[フレーム]
クレジット
『クソしたら、お前が指で拭いたクソをちゃんと洗って落とせ』
便座に座って痛む腹を抱えていると、目の前の大書された貼り紙が目に飛び込む。いちいち言われんでも分かるわい......と、思いつつも、うっかりすると不調法するから恐ろしい。歳は取りたくないものだ。ジェットエンジンの発射音さながら、ゴゴゴッと不平を訴える腸内を宥めつつ、指でしっかりと『始末』をする。
......5分ほどそうして、座った割には少ない実入りのそれを流して戻る。大山鳴動してなんとやらということか。ハンドソープで1分もかけて手洗いしてからようやっとデスクに戻り、我が城たる研究室のPCに向き合うと、静寂の中で無用に付けたテレビの音声だけが響く。
『......国連の関連機関と各国政府代表、そしてSCP財団で構成される国際会議、「人類種および人類文明の保存会議」、CoCoHaCの総会が、本日ニューヨークのマンハッタンにある国連本部で行われました。総会では、現在進行中の人類の外宇宙への退避計画である「エクソダスプラン」の進捗が報告され、SCP財団太陽系監督部門の予測では5年後の2041年までに全工程の9割が完了見込みとのことで、計画の完了によって全人類の過半数が外宇宙に建設された遊動型コロニーへと移住することになります。......』
空々しいキャスターの声を背に、痛む脚を引きずってピルケースに手を伸ばす。口腔内に広がるアセトアミノフェンの化学的な甘さと苦み。最早別段の感慨のあるわけでなし、さりとて無視するには余りあるわだかまり。
人類は変わっていく。この老骨を置き去りにして。老兵はただ去るのみかもしれないが、古兵でもなく、ただペンとキーボードに向き合ってきただけの老いぼれは、地球より去ることも許されず忘れられていくだけなのだろう。窓の外、晴れ渡る空とその先の水平線。更に向こう、老眼には霞んでしか見えない軌道エレベーターに乗って、また今日も幾人かの同僚たちが宇宙へと去っていく。
ジクジクと痛む膝をさすれば、先日のフィールドワークのことが思い出される。遥か昔のオブジェクト発生の痕跡を探して、老いぼれ研究員数人で世界中の遺構の土を掘り、あるとも知れない何かを探した2か月間。もしかしたら有るかもしれないものではなく、おそらく無いであろうものが万一存在していないか確認するという、極めて無味乾燥な仕事。得られたものは悪化した関節痛と土埃に塗れたシャツくらい。......そもそも、人類社会は地球ここを去っていくのに、今更地べたを這いずり回る価値があったろうか。チーム全員が思っても言わなかった疑問が、今また頭を満たし始める。
長い、長い溜息が漏れる。気は向かないが、スリープモードに落ちかかったPCを叩き起こし、キーボードへと向かう。老骨とても、まだもう一叩きくらいする余地はあろうというものだ......。
アイテム番号: SCP-3413-JP
オブジェクトクラス: Neutralized(Euclidより変更)
特別収容プロトコル: SCP-3413-JPは2036年現在新たに影響された個体がおらず、人類種および人類文明に対する影響は非常に軽微であると考えられています。そのため、その収容は過去に発生したSCP-3413-JPの証左となる痕跡群であるSCP-3413-JP-1の秘匿に重点が置かれ、地球生物学ならびに古生物学・考古学の領域においてこれが再発見されないよう、研究チームが当該学問領域の研究動向を注視します。新たなSCP-3413-JP-1実例の発見、SCP-3413-JPの歴史上の意義について注目を受けた場合は、関係者に対しBクラス記憶処理を行ったうえで適宜適切なカバーストーリーの流布を実施します。また、SCP-3413-JPの被影響者であるSCP-3413-JP-2が発見された場合、当該人物の周辺環境の調査と身体検査を実施し、財団監視下で元の環境に復帰させます。
説明: SCP-3413-JPは、ヒトに特異的に影響を与える、あるいは過去のある期間においてヒトに影響を与えていた異常現象です。SCP-3413-JPが具体的に過去のどの時点で発生し人類種に影響を与えたか、また現在においても影響が継続しているかについては、決定的な情報の不足から完全には特定されていません。
SCP-3413-JP-1-19。
正面洞窟の内部から、
推定500人以上の
人糞化石が発掘された。
SCP-3413-JP-1-74。
左の腹部の肥大した人物が排泄し、右側の人物が呪いをかけている様子。
SCP-3413-JPに影響された人物は、少なくとも大便の排泄機能を喪失すると考えられています。SCP-3413-JPの異常性とその発生の根拠は、主に石器時代の地層で発見される痕跡を元に推定されており、これらSCP-3413-JPの存在を示す一連の遺構・遺物がSCP-3413-JP-1に指定されています。
以下はこれまでに発見されたSCP-3413-JP-1の一例です。なお、SCP-3413-JP-1はSCP-3413-JPの発生を直接的に示すものよりも、SCP-3413-JPの被影響者(以下SCP-3413-JP-2)がなんらかの要因でその影響下から脱したことを示す痕跡がその大半を占めます。これは、SCP-3413-JP-2の集団においては大便の排泄を経験したことが無い者が多数を占めたことで、むしろ大便の排泄行為の方を異常事象と見なしたためと考えられています。
指定番号 | 概要 | 説明 |
---|---|---|
SCP-3413-JP-1-1 | 1930年代サン人の生活習俗に関する一連の研究資料 | 英国の民俗学研究者のジョージ・メイジャー氏が1930年代に行った、サン人コミュニティに対する生活・社会に関する大規模な現地調査に基づく資料群。氏の調査によってSCP-3413-JP-2のコミュニティが初めて発見され、SCP-3413-JP異常指定の契機となった。詳細は補遺1を参照。 |
SCP-3413-JP-1-2 | 前期旧石器時代初期における人糞および未消化物の化石の不存在 | これまでの考古学研究において、人類の生活遺構からの糞石の出土は中期旧石器時代以降の地層では急激に確認例が増える一方、前期旧石器時代の地層では非常に少ないことが知られている。特に前期旧石器時代初期の生活遺構では糞石の発見例が一例もない。 |
SCP-3413-JP-1-19 | ブロンボス洞窟の糞捨て場遺構 | 南アフリカの中期旧石器時代の居住跡であるブロンボス洞窟の近傍に存在する、人糞だけが捨てられた穴。貝塚のような雑多なゴミ捨て場ではなく、人糞化石のみがまとまって発掘されたことが注意を引いた。 |
SCP-3413-JP-1-37 | フォン=ドゥ=ゴーム洞窟の便所壁画 | フランスの後期旧石器時代の遺跡であるフォン=ドゥ=ゴーム洞窟に存在する、便所として使用されたことが推定される小規模な洞窟と、その内部に描かれた2つの場面描写から成る壁画。片方は動物の排泄を人間が遠ざけている場面。もう片方は人間が自分自身の大便の排泄に驚き、それを隔離しようとする場面。 |
SCP-3413-JP-1-74 | アンゴノ岩絵群の排泄ペトログリフ | フィリピンで紀元前5000年頃に作成されたアンゴノ岩絵群を構成する、大便を排泄する人物およびこれに呪まじないをかける人物を表したペトログリフ。別図参照。 |
影響年代の地層から発掘された人骨化石の分析より、SCP-3413-JPによる人体への影響は全く無いか、あったとしても非常に軽微なものに留まります。これはSCP-3413-JP-2個体を対象に行われた身体的検査からも明らかになっています。また、SCP-3413-JP発生年代およびその前後の時期における類人猿の骨格化石等の調査から、SCP-3413-JPの影響はHomo sapiens sapiensにのみ及ぶものであったことが分かっています。
これまでのSCP-3413-JP-1関連の研究によって、SCP-3413-JPの発生年代は旧石器時代の前期から中期頃までと推定されています。これはSCP-3413-JP-1の発見される年代が中期旧石器時代から後期旧石器時代に偏っており、またSCP-3413-JP-1の発掘された地層より新しい地層では糞石が発掘されることから、現在通説となっています。また、地域によってSCP-3413-JP-1の発掘年代に数万年単位でのずれがあるため、SCP-3413-JPの影響を脱するトリガーとなるイベントがあるとすれば、それは各民族集団でそれぞれ異なったものだったであろうと考えられています(補遺1参照)。
ピーン......という耳障りなハイトーンの通知音で我に返る。気づけば既に3時間が過ぎていた。相変わらず脚は疼くが、腹の調子は戻りつつある。頃合いか、とよろよろ立ち上がってコンロに薬缶を仕掛ける。手のひらサイズのハンドミルに、ひと掴みの珈琲豆。......ふと気づく。珈琲豆のパックの隣の、見慣れないTEAと書かれた缶。
TEAとは何だ?中身を覗くとチリチリと萎れた枯葉のようなものが入っている。瞬間、頭の中に漠然とした不安感、何か欠落したような喪失感、TEAこれがここにあるべきではないという不快感が広がっていく。思わず『それ』を払いのけてゴミ箱へと落とした。
また、だ。レテ・イベント。おそらく、またぞろ例の異常がTEAのなんたるかを私から奪ったのだ。何度経験しても慣れない。自分の頭の中から何かがこぼれ落ちる。私を構成していた何かが視界の隅へと追いやられ、忘却の別次元へと消えていく。鬱々とした衝動を抑えながら、感覚を忘れないうちにと抽斗の中から出した手帳に『TEAの概念』と書き加えた。塩酸の精製方法、スワヒリ語圏の挨拶全般、トイレットペーパーの用途、ギリシャ神話におけるシーシュポスの存在、鑿の使用方法......。これまで私が失ったもの。既に私にとっては記号の羅列にしか見えないが、私の一部だったもの。PCの前に座り直してハンドミルのハンドルを回せば、コリコリと言う音と共に馥郁たる薫りが上がる。TEAのことはともかくとして、せめてこの薫りはどこにも行かないでほしいものだが。
......通知のメールを開くとCoCoHaC関連業務の所掌部署からだった。送信元を確認しておけば良かった。見る気が途端に萎えていく。
エクソダスプラン 2036年度第2次進捗報告
概 略
エクソダスプランは、財団および国際連合とその加盟国の緊密な協力の下で2021年より開始された、人類種の地球生物圏からの離脱を目的とした計画である。これは上記の関係諸機関が、以下の共通認識に至ったことで実現された。すなわち、我々が文明を維持していくにあたりED-Kレテ・イベントの影響は著しく、同時にその原因は地球そのものに存在し物理的に除くことができる類のものではないという現状、その解決にはムーンショット的解決策の実現が肝要である。
本計画は、人類の大多数を宇宙空間へと送る技術と運用方法の確立を目的とする『プロジェクト・エヴァキュエーション』と、宇宙空間における人類の生活圏確保を目的とする『プロジェクト・クレードル』の2つから成る。本計画はCoCoHaCがその遂行に中心的な役割を担い、2040年代に人類生活の拠点と文明基盤を地球外に移転することを最終的な目標とする。
状況概要
プロジェクト・エヴァキュエーションは計画全体の85%が完了している。軌道エレベーターは技術の確立後、現在までにモルディブのインド洋東方沖300km地点・キリバスの太平洋東方沖700km地点・オーストラリアのパース沖800km地点の3か所に建造された。これは現時点での人員と物資の搬送には支障のない規模だが、本格的な移住にあたっては物資のピストン輸送が不可欠となることから、太平洋上に1基を増設したうえで現在の3基は複線化される。計画の完了は2039年度中を予定している。
プロジェクト・クレードルはその計画進捗の70%が完了している。地球環境の再現や家畜生物と植物系の移転による食糧確保等の基礎技術の確立ならびにその応用研究が完了し、太陽系の惑星間空間に遊動型コロニー『バイオスフィアIII』群が建造され運用が開始された。関係者による大規模移住試験として、プロジェクト・クレードルのスタッフと財団関係者、およびコロニー運用のスタッフが2034年より順次移住している。現在、エクソダスプラン関係者の95%、財団職員の60%の移住が完了しており、本計画および財団の本部機能は地球からコロニーへ移転された。本試験終了後、一般人を対象とした大規模居住試験が2年間実施される予定であり、本計画の完了は2041年度を予定している。
上記からエクソダスプラン全体として、最終目標である地球外への文明基盤の移転は2040年代中頃と見込まれる。
濃く淹れすぎたコーヒーの酸味が舌の上に重くのしかかる。去る者は日々に疎し、とはよく言ったものだが、自らが産まれ、依って立った大地を去る者も同じなのだろうか。
最初に例の計画の関係者が、次いでO5のお歴々が、そして上位の監督者が、次第に下の職位の者が、順に空の彼方へと旅立っていった。終いに残るのは最低限の施設管理者と老い先短い木っ端共ばかりだろう。悔しいとか悲しいとか、そういうものでもない。置いていかれることを恨むでもない。......小さい頃にずっと一緒に寝ていたのと同じ型のぬいぐるみを、誰かがゴミ捨て場に置き去っていったのを見た時のような、そんな感覚だった。置き所の無い、空虚な気持ちに満たされる。
いや、感傷が過ぎるか。やめよう。まだ仕事があるのだから。如何なるときであろうと、男は何を為したかで語らなければならないのだから。
補遺1: 以下はSCP-3413-JP-1-1として指定された、ジョージ・メイジャー氏によるサン人コミュニティの調査報告からのSCP-3413-JPに関連した部分の抜粋です。
1930年代サン人コミュニティに関する包括的調査報告(抜粋)
付記: 本研究は1932年から1936年の5年間、カラハリ砂漠の南アフリカ連邦領(当時)で遊動生活をしていたサン人コミュニティを継続的に追跡調査したものである。その目的は、砂漠地帯の非定住狩猟採集民という極めて類例の少ない生活形態を持つ集団の生活・文化・習俗を包括的に記録することにある。
1932年6月14日: 本日カラハリ砂漠へ入り、対象コミュニティに接触した。事前調査によって、当該コミュニティは男性14名、女性17名の31名で構成されており、近隣に拠点を置く他のサン人コミュニティ複数と交流を持っていることが分かっている。彼らは水源を中心とした一定領域を約2週間ごとに移動しながら狩猟・採集・牧畜を営んでおり、サン人コミュニティ間の閉じた生活圏での暮らしを維持している。今後の調査を円滑なものとするため、集団内の中心人物である『ケナマシ』と呼ばれている壮年の男性に挨拶し、ナイフや鉈など生活に役立つような贈り物をした。幸いにして彼らも喜んでおり、ファーストインプレッションは穏便なものに終わった。
1932年6月15日: 聞き取りの結果、彼らの生活は、水の確保、燃料となる薪の調達、食料の調達の3つを軸としていることが分かった。食料の調達にあたっては中型・小型の草食動物の狩猟と野外での採集で賄っているため、農耕はやはり行われていなかった。その他、慶事の時に捌くヤギを20頭ほど飼育して少ない草を食ませているが、これは主要な食糧ではない。その他、生活に必要なもので不足が出た場合には他のコミュニティと融通しあっているとのことだ。不便さを感じないかという質問に対しては、根こそぎは取らず無くなればまた別の場所に行くだけという回答であった。
1932年6月19日: 今日、非常に特異なことに気づいた。驚くことに、彼らは大便の排泄をしない。あまりにも特異すぎて今までかえって意識に上らなかったのだが、彼らは全員排尿こそするが観察開始から大便を一度もしていない。サン人は小用の時は野外の物陰で(男性の場合は割合堂々と)用を足すが、大はそもそも便意と言うものが来ないらしく、食べたものは根こそぎ消化されているようだ。これがサン人の民族的・身体的な特性によるものなのかは分からない。今日の聞き取りで、彼らにとって「排泄」という言葉は排尿のことのみを指し、大便に相当する言葉は意図的に避けていることが分かった。道理で私が用を足そうとする際に、コミュニティの生活領域から異様に遠ざけていたわけだ。
1932年6月26日: 再度の贈り物と交渉によって、ケナマシが彼らにとっての大便の認識について嫌々ながら語ってくれた。大便をする者は、彼らの神話に出てくる邪悪な獣『ガ・ゴリブGa-Gorib』に石を投げられて穴に落ちた者の血を引くとされている。彼らの認識では大便=獣のするものというものであり、彼ら自身が狩猟に依って生活しているためか大便自体に忌避感情は無いと見られる。しかし、コミュニティの他の構成員にも聞いてみたが、大便は集団のソトとウチを区別する大きなファクターとなっていることは間違いない。
1932年7月21日: 彼らの排泄行動に主眼を置いた観察を行って1か月、考えていた以上に大便は彼らの仲間意識を涵養しているものであることが分かってきた。大便に関する彼らの神話を纏めると、以下のように伝えられているという。
邪悪な『ガ・ゴリブGa-Gorib』は、いつも弟である人食いの獣『アイガムハAigamuxa』と共に砂漠で人間を捕らえて食っていた。
ガ・ゴリブが自分に向けて石を投げるように人間を唆し、相手が石を投げると仕返しに大きな石を投げ当てて暗い穴の底に落としてしまう。穴の中ではアイガムハが待ち構えており、夜目が効く足の甲に付いた目で落ちた者を睨みつけ、動けなくしてから食い殺してしまった。
やがて人々は英雄『ヘイツィ・エイビブHeitsi-Eibib』に助けを求めたので、彼は退治のために砂漠へ向かった。
『やい弱虫め、恐ろしくて近づけないだろう。悔しかったら石のひとつも投げてみろ』『お前のような情けないやつのところには、クー!Xuも雨を降らせたりしないだろう』ヘイツィ・エイビブはガ・ゴリブにいくら唆されても頑として動かなかった。そうしてついにガ・ゴリブが諦めて去ろうと背中を向けたところに、彼は石を投げ当てて逆に穴に落として倒してしまった。次にヘイツィ・エイビブは、兄をやられて怒り狂うアイガムハを挑発して、穴の外に誘い出した。アイガムハはヘイツィ・エイビブを追いかけたが、目が足の甲に付いているために走りながらでは周りが良く見えず、穴の縁にいるヘイツィ・エイビブ目掛けて襲い掛かかり、そのまま穴に落ちてしまった。
こうして人々は獣に怯えずに済むようになり、2頭に食われた人間たちもヘイツィ・エイビブの力で穴の底に排泄された糞から復活した。しかし、獣に食われた者たちはそのために獣の血を引くこととなり、人間であっても獣と同じように糞をするようになった。
この神話によれば、大便をする者は獣に近いということになる。個人的に心外ではあるが、同時に興味深いとも思う。もしかすると、彼らに農耕・定住の文化が根付かなかったのは単に地味の痩せた砂漠で暮らしているからというだけではなく、糞そのものが忌避されていたため肥料を普及させられなかったからではないだろうか。
1934年5月14日: 数か月ぶりにコミュニティを訪問すると、彼らの生活に一部変化があった。ケナマシに贈り物をすると、以前所属していた若い夫婦が半独立状態となり、少し離れた場所に分家のような10人程度のコミュニティを作ったのだと教えてくれた。この夫婦は南アフリカのズールー人・ツワナ人・アフリカーナ―の定住民との取引のため、砂漠の周縁部の水源を根拠地として移したのだという。彼らにとってコミュニティを分けるのは割に普通のことのようで、何らかのトラブルであるとか、そのようなことではないらしい。彼らは育てたヤギと定住民らが作る道具を交換しており、ケナマシらの元にもそれらの品々が回ってきつつあるという。驚いたのは、狩猟用ということで数丁ながらエンフィールドの型落ちの小銃まで彼らが所持していたことだ。いずれにしても、英国の影響がこのような辺境まで届きつつあるというのは喜ばしいことである。
1935年4月8日: 今年の調査のため彼らのコミュニティを訪れると、ケナマシから驚くべき知らせがあった。前年に独立した夫婦らのコミュニティで、大便を排泄する者が出始めたという。夫婦らは引き続き狩猟採集と交易によって生活していたが、数か月前から定住民らと同じく排便をするようになってしまったため、他のサン人のコミュニティからはガ・ゴリブに呪いをかけられたと忌避されてしまっているらしい。
1935年4月19日: 夫婦らのコミュニティで事情を聞いた。時期としては今年の2月頃、夫婦らが始めて排便を経験したらしい。はじめは混乱のあまり病として伏せていたが、やがて1か月ほどで構成員の間で同様に便意が来るようになり、やがて全員に影響が及んだことでお互いに気づいて、ケナマシらに助けを求めたそうだ。結果的には、他のサン人らにもその話が伝わったことで忌避の対象となってしまったため、他のコミュニティとの交流が無くなってしまった。結果的に移動生活が難しくなり、前回移動した昨年12月頃からは半定住状態になっているという。
1935年8月1日: ケナマシらが今回の異常について、ガ・ゴリブの呪いを払う儀式をするらしい。このような機会はなかなか無いため是非同席させてほしいと依頼したが、「大便をする者はガ・ゴリブの血を引いているから危険」と言って嫌がられた。仕方なく贈り物とカネを握らせて離れたところから観察することは許されたが、彼らが金銭にも価値を見るようになった点は調査当初との大きな差異である。
1936年5月10日: 36年の調査を開始するため、コミュニティを訪問。どうやら前年の『異常』はケナマシのコミュニティにも広がっているようで、混乱の度合いを深めている。コミュニティ内の3割ほどが影響を受けており、そのせいでこちらも迂闊に移動することが出来ず半定住状態になっている。移動することができないために生活資源の調達に難儀しており、コミュニティの中ではやむなく南アフリカへ出稼ぎに行く者も出始めている。
1936年9月14日: 『異常』の影響はコミュニティ内の7割程度に広がっている。最初のうちは陰で用を足していた彼らだが、最早排便をする者が多数派になったため簡易的なトイレが作られるようになった。混乱の度合いが広がっており、他のコミュニティのサン人らにも排便をする者が出始め、中には逃散のように町へと逃げて砂漠を脱出する者もいる。コミュニティの生活様式が崩れ始めており、私の存在を悪魔のように見る者も珍しくない。情勢不安につき、調査はこれで切り上げとする。
1936年9月25日: カラハリ砂漠を抜けた。今回の『異常』は大変不思議な経験だった。大便をしないこと自体の異常もそうだが、サン人コミュニティの変質の様子を観察することができたことも非常に貴重な記録となるだろう。
実際のところ、なぜこのようなことが起こったか、というよりも彼らがなぜ大便を排泄しないで暮らせていたかも、観察を続けたが結論を出し切れていない。しかしながら、彼らが2週間程度で移動する生活を送っていたことが大きな要因ではないだろうか。夫婦らの話によると、最初の排便を経験したのは交易のため2か月以上同じ場所に留まっていた時だという。移動する生活から定住する生活への移行が、サン人の体に何かしら不可逆な変化を起こしたのではないだろうか。
いずれにしても、現時点では分からないことが多すぎる。私としては、今後この事例を広く発表することで、生物学領域などからのアプローチが為されることを望む。
本研究はSCP-3413-JPの異常性と影響、更にはその影響下からの離脱の様子を、経時的・網羅的に記録した貴重なものであり、財団の注目するところとなりました。このことからその功績が評価され、1937年にメイジャー氏は財団研究員として採用されました。
第2次世界大戦後、メイジャー研究員の研究に基づいて、移動生活を送る民族にSCP-3413-JP-2が多いという仮説を元に調査が進められた結果、1950年代までにチベット・キルギス・ウズベキスタンの3か国で、構成員がSCP-3413-JP-2である遊牧民のコミュニティを発見することに成功しました。
しかし発見されたSCP-3413-JP-2コミュニティは、その後の追跡調査の中で全て異常性を喪失したことが確認されており、現在地球上にSCP-3413-JP-2個体は存在しないと考えられています。
補遺2: 上記のSCP-3413-JP-2全集団の異常性喪失を受け、ジョージ・メイジャー研究員よりオブジェクトクラス変更の動議が提言されました。
我々が観測できたSCP-3413-JP-2集団は全て異常性を喪失した。これまでの研究と観察に基づいて、以下の理由から私はSCP-3413-JPのNeutralized分類への変更を提言したい。ただし、SCP-3413-JPが人類に主として影響を与えていたのは1万年以上も前のことであり、以下の説も多分に推測が含まれ、あくまで蓋然性が高い説にすぎないという点に注意してほしい。
従前より、研究チームの仮説ではSCP-3413-JPの発生条件は『移動生活を送っていること』とされてきた。事実、戦後に発見されたSCP-3413-JP-2個体は、いずれも遊牧民を中心とした非定住民だった。SCP-3413-JP-2集団で異常性喪失が起きたことを示唆する遺構が旧石器時代後期以降に集中しているのも、気候変動や農耕の開始によって人類が定住生活を営み始めたからだと考えられてきた。
しかしながら、サン人のSCP-3413-JP-2コミュニティの異常性喪失の例に見るように、継続して移動生活をしているにも関わらずSCP-3413-JP影響下から脱する者も多く存在するという矛盾が指摘されてきた。このことを踏まえ、我々は異常性発現の要件を『生活基盤を移動生活に置いていること』と仮定して考えた。こう考えると、サン人のケースで異常性が消失した原因も分かる。夫婦らのコミュニティの場合は定住民との交易を始めたことで、移動生活を送っていてもその生活は事実上定住民らの生産する産物に依存することになった。移動生活を送りながらも異常性を喪失するケースでは、生活の基盤が定住生活者のそれに依拠するようになったためとすると筋が通る。ケナマシらのコミュニティの場合も、定住生活者からの贈り物や交易品によって、その生活基盤を変質させたことが契機になったのではないだろうか。
現在地球上の人類文明は、そのすべてが定住生活を営む人々の生産活動によって成り立っている。途上国や移動生活をする集団であっても、その生活は国家の枠組みやインフラ、定住民との商取引が無ければ成立しない。
SCP-3413-JPはおそらく最早発生しえない。発生した根本の原因が、人類のDNAに刻まれた何かなのか、それともミーム的な何かなのか、何であるかは現在ではもう特定することができない。しかしながら上記の仮説が正しいとすれば、定住生活でなければ人類文明を営むことができない以上、SCP-3413-JPの影響を齎すトリガーそのものが起こりえないことになる。何より、事実としてSCP-3413-JP-2個体はもう地球上にいない。
以上の理由から、SCP-3413-JPはNeutralized分類が妥当であると提言する。我々はこの生理現象と今後も付き合い続けていくことになるだろうが、だからと言って何も変わるわけではない。有史以来の習いとして、また地球上の他の生物と同じように、食べたものは消化されて出てくる。それだけのことであって、人類の身体にはそもそもとして何らの異常も無いのだ。
――SCP-3413-JP研究主任 ジョージ・メイジャー
本提言は日本支部理事会により承認され、オブジェクトクラスは正式にNeutralizedに再分類されました。
カップの中の茶色い液体を啜りながら、水平線上の軌道エレベーターに目を凝らす。天に向かって上っているようにも、地に向かって落ちてきているようにも見える。......ふと、報告書のことを考える。ここ2か月をかけて、SCP-3413-JP-1の存在に対して反証するような遺構が無いか確認して回ったが、やはりそんなものは無かった。改訂してきたこの報告書もこれが最終稿ということになるだろう。どうあれ、一つの仕事を私はやり終えたのだ。徒労感混じりの中途半端な満足に浸っていると、唐突に雷のような音が響く。自分の腹の中から。クソ、落ち着いたと思ったのに。
ヨタヨタとトイレへ駆け込み腰を下ろす。報告書の通りであるなら、今出ているこいつも、言ってみれば過去1万年の人類文明の結晶ということになるか。人間は地球上に居を構え、地を拓き、知識の領域を広げ、(ついでに大便を出しながら、)地上を征服しつくし、そして今その地球を去ろうとしている。遠い話だ、と思う。ましてその地上に残されて、知識の領域を気まぐれに狭められていく自分にとっては。
便器の中からポチャンと落下音がする。......何かおかしくないか?
扉を後ろ手に閉じる乱暴な音を背にして、もう一度報告書に向かい合う。『SCP-3413-JPの発生した根本の原因は現在では特定できない』。ということは、究極的にはなぜSCP-3413-JPが発生していたかは分かっていないということだ。本当に、本当にもう、異常が再発生する可能性は無いのだろうか。もし人類の文明が完全に移動生活に戻った場合、SCP-3413-JPが再度その異常性を目覚めさせたりはしないだろうか。
我々の文明は定住生活の賜物だ、だからSCP-3413-JPは異常性を喪失した。そこで終わりなら良い。だが......。海の向こうに光が灯る。「彼ら」はどうなるんだ?惑星間空間のコロニーは遊動型であり、地球の公転軌道のように規則的に動くわけでも、まして宇宙空間で特定の座標に固定されているわけでもない。文字通り根無し草の如くフラフラと遊動しているにすぎない。これは「移動生活」ではないのか?
思考が潜っていく。「生活基盤」とはそもそも何を指すのだ?生活環境のことか、衣食住の入手方法か、それとももっと大きな括りなのか?例えば衣食住のすべてをコロニー内で自給できるとしたら、その生活基盤をどう考えればいい?例えば異常の根本原因がDNAにあるなら、それを人間の体はどうやって判断しているんだ?
......もし人間の体が排泄を不要だと判断してしまったらどうなるだろうか。コロニーは閉じた空間だ。内部に存在するものはゴミでも排泄物でも残らず資源であって、それが無くなればどうなる?資源を使って食料を生産しても、それが排泄されなければ、コロニー空間内の資源は少しずつ少しずつ空費されていくのではないか?
いや、やめよう。全て空論だ、考えるに及ばない。私は地球ここから離れられないのだから。
いよいよ夜の帳がその色を濃くする。......帰ろう、考えても仕方のない時は何もしないに限る。PCを落とし、空調を止め、部屋の電気を切ると、暗闇の中でトイレの電気を消し忘れていることに気づく。手探りでドアノブを捻って中を覗くと、思わぬ忘れ物に迎えられた。
便器の中の、人類文明の「落とし物」。
喉の奥に笑いが込み上げてくる。あぁ、そうだ。思い出した。私さえ、忘れないとは限らないじゃないか。地球に残される、この私さえ。明日には手帳のページに、痛む腹を抱えながら書いているかもしれないじゃないか。『クソの垂れ方』、なんて。
新月の空の下で、天上よりも光る街並みが静かに広がる。数年のうちに、人類は数億年を過ごした揺り籠を出ていくだろう。......よもや今更宇宙に行ってまで、赤子のようなトイレトレーニングを――それも人類全体で――もう一度繰り返すような真似はまさかするまい。
新たな揺り籠クレードルの中にも、性懲りもなく人類という永遠の赤子はクソをひり出すだろうと信じている。......輝かしい宇宙時代の幕開けを便秘の悩みみたいなもので飾られるのでは、古びた揺り籠に残されていく者としては笑うに笑えないのだから。
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