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この著者は、テレフォン人生相談でおなじみの人である。たしか。
「正義」と「憎しみ」の構造―オサマ・ビンラディンは十六歳の少年だった!?
著:加藤 諦三,PHP研究所,2002
星:☆
著者の洞察では、オサマ・ビンラディンや反米テロリストという連中は、アメリカが憎いのではなく、祖国に対する愛憎からきているということである。そして、敬虔なムスリム(宗教者)でありながら同時に残虐なテロルを行えるのは何故なのかという疑問は、行動面だけ見ると矛盾しているようだが、心理的に解釈すると矛盾はないという。「憎しみがイスラム教の仮面を被って登場した」の一語につきるということだ。つまるところ、心理的に成長が止まった人々として論じている。
『西欧の文明は人を堕落させる、西欧文明はくだらないと主張しているのは、イスラム原理主義の防衛的価値観である。アメリカを認められないのは、自分たちの日常生活が不満足だからである。
実は、彼らも心の底の底ではアメリカが羨ましい。しかしそれを認めることはアメリカを始め西欧に負けることである。だから認められない。』(P20,「第1章 正義という仮面」)
アメリカ憎しが、じつは根っこに憧れがあるというのはオレも感じてはいた。9・11が起きたときに思ってたのは、「この連中の国は、戒律がうるさすぎて退屈なんだろうなぁ」「することないんだろうな」「娯楽もなく楽しみもなく、アメリカやイスラムでない国が楽しそうにやってるのを、愛憎半ばした気持ちでみてるんだろうなぁ」というものだった。
結局、テロルというのは、聖戦という名の自殺にすぎない。
同志を募り、自殺に促すには死後の補償という契約が必要である。したがって、本音ではアメリカ的西欧的なる価値観に憧れがあるにもかかわらず、それを認めることができない鬱屈した気持ちの捌け口として、相手にアッラーの敵というラベルを貼ったのであろう。思想的に相容れない相手が繁栄を謳歌していることに対する、愛憎半ばする鬱屈に宗教的使命という仮面を被せ、正当化したとみてほぼ間違いないと思う。
一応、不満を言わせてもらうと、エーリッヒ・フロムに傾倒するあまり、彼の著書からの引用に偏りすぎのきらいがある。
Newtype 2009年10月31日 (土) 23時27分 書籍・雑誌:☆ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
四季のうちで一番すきなのは秋かも。感傷に耽るには最適な季節だね。
今日は早く起きて、Radio聞いて風呂に入って洗濯すませて図書館で少し勉強して。
よせばいいのにまたBOOK OFFで本購入しちゃったよ。今月はもう止めると決めたのに。
それからドトールコーヒーで長いことくつろいでた。本読みつつ。
となりの若いカップルが、べたついた恋愛を見せてくれていた。
若いなぁ。ほほ笑ましいね。
ふと思い出す。あいつは今どうしてるだろう。
結婚して幸せになってるだろうか。
こんな大都市で、偶然ばったり出会うなんてありえないだろうな。
秋は空気が澄んでるよなぁ。朝晩のあの冷たい空気が、よけいにオレを感傷的にさせる。
挙句に、部屋のエアコン壊れてるし。
暖房効いてないし。
たたいて活を入れたら、完全に動かなくなったし。
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/G_grygGs1lk&hl=en&fs=1&]
Newtype 2009年10月26日 (月) 00時53分 心と体 | 固定リンク | コメント (14) | トラックバック (0)
星: ☆ ☆
五木寛之の親鸞傾倒ぶりは前から知っていたが(ってか、日本の知識人は異様に親鸞好きが多い)、 「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」という親鸞の思想にそれほどの衝撃も受けなかったので、いままで歎異抄を読まずにいた。
これは仏教的に言っても特に新しい思想とはいえないと思う。オレの浅い知識から言うのもなんだけど、仏教は相対主義の思想のはずである。
絶対的な善だの悪だのということは、釈尊も語ってはいなかったと思う。
そもそも仏教には、相反する概念を「即」の一字で結びつけることが多い。色即是空、生死即涅槃、煩悩即菩提などと。
仏教は融通無礙で抽象性の高い思想である。もっとも、仏教といっても、大乗非仏説を唱える者もいるが。
この歎異抄で印象深かったのは、弟子の唯円(この人が著者とされている)に親鸞がこう言っている場面である。
『「たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。』p101〜102
親鸞が弟子である唯円に、師匠のいう事はなんでもきくというなら、「人を千人殺してみろ、そうすりゃ往生間違いなしだ」といったらやれるか?と問うたら、唯円は「とても自分には無理です」と答えた。
親鸞は、それが業縁というものなのだと言っているのである。人を殺す業をもっている者はそうなるし、逆に、そういう状況に遭遇してしまう業をもっていたら、その気がなくても殺してしまうこともあるのが人間なんだと。こころの善し悪しで決まるものではないんだと言っているのである。ゆえに、ただ念仏あるのみだというのだ。
これはなかなか深いようでもあるが、ややもすると運命論で終わってしまいかねない思想ではないか?なんというか、大藪春彦の言う、「運命にしたがうも運命、さからうも運命」に近いものを感じるぞ。
もったいないねこの人。妙法を知らなかったのか?あ、大聖人より先に生まれてるのか。
南無妙法蓮華経をしらなんだな。世間的な罪人にも、分け隔てなく救いがあるのは妙法も同じなんだけどね。違うのは、あきらかに念仏は死後に救いを求めるとこか。今世での宿業転換を妙法は説いているからね。
先の例でいうと、人を殺めてしまいかねない状況に遭遇していまう人もいれば、そうならない人もいる、その差はなにか。宿業によるというのが仏法である。
親鸞の思想だと、その業縁の前では人はなす術もないということである。だから、そうなってしまってもあの世で救いがあるようにと阿弥陀佛の慈悲にすがるというわけだ。
それに対して、そのような状況に身を置かずにすむようにと、宿業転換に励むのが妙法である。オレはやっぱり、念仏より題目だな。
が、それにもかかわらずオレは親鸞が好きだったりする(笑)。その信仰態度に共感するからだ。
彼は言う。自分は法然上人の仰せのままに信じているのであると。たとえ師にすかされても(だまされていたことがわかっても)恨まないと。そしてこう言う。
結局、この念仏によって救いがあるのかないのか、「存知せざるなり(しったこっちゃねぇ)」
いいぞ親鸞、その乾いた信心大好きだ(笑)
[埋込みオブジェクト:http://www.youtube.com/v/SDK30WrSpdA&hl=en&fs=1&]
Newtype 2009年10月15日 (木) 07時00分 書籍・雑誌:☆☆ | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
とくに何を祈ってるってわけでもないんだけど(御本尊まかせなもんで)、本日で今年も100万遍達成できた。
後半だれてきたけど、前半とばしたから過去2年に比べてずいぶん早い達成となった。
2年連続、大晦日にぎりぎりやりとげてたので、今年こそはこつこつ毎日題目を上げようと決めてかかったのが良かったと思う。でも、毎日欠かさずってわけにはいかなかったのだけどorz
来年はどれだけ早く達成するかではなくて、毎日祈るを目標にしよう。
Newtype 2009年10月 6日 (火) 21時02分 信心 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
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