の森)

Newtype 2012年1月 8日 (日) 07時38分 ×ばつ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 7日 (土)

2012年1月 4日 (水)

今年も正月休みはない。2日も仕事のため、皇居一般参賀へは行けず。

とはいっても、休みなら行ったかというと、多分行かなかったかもしれない。去年行ったとき、帰り道(しかも皇居内)に日章旗が落ちてて、それが踏まれているのを見て気分悪くなったからな。なんなんだよ、いったい、と。

オレは持ち帰って今も部屋に掛けてあるけど、紙製だし、ま、いっかくらいの軽さで捨てちゃう人が結構いるようだ。出口で回収してくれたらいいんだが。それと、来た人皆に旗渡すのでなく、欲しいという人にのみ渡せば良いと思う。特に、毛唐に渡すのは止めたほうが良い。大事にするわけないだろ、日本の国旗を。

と、思うんですがね。

.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.

今日は休みだったので、靖国神社へ参拝に行ってきた。結構、人来てましたな。

屹度、靖国のみでなく、成田山だの明治神宮だの、梯子してる人が多いんでしょうな。

何ヶ所も廻れば御利益増すとでも思ってるんだろうか。 それとも、面接を何社も受けるみたいな感じか。

よく分からん。Pict0002_2

日本人の宗教に対する節操のなさは、考えようによっては、これ程寛容な精神はないとも云えるのかもしれないが。

まぁ、何も考えてないってのが本当のところだろう。

自分も靖国へは行ったものの、別に祈リに行ったわけじゃない。戦没者の御魂を祀っている社だから、墓参りのような感覚だ。 実はこの態度も駄目のようだが。

神社とは、守護神(霊)の加護を求める場所らしいので、慰霊施設ではないのだそうだ。靖国はだから、護国を願う場所ということになるか。

ただ、それならば会津藩士ら、幕府についた志士たちも分け隔てなく祀るべきではないかと。勝てば官軍負ければ賊軍というが、双方に愛国心はあったとすれば、一方をつまはじきにしたままというのはどうなのか。

日本はこれがために、歴史の基底部というか深いところで、分断されているのではないか。と云うと、神秘的すぎるだろうか。

Pict0004 .。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:

それにしても、死して護国の鬼となった人々を祀るのが靖国。・・・・とのことであるが、境内の的屋なんかを見てると、のどかというかなんというか。

鬼籍に入った方々も、苦笑してるんじゃないかという気がしてくる。

Pict0002

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