O/Oに近寄るな
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クレジット

タイトル: O/Oに近寄るな
著者: islandsmaster islandsmaster
作成年: 2024

評価: +23
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黒い太陽が、孔の空いた大地と虚空の間に浮かんでいる。

陽光は何色とも言いがたかった。実際のところ、それが齎すのは光ではない。ごく一般の太陽を知るものの目には、衛星の影によって隠された、蝕にある恒星のように見えるだろう — それは脳が作り出した幻影に過ぎず、概念的に近似な解釈として、記憶にある映像をそれらしく出力しているに過ぎない。だから一度も太陽を目にしたことがない者には、もしかするとそれは赤いセロハンで覆われた、ひどく膨満した白熱球に見えたかもしれない。

娘がひとり、地上に立って、暗紫の陽光をその身に浴びている。ひどく汚れた簡素な法衣をまとい、煤と汚泥にまみれた肌は、褐色にひび割れ始めている。彼女の足元、数歩先で大地は途切れていて、遙か下にふつふつと沸き立つ汚泥がうねりながら岩盤を削り取っている。かつてそこにあった都市は引き倒され、何処とも知れぬ深みに落ちていった。

不意に娘が身を翻すと、閉じられていた眼が見開かれ、白濁した水晶体が顕になった。何者をも映さないその瞳が左右に揺らめき、また戻る。茫洋とした視線の先、白い防護服を着込んだ男が、折れた鋼管の杖をついて歩み寄った。歳月の波に削られた痩躯は、それでも真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。

企業評議会メインズがついに結論を出した」

老人の声は疲労に嗄れていたが、確かな達成感に満ちていた。仕事をやり遂げたのだ。ひどく混乱した日々の果てに、彼は秩序を取り戻す手立てを付けたのだった。

「塔の内に御座すものがなんであれ、それを害すべきではないとのことだ。市政府を再編し、塔を取り込んだ"繭"に使者を送る。荒御霊でないことを祈るしかあるまいが」
「大丈夫ですよ」

娘が言った。吹けば飛ぶような儚い身成りに反して、その表情は穏やかで自信に満ち、いっそ傲然としてすらいた。

かれはわたしたちを見ています。興味を持っています。おもしろがっているんです — わたしたちのことを知りたがっている。上を見てください。かれの視線を感じませんか」
「私には見えない。他の罹災者にも見ることはできない。きみのようなごく少ない共覚者シンパシスを除いて、あれの一端に触れることすらできんよ」

老人は虚空へと曖昧に目を遣り、自らのまだ機能しているはずの瞳に映ることのない恒星の似姿を追い求めたが、すぐに諦めて視線を戻した。ここ数日、どうにか保全された重力区画から外に出るたびに、彼はそうやって何もない空に目を凝らしていた。投錨極フリックポイントが完全に失われ、基軸宇宙への帰還はもはや不可能とわかったとき、空を眺める以外に何をしろというのだろう? 漂流者となった今、人々にできることはほとんどないのだ。

「"繭"は今も泥を垂れ流している。街区は腐敗し、大地に穴が空いた。まずは辺縁地域の復旧と、民心の鼓舞から始めることになる......塔に橋を架け、使者を届けるまで、どれだけかかるか分かったものではないぞ」
「大丈夫ですよ。やり遂げられます」

わたしたちならば、必ず。そう言って娘は、事の結末がわかっているように微笑んだ。

「新しい神が生まれました。かれは自分のことも、わたしたちのことも知らない。赤ん坊です。ただ手を伸ばして、呼んでいるんです。応えてあげないと」
「どう答える? 我らのことを教え、そしてどうなる」
「わかりませんか?」
「わからぬよ。だから尋ねておるのだ、神枷の巫女よ」

老人は首を振った。皺だらけの顔に、恐れと期待と困惑と、大いなる信頼が綯い交ぜになった表情が浮かぶ。娘は笑い、眼下に煮え滾る混沌の先、太陽の直下に意識を遣った。大地を貫いた腐食の波の根源は、既にひとつの都市を呑み込んだ大穴の、遠い辺縁からは窺えない。それでも彼女には、新たな存在を宿した肉と鋼の揺籃が、今なお脈動するさまが感じ取れた。

その視線を、その声を、その意味を彼女だけが知っている。それはこう言っているのだ。



"███を知ってるか?"

「知りませんよ。だから教えてもらいに行きます」
「何?」
「名前です。かれの名前 — もしかすると、かれ自身も知らないのかもしれないけれど」

老人は瞠目する。巫女はただ頷いて、遥かな存在へと手を差し伸べた。

「自己紹介をするのです。かれと、わたしたち。お互いに。未来のために、進んでゆくために」



アウターオーサカの口さがない連中は、ナンバ地区ディストリクトをパーティ会場に喩える。この都市が虚空を漂い始める以前、建築中の超々高層ビルを、クロークに籠る人妻に見立てた差別的ジョークがその端緒だった。現在においてもその用法は誤りとはいえない。ビルを覆うネオン色の投影標識ホロサインはさながらドレスのようであるし、縦横に巡る連絡路を行き交う動力車輌ランド・カーの灯火もまた、きらびやかなネックレスのように見えるだろう。

当然ながら、そこには別の含意も潜んでいる。ドレスとネックレスは支配の暗喩だ。貴婦人たちは支配されている — 首飾りを与える紳士たちに。彼女らを縛り付ける大河のごとき車列と素肌を覆い隠す広告表示、それを齎す大いなる企業連メガロと、その中心に座す六人の王シックス・メインズ

逆さ吊りの街ウランバーナ》の異名を取る、無秩序に拡張した巨大な積層都市スプリット — 無論のこと、吊られるのは彼女らのである。逆さまになった貴婦人は首を絞められて、搾られた血は虚空に消えたはずが、いつの間にか王どもの腹に収まる。弱肉強食の掟はこの街では成り立たない。強きも弱きも平等に、企業の中の企業、六頭体制ヘキサドと彼らの神に支配される。

だからパーティの参加者たちは、常にこのワンサイド・ゲームから抜け出す機会を伺っていて — アイスト・サイドマンのような背搬者バックランナー、後ろ盾たる企業紳士を持たない非合法の請負工作員は、彼女らが足掻くたびに振り撒かれる血飛沫のひとしずくを日毎の糧にして生きている。


「やめろ! 俺に — 俺に近づくな!」

七十五度傾いた路地の果てで、恐慌状態の若い男が叫ぶ。彼の後頭部は醜く盛り上がり、弛んだ皮膚から変形した頭骨が通信端子のように突き出している。30%の廃人化リスクと引き換えに無手術で脳改造を提供する、安価で破滅的な電脳化バイオキット — 都市を牛耳る六頭体制の末端、神々廻シシバ電子実業公司とNI//NUニッソ神経医機学の悪夢的コラボレーションが生み出した、新世代の生体型電脳改造者デッキヘッド

彼にはイズミという名前があった。母親から貰った大切な識別子テクスト。だが唯一の肉親と死に別れて以来、それは全くの無価値となった。生きるために脳を改造し、第三の目を啓いたその日から、彼はエー・ヴェーの電子網イントラに一山いくらで転がっている頭脳労働者ブレイン・ワーカーだ。ケーブルを介して企業のサーバーに接続し、一日20時間、日雇いの生体CPUとして働く。彼の識別子は42桁の数字になり、彼の名前は忘れ去られた。彼は支配されていた。紳士たちの足元で踏み潰されていた。

"鍵"が彼を大物にしてくれるはずだった。派遣先の企業からそれを密かに盗み取ったとき、彼は自らの未来が今まさにネオン色に輝いていると信じた。自分がここで終わっていいはずがない — サカイの基盤層近く、 真っ黒な《胎盘プラセンタ》がよく見える蒸し暑い廃棄区画で、低賃金の反射屋リフレックスとして惨めに死んでいいはずがない。紳士たちの財布はあまりにも大きく豊かなので、小さな穴を空けたところで誰ひとり気づかないだろう。

だが彼にはひとつの誤算があった。彼のような人間はあまりにも数多くいて — そしてこの欲望の街においては、彼の行為は非常にありふれた、手垢の付きすぎた裏切りなのだ。結果として彼は追い詰められ、襲撃者が姿を現した。緑褐色の軍用外套マーセ・カモに身を包んだ、特徴のない陰気な男。バックランナー。金次第でどんな非合法行為にも手を染める、企業に雇われた小間使い。

「許してくれ — ほんの出来心だったんだ」

殴られた右頬が青く腫れ上がり、痛みが脳幹を支配する。ニューロン成長剤の副作用で捻じ曲がった指を振り回し、襲撃者を遠ざけようとするが、膨れ上がった頭部は重心を狂わせ、まともに走ることも叶わなかった。結局、彼は足を縺れさせて埃まみれの路地に這いつくばり、悲鳴のように許しを請うしかない。

「やめてくれ、助けて — 金なら払う! あんたら企業は暇じゃないだろう、俺みたいな、ただの日雇いのリフレックスなんて、殺したって割に合わないはずだ。警察に突き出せばいい!」
「そいつはいただけないな」

襲撃者、アイスト・サイドマンは溜め息をつく。警察 — この都市においてこれほど頼りにならず、また微笑ましい言葉も珍しい。創設から数えて百余年、治安局の関心事は都市公安を除けば常に徴収金事業のみにあり、一日に数千件を数える軽犯罪は事実上野放しだった。O2PDアウターオーサカ市警察への犯罪者引き渡しは基本的に拒否される運命にあり、運良く勤勉な警官に当たっても懲役企業ズーオへの法外な委託料か、そうでなくとも思いつく限りの科料か制裁金が課せられる。

それに何より、アイストの仕事は男を警察に突き出すことではなく、捕縛して痛い目に遭わせることだ。紳士たちの面子を潰すとどうなるか、広く巷間に知らしめるために。

「金が問題じゃないんだ、イズミさん。あんたは秘密保持契約を破り、セキュリティBotをぶっ飛ばして、企業からキーコードを持ち出した。開発中の新型I.C.E.アイス暗号鍵」蟀谷の薄い皮膚の下、僅かに出っ張った埋込み型端子のカバーをコツコツ叩くのは、くだらない物事を敢えて口に出す必要がある時の癖のようなものだった。実際、既に彼は辟易していた。

「あんたがそれを何に使うつもりだったかは知らない。企業の連中としちゃあ、仮設定にすぎないプロトタイプのキーコードなんて、盗まれようが屁でもないだろう。喜ばしいことに、損害はゼロだ。市警察の世話になるまでもない」
「じゃあなんで!」
「自分で考えろ。何が理由でこうなっているのか」

アイストはそれきり口を噤む。コートの腕が懐に伸び、退路を失った男が咽び泣く。彼には己の陥った窮地が何によるものか理解できない。この陰気なバックランナー曰く、彼の犯した罪は本当に些細でつまらないもので、企業に損害はないのだという。この掃き溜めの街においては、こんなことはありふれているのだと。

つまり俺は何も悪くない — 彼は真剣にそう考える。バックランナーが銃を、ひどく旧式の非電化銃リボルバーを取り出すのが見える。殺されるのだろうか? 否、この街には死よりも残酷な罰が山ほどあり、肉体の停止は大した話じゃない。だがなぜ俺にこんなことをする? どうして? ちょっと頭を働かせて、うまく稼ごうとしただけなのに。 この街ではみんなやっているように!


ちくしょう。

声にならない悲鳴を上げて、男は最後の抵抗を試みる。脳内にひっそりと存在していた、押してはいけないと言い含められていた、小さな黒いスイッチを押す。"鍵"を盗んだ時と同じように — その効果はいつだって覿面だ。

激しい高揚と酩酊感、それを遥かに上回る痛み。血圧の乱高下と血糖値の急減。貧栄養で低品質なインプラントに想定されていない負荷がかかり、アドレナリン分泌が突然倍増、心臓が猛烈に脈を打ち、脳圧が急激に上昇する。白目を剥き、涎を垂らし、神経信号の混乱で全身の筋肉から力が抜ける。無様に尻餅をついて、支えを失った首ががくがく揺れる。

突然の奇態にアイストは目を丸くする — 驚きの表情が一段跳ね上がるのはそのすぐ後だ。

突然の浮遊感、次いで轟音。区画全体に不吉な微振動。路地が傾き、地面が揺れる。猛烈な熱風が吹き込んで、そこかしこから住民の悲鳴が上がる。まるで地震と竜巻が一緒くたになったような — だがアウターオーサカに地震はなく、したがって好き勝手に増築された貧民窟にも耐震性という概念はない。齎されるのは破壊的カオスだ。振り撒かれる粉塵、あちこちから聞こえる衝突音。頭上に張り出した通路が崩れ落ち、安価で有毒な生体建材アーキフィルムの破片が辺り一面に飛散する。

「待て!」

鋭い叫びが混沌を切り裂く。塞がれた通路の向こう、ぼたぼたと鼻血を垂らしながら、イズミが必死に地面を這っている。重力異常で元から傾いていた路地は、震えながらますます沈み込んでいる。濛々と広がる土煙。破断音。どこか遠くで子供が泣き叫ぶ声。とめどなく押し寄せる混乱。

狂騒の中で、アイストは冷静さを保っている。彼は右手で銃を構え、そして撃つ。高らかな銃声、反動。短い悲鳴。

足を縺れさせ、男が崩折れる。アイストは地面を蹴り、強化された脚力は常人を遥かに超えるスピードでもって一息に瓦礫を飛び越えた。右足の傷口を抑えて身悶える男の頭を勢いよく蹴り飛ばす。痛烈なローキックが男の意識を刈り取ると同時、地響きは止み、ゆっくりと路地の傾きが元に戻っていく。

気絶したイズミを見下ろして、首を振り、次いでアイストは空を見上げる。微かに聞こえる有料救急フライドックのサイレン。先程までの混乱が嘘のように、乱立するビル群は華やかに煌めく。廃墟の影に遮られた空。逆さまの街の最上層は、すなわち経済の最下層だ。下へ下へと拡張する積層都市の、美しいネオンの輝きは熱に変換され、蒸し暑く饐えた不快な上昇気流が熱風となって上層に届く。

耳の後ろに小突くような感触。インプラントに着信が来た。

「仕事は終わった」淡々と呟く。「今から戻る。いや? まだ生きてるさ。それから......」

溜め息をついて、アイストは付け加えた。

「店で会おう。気になることがある」



サカイ地区ディストリクトは名前通りの街だ。サカイ、境、すなわち境界。異界の入り口、世界と世界の結節点。港であり、関所であり、峠でもある。

だから人々はサカイに集まる。通り過ぎる人も、通れない人も。次元港と貿易公社ビル、市民登録局ライトスタッフの厳めしい装甲オフィス、企業軍ミリアッドの駐屯地が陣取った中心街を離れれば、広大なスラムと未登録住民居留区が立体的に絡み合い、重力も法規制も無視して上下左右に拡大していく。

迷路のような路地を抜けた先、辛うじて汚物も瓦礫もどうにか退かすことができたといった体の、他よりはまし程度の衛生状態を保つ店がある。種々雑多な料理をメニューに並べて、そこそこ繁盛した二階建て。レストランと呼ぶには貧相で汚く、屋台というには立派すぎる、看板には"グレート・トランプあばずれ女"の文字。

捕縛されたイズミを地下室に押し込んで、アイストと依頼人はテーブルにつく。

「急な依頼で済まないな、サイドマン」

「大したことじゃない」安価な節長虫の唐揚げをつつきながら、アイストは半眼で依頼人を見る。「あんたがヘマをやるとは珍しいな。派遣人の素性は調べるだろう」

「無論だとも。だが同情してしまったのさ」

依頼人の大男がきまり悪げに微笑む。今日び珍しい完全無改造ノーマルの恵体に、強面だが不思議と威圧感を与えない、どうにも人の良さが隠せない髭もじゃ。このあたりの貧民窟の顔役で、店のオーナーにして仲介屋レギュレータ。誰も彼の本名を知らない — ただ"船乗りジャッキー"とだけ呼んでいる。

「母親に先立たれて天涯孤独。生きるためにインプラントを入れたが、維持費と免疫抑制処置でかえって借金が嵩んだらしい。よくある話だろ」
「安いキットほど後から金がかかる。拡張脳は大飯喰いだからな」
「しかも取り外せないときてる。奉仕工場コープスコッズ送りは嫌だと怯えるから、払いの良い頭脳労働ブレインワークを手配した。相手先の企業とは長い付き合いでね」
「だが裏切られた。企業に損害がなくとも、あんたにはある」
「仲介屋は信用商売だ。気は進まないが、けじめは要る。そうでなければ客が離れる」

心底残念そうに溜め息をついて、大男はホワイト・マゴットのステーキを頬張った。工場培養の昆虫性蛋白に塩を振って焼き目をつけただけの代用肉は、かつて漂流期ドリフトサイドの慢性的食糧難を支え、今なお貧民街の食卓を象徴する伝統食スラグフード。溶けかけたゴムタイヤのごとき不快な食感と臭気さえ除けば完璧だ — 巨大な口に次々と白い塊が呑み込まれていくさまを、アイストは気味悪げに眺める。

「有り難いことに店は繁盛しているが、それだけでは先行きは暗いよ。同胞らに当座の居場所を与えるなら、ただ施すだけでは駄目だ。彼ら自身が、自らの足で歩いていけるようにしなくては」
「そのために自分で食い扶持を稼がせる。大した話じゃないか」
「褒めるなよ。一時凌ぎの救命筏ライフラフトだ」

肩を竦める大男は、懐からメモを取り出して滑らせた。都市中くまなく電子網イントラが張り巡らされ、インプラントによる電脳化が普及したアウターオーサカでは、紙で情報をやり取りするのは不法滞在者ライトレスか犯罪者、貧乏人と相場が決まっている。ジャッキーの場合はそのすべてだ。

「イズミの住所だ。南の封穢堤に近い — "呼ばれた"のは彼の死んだ母親で、彼自身はこっちで生まれた。昔はこの店にもよく来ていてね。いい子だったんだが、この都市のやり方に馴染みすぎた」
「上昇志向はいいとして、生身の居場所を知ってる人間を裏切るような間抜けだ。結局、自分の肉体と時間を使ってツケを支払うことになる」
懲役業者ズーオはこちらで選んでいいという話だし、欲求剥奪刑ボディッシュメントにはならないだろう。粗悪でも電脳化しているから仕事はある。労役だけで帰ってこれるといいんだが」
「どうかな。この手の奴は死んでも学ばない」

僅かに濁った浄化水のボトルを飲み干し、アイストは蟀谷を叩く。話の方向が変わるのを察してか、ジャッキーが僅かに姿勢を正した。

「依頼の背景は理解できた — だが解せないことがある。日給暮らしのデッキヘッドのくせに、追い詰められた苦し紛れに重力層をクラックしやがった。信じられるか? 軸平衡器エクイポイザを吹っ飛ばしかけてたぞ」
「そんなことを?」

ジャッキーが眉を顰める。ポケット宇宙であるアウターオーサカでは地盤も都市も虚空に浮かんでいて、おまけにすべてが逆さまだ。だからビルごとどこかに落ちていかないよう、すべての地区の環状枢要スプロールには重力層が備えられている。金持ち専用の"魔法の絨毯"は、何重にも連なるI.C.E.アイス侵入対抗エレクトロニクスIntrusion Countermeasure Electronicsで守られた鉄壁の要塞だ。ファイアーウォールと接触呪詛技術の百五十年分の集大成。ありとあらゆるウィルスと呪いが回線を遡って攻撃者の脊髄を引っこ抜き、脳梁に腫瘍の卵を産み付けて、来世まで地獄の席を予約する。

だが完璧なはずの電子要塞は、イズミによって破られかけていた。本来ならば有り得ないことに。

「あれには流石に驚かされた。区画全体がシェイカーに突っ込まれる寸前だ。奴にそんな力があったのか?」
「あったら私たちに頼ると思うかい?」
「いいや。ご同業として派手に名を挙げたはずだ」
「私の知る限り、彼の腕前ギグは三流も良いところさ。ここに駆け込んできた時点では、"鍵"とやらを盗むこともできそうになかった。なにかの間違いだと思いたいね」
「だがやったことは事実だ。とすると......」

心底面倒だと言いたげに顔を顰め、アイストはメモを仕舞い込む。彼の知識と経験から、考えられる様々な候補が現れては消え、やがてひとつに収斂する。

「可能性が高いのはひとつだけだ — ジザニオンの黒い爪
「名前だけは聞いたことがある。電魔揺籃器デモニック・インキュベータの一種だろう。それほど危険なのか」
「それはもう。独立抗争時に脳幹省のマスターサーバーを陥落させた曰く付きだ」

溜め息と共に吐き出された言葉は、貧民街の纏め役として常に明るい表情を崩さないジャッキーの顔を曇らせるに十分な威力を帯びていた。

電魔、すなわちデーモン — 術師に使役される低級悪魔とコンピューターウィルスのハイブリッド。《先進世界フロントライン》から持ち込まれ、電子網に覆われたアウターオーサカで百年をかけて独自に進化した存在だ。今ではフルオート祝詛銃ガルガンなみの威力と普及率でもって市中に溢れ返っている。

そして電魔揺籃器はそのガラパゴス進化の究極だ。デーモンを生み育てる情報病原インフォペーソス。ヒトの電脳化インプラントに寄生し、EVEを喰って電魔を召喚、知覚と連動したリアルタイム適正化であらゆる防壁を書き換える。ほんの一時、宿主は己の実力を遥かに超えたクラッキング能力を手に入れる — そしてすぐさま代償を支払う。生命、魂魄、時間、自由意志、その他諸々の出血大セール。当然ながら取り返せない。

「ほとんどのインキュベータが生み出す電魔は低級だし、インキュベータ自体にも駆逐手段がある。いわゆる"虫下し"のたぐい。電気椅子に縛り付けて対抗ミームに曝し、人格に溶け込んだ病巣を丸ごと削り取る

アイストは砂コガネの素揚げを3つまとめて口に放り込む。奥歯に引っ掛かって転がる食感が心地よく、ストレスを軽減してくれる。ノーマルならメチル酒の一杯も頼むところだが、生憎と彼の肉体はアルコールで酔えるようにできていない。

「だが"黒い爪"は違う。抗体も緩和手段もない。あれが生み出すのは正真正銘の真正悪魔ピュア・デーモン。この街の神 — H.R.K.ヒ-ル-コを殺すために、"外"の連中が作った兵器だからな」
「そんなものがイズミの脳に?」
「おそらくは。感染経路を調べないとな — 有線ローカルでしか感染しないから面倒なんだ。神々廻シシバの電網保全部は何十年もこいつを追いかけてる。ここに保菌者がいると知ったら泡を食って飛んでくるだろうが、そうなると」
六頭体制ヘキサドのやることだ。"洗浄"のためにここら一帯を更地にしかねないな」

声を潜めて、ジャッキーは神妙な表情で頷いた。

「このことは誰にも口外しない。企業が絡む面倒事となると、我々に選択肢は皆無だ — 君に任せてもいいかな。伝手があるんだろう」
「あんたには借りがあるからな。事後対応はサービスだ。料金は今回のに4割乗せ」
「助かるよ」

交渉は終わった。アイストが揚げ串を放り出して席を立つと、大男は太い腕をテーブル越しに差し出す。

「イズミの方は任せてくれ。責任を持って監視しておく」
「対処には専門家が必要だ。後で人を寄越して回収させる — それまで誰にも居場所を漏らすなよ」
「部下には言い含めておくさ。君も気をつけて」

お決まりの握手。慈愛に満ちた笑顔はさすがに大貨物船グレート・トランプ艇長ジャッキーだけのことはあった。溢れ出る父性と包容力。欲望と悪徳の街にあって善き隣人は何者にも代えがたく、金払いが良いとなれば尚のこと。

それに何より、この店のフライは中々だ。

厨房から顔を出した料理人に軽く手を振って、アイストは店を後にする。



サカイは混沌の街だ、と人は言う。悪神と悪法と悪徳に覆われたアウターオーサカにも、すなわち神と法と徳の観念があり、一定の秩序と序列が敷かれる。しかしサカイにはそれがない — あるとしても極度に希釈されている。

無限に増殖する腐肉製のアパルトメント。上下の感覚を失わせる連絡通路クロスロード。ネオンの届かない行き止まりの路地。猥雑な繁華街と乱雑な貧民街は背中合わせで、使いかけの毛糸玉のように絡み合っている。ルールはあるが複雑で、しかも失われかけている。アイストは懐に入れたメモの中身を暗記していたが、同時にそれがものの役には立たないことも知っている。区割りや番地など意味はない。ここはエー・ヴェーの恩寵住宅地セニョリータではなく、サカイなのだ。

だが手段はある。どんな場所にも人はいる。そしてアウターオーサカにおいては、欲望が何よりも重要だ。

「こんな男を知ってるか?」

哀れにも社会の階段を踏み外し、気絶して地下室に縛り付けられたイズミの写真を見ても、難民横丁レフティスの住人は何も言わない。差し出した手に紙幣を握らせれば、ある方向を指差すか、首を振るか。最初はそんなものでいい。電気すら通らない廃棄区画でも、どうやってか情報は広がっていく。アウターオーサカにおいては、O/Oイェンはただの通貨ではない — それは神託の代替だ。十分な額を握り締めている限り、道は必ず求める場所に繋がるようにできている。

「人探しだろ、兄ちゃん? そいつはこの先で寝泊まりしてたぜ」

路地裏から伸びた腕に引き戻された先は、ミイラ化した導泥管が絡み合う、遥か昔に壊死した廃棄区画。古臭い骨化コンクリートの建物はかつて動力車輌ランド・カー用の水素スタンドだったと思しき場所で、基盤層から崩れ落ちた遺構によって右半分が潰されている。報酬を手にした案内人はそそくさと去り、アイストは周囲を見渡して、それから慎重に廃墟へ踏み入る。

イズミのねぐらは想像通りの代物だった。全てのインフラが止まった建物。ボロ布を寄せ集めた寝床。水よりも安価な固形栄養食ウエハースと僅かばかりのビタミン・パッチ。光学ドラッグの海賊版パッケージ。免疫抑制剤とニューロン栄養剤は闇流通の非正規品で、それも大昔に期限切れ。階下から漂う異臭と羽音 — 排泄物を埋めてすらいない。

うず高く積もったゴミの山を掻き分ける。重い溜め息が埃を揺らす。ジャッキーからの支払いは保証されている以上、ただ働きにならない点は良い。だがそれ以上に、この件を託す"伝手"の素性が問題だ。

耳の後ろにあの不快な感覚。インプラントに着信 — 視界に浮かぶ相手の名前にまた溜め息。Ttt社に雇われたエージェント、翼もないくせに上から目線の、傲慢険悪なフォーリン・グリーン

『死体は出たか?』
「まだ誰も死んでない。今のところは」

大袈裟な鼻息。本当は舌打ちでもしたいところを何とか堪えたという気配。なぜトリスメギストスはこんな存在を重用するのか、アイストは長らく理解できずにいる — おそらく相手も同じことを思っている。

『錬金術師から連絡を受けた — 毒麦を蒔かれた男が見つかったのだろう。あれは死を運ぶ。すべての畑に死をもたらす』
「ありがたいことに宿主の脳はまだ生きてる。感染してからそう時間は経ってないな」
神々廻シシバが嗅ぎつけるのは時間の問題だ。速やかに経路を特定しろ』

ウリエルの声は苛立ちに満ちている。この眠らぬ堕天使にTtt社が与える業務量はまさしく天文学的だが、この狭隘さは多忙ゆえではなく、元来備わっていたものだ。

『連中はことの重大さを理解していない。己が怠惰が招いた危機だというのに、六頭体制ヘキサドの序列争いにおいて不利になる要素を隠滅したいだけで、事態の根本的解決なぞ考えてもいないだろう』
「黒い爪はあらゆる防壁を掻い潜る。重力層のI.C.E.アイスは対テロ仕様の高級品 — あれすら貫通した以上、金庫も監獄も紙箱と同じだ。治安局はこのことを知ってるのか?」
『錬金術師がジュリアスに会いに行った。治安官の大半に企業の息がかかっている以上、直接口頭で伝えねば神々廻に悟られる。全くこの街は度し難い。創り手と同じように狂っている』

淡々滔々と繰り出される悪罵を背景に、アイストはゴミ溜め漁りを続ける。ふと指先に何かが引っ掛かる。奇妙にざらついた感触。引っ張り出して目の前に掲げれば、暗闇の中、外から差し込む僅かな光を反射して、砕けた円盤が虹色に輝く。旧世代のデジタルディスク — とんでもない骨董品。遺構から掘り出したのだろうか? 《胎盘プラセンタ》の汚染された未開拓区画には、アウターオーサカがまだ《先進世界フロントライン》に錨を下ろしていた時代の品が無数に眠っている。

否、違う。これは新しい — 新しすぎる。ディスクの表面は風化しておらず、読み取り面には傷一つない。他の廃棄物とは明らかに違う。ただ割れているだけ。割っただけ。

アイストの視線は狭苦しいスタンド内を行き来する。寝床、食べかす、毛髪と垢。読み取り機器がどこにもない。建物にはずいぶん長いこと電気が来ていなかった。この世代のディスクリーダーは《先進世界》でしか生産されていない代物で、古すぎて人体にインプラントできないし、そもそもアウターオーサカの高圧電源では動作しない。

調べていない場所がひとつだけある。アイストは立ち上がり、階段へ向かう。

「資料は読んだだろう。イズミが盗んだ"鍵"の発注先はどこだった?」

『何だと?』延々と愚痴り続けていたウリエルが聞き返す。『Yakushi系列の防衛企業だ』

「Yakushi? 連中は派閥主義の権化だぞ。所属はどこだ」
『まだ調査段階だが、資金の流れからみて開明派ゼンゼの末端だろう。地霊ゲニウス・ロキの腹の中に在りながら対神独立を謳うとは、身の程を知らん気狂いどもめ』
「都市を企業の手に取り戻したいのさ。人間中心主義anthropocentrismの言い換えなら、あんたには馴染み深い観念だろう」
『貴様らの身勝手な聖典解釈など知ったことか。それで、Yakushiがこの件とどう絡む』
「可能性の話だが — 手がかりを掴んだかもしれない」
『なに!』

堕天使の驚く声はいつ聞いても心地良い。鼻歌を歌いたい衝動を抑える — 階段を下るにつれて悪臭が強まり、耳障りな羽音も大きくなる。上下逆のポケット宇宙においても、蠅はあらゆる場所に現れる。そして連中が大挙して屯す場面に出くわすと、大抵良くないことが起きている。

突き当りの左手、ドアは外されている。発酵した排泄物の臭気に混ざって、僅かな腐敗臭と機械油の匂い。汚水に拡がる銀色の油膜。大まかに人間のような輪郭の人影が倒れていて、蛆がその上を這っている。白い幼虫の分布には明快な規則性がある。胴体の周縁部と胸から首に集まり、四肢末端と頭を避ける— 四肢換装者セミボーグ。想像通りの代物なら、求めるものは頭部にあるはずだ。

不快感を堪えながら、アイストは汚物の山を踏み越える。死体の頭の金属部分に手をかけ、乱暴に引き起こせば、きらきらと輝く欠片が零れ落ちる — 溜め息が漏れ、蟲どもがわっと散る。

『何があった?』珍しく丁寧にウリエルが尋ねる。

アイストは蟀谷をコツコツ叩く。この堕天使がまだ全知であればよかったのにと、こんな時はいつも考える。

「あんたの言い方に倣うなら、毒麦を蒔いた者が見つかった」
『それで?』
「こいつはメハニストだ」

皺だらけの人工皮膚を掻き分け、横に肥大した口蓋を広げると、再生機器に改造された口内にはディスクの破片がいっぱいに詰まっている。百年前ですら懐古趣味扱いだった、時代遅れの産業機信仰の痕跡 — 量産機械とデータテックの融合。考古学者にでもなったような気分。

再構築主義者リアセンブリスト漂流世代ドリフト・ワンの生き残りだ。生体部分をできるだけ減らして、廃棄区画で生き延びたんだろう。腐敗と蛆の成長から考えて、数日前までは息をしていた」

沈黙。

「ウリエル?」
プロメテウスの子らが関与しているというのか』
「確かめるさ」

アイストは足のホルスターからナイフを抜く。慎重に歩み寄り、哀れな機械化人の後頭部に突き刺す。頭蓋骨だけを切り裂いて、中身には傷をつけないように — 本当にそこにあるのなら。

ナイフに通電。刀身が僅かに振動し、脳殻をなめらかに引き裂いた。強烈な刺激臭が鼻を突く。悲鳴のような羽音とともに蠅たちが一斉に離れていく。そこには血液も、腐汁も、電脳被膜ジェルも、何も無い。傷口から音もなく漏れ出すのは黒紫色の粘体で、ゆっくりと拡がり、床面を灼いて同化していく。

神聖汚泥ホーリータイド。神格に集約した穢れが変転、実体化された形ある呪い

毒麦の蒔かれた畑だ。黒い爪の成長の最終段階。あらゆるI.C.E.を破壊して電子網を汚染するその反力、真正悪魔ピュア・デーモンの権能行使で蓄積したバックラッシュが脳を溶かす。魂を焼く泥に変じて、治療も再生も回魂も不可能 — 死に方としては最悪の部類。

「こいつが感染源インフォーマントだ」視界を埋める穢染警報ブラックアラートに眉を顰めつつ、アイストは慎重に死体を遠ざける。「媒介はデジタルディスク。破片の量からして一枚や二枚じゃない。食うだけじゃなく食わせてもいただろう。保菌者が何人もいるぞ」

テロの準備としては悪くないやり口だ。全てが電子網で繋がり、大容量通信と光子キューブが普及したこの街では、旧時代のディスクは古すぎて誰にも見咎められない。人間が再生機器になり、直接会った人間だけを感染させる。神々廻がいくら電子網に巡視AIを仕込もうが、完全アナログの拡散形態では機械的な追跡に限度がある。問題があるとすれば一つだけ — 媒介した全員が近いうちに死ぬ。脳を真っ黒に溶け出させて。

沈黙が場を支配する。堕天使との通話はまだ繋がっていた。おそらく別の系統で話している — 治安局か、同僚か、あるいは上司たる錬金術師か。雇われのバックランナーにとっては、どちらにしても同じことだ。

「俺の仕事はここまでだ」

アイストは宣言する。明確に、区切るように。企業に守られる傭人エージェントと違い、バックランナーは身一つだ。死んでも保険は降りないのだから、危険と見れば下がるしかない。

「お望み通り感染源を特定した。保菌者も拘束済みでいつでも引き渡せる。俺は現場の保全が終わったら引き上げる。後は勝手にやれ」慎重に付け加えた。「これ以上は別料金だ。先に言っておくが、高く付くぞ」

しばしの沈黙。価格交渉は失敗か — アイストは引き際を見計らう。

通話を切ろうとした、その瞬間にノイズ。すぐさま回線が切り替わる。明朗快活だが怒りに満ちた、神経質なセカンド・テノール。ウリエルとはまた異なる、自分の意志ですべてを塗り替えると言わんばかりの傲慢さ — 企業連メガロの頂点たる六頭体制の一角、Ttt社を支配する複合神。三重に偉大なるヘルメス。

『追加依頼だ、アイスト・サイドマン。給与等級は最高、各種手当倍額、報酬上限なし。拘束期間未定、秘密厳守。概ね危険だが安心しろ、死んでも生き返らせてやる』
「その依頼、断れるんですか」
『そうできると思うならやってみろ。挑戦する人間は嫌いじゃない』

どの口が、と言いはしない。アイストは溜め息をつき、立ち上がる。

「貴方のことは信頼してます。前金は振り込んでおいてください」
『良いだろう。仕事に励め、バックランナー』



再びナンバシティ、逆さ吊りの街。太陽のないアウターオーサカにも、昼夜の区別は存在する。かつて《先進世界フロントライン》に属する経済特区だった頃の名残。頭上には黒ばかりの虚空の街で、企業連メガロは未だに当時の時間区分を守り、彼らの経済活動に連なるすべての存在もまた倣う。

逆に言えば、紳士たちのパーティーに未来永劫加わる見込みのない者は、古臭い感覚には囚われない。

煌々と輝く投影標識ホロサインの足元。ネオンの光の届かない影の中には、奇妙な人々が潜んでいる。悪徳の街においては大っぴらに動くことのできない人々。ある種の良識を備えているがゆえに、舞踏会のチケットを持てない人々。

「客の情報は売れないよ」

迷路のようなせせこましい路地の先。戸口に立つアイストをじろりと睨みつけ、年老いた闇医者は口を噤んだ。彼女の背中からは4本の機械の腕が生え、ずぶずぶと不気味な音を響かせて奥のベッドで開頭手術中。横たわっている肉体労働者ボディ・ワーカーの身体は土木作業用の労働義体レイバーアームで、3メートルを超える巨体の重量に耐えきれず、手術台が悲鳴を上げている。

「あんたの客を調べてるわけじゃない、カレス先生」アイストは説得を試みる。「古いメハニストのコミュニティを探してる。市政府と神々廻シシバに恨みを持ってる連中だ。彼らはまともな職に就けないし医者にもかかれない — 違法な電脳を使ってるから」

漂流世代ドリフト・ワンのことかい」老女は眉を上げ、生まれつきの腕で白衣のポケットから棒付きの覚醒アイスキャンディを取り出した。豪快に齧りつき、数度の瞬き — 向精神薬が強化された神経に行き渡り、萎れていた背筋がぴんと伸びる。瞳に宿る知性の輝き。アイストは頷き、話を続ける。

通貨定常法デシメートで違法化されたMaxwellismのヒト電脳を未だに使ってる奴らだ。停戦協定の後、市政府への投降を拒否して地下に潜った」
「電脳は彼らの信仰そのものだからね。禁止されようがおいそれとは捨てられない — そのせいでみんな死んじまったが」

カレスが薄く笑う。今では数少ない、都市の黎明期を知る者の眼差し。

既に歴史になった時代の話だ。いわゆる"大阪都抗争" — 《先進世界》から独立を宣言した市政府・企業連合と、国から委託された施政権を振りかざすプロメテウス社の間に勃発した自治戦争スラッシュ・ウォー。熾烈を極める武力闘争の果てにアウターオーサカは独立したが、市民は独立派と帰順派に二分された。

信徒企業であるMaxwellism社とプロメテウス社の蜜月関係により、マクスウェリズム教会は市政府に敵対。敬虔な信徒たちは教えに従い、ゲリラ戦や電子破壊工作に従事した。停戦協定が結ばれ、プロメテウス社が撤兵した後、見捨てられた信徒は武装解除を受け入れた — だが市政府は戦後処理の名目で彼らを徹底的に迫害。Maxwellism製電脳を市場から排除し、H.R.K.ヒ-ル-コの祝福で保護された独自の通信プロトコルを制定して、レイヤーへの接続を禁止した。

彼らはWANを奪われたのだ。H.R.K.という正しい神によって。

「当時の型の電脳は数年ごとにメンテナンスが要る。だが普通の医者にはかかれない。報奨金目当てに通報される上、修理が必要になっても規格が合う部品の供給がない。となれば」

アイストは蟀谷をコツコツ叩く。治安局や企業軍に支給される業務用の皮下隠匿インプラント — 市民登録がなければ施術許可の下りない高級品は、合法市民であることの証明。唸り屋ハマーには望みようがない。

「闇医者の出番だ。それも古株で凄腕の。錆びたインプラントで発狂死したくなきゃ、あんたみたいな裏稼業の医者を頼るしかない」
「正しい評価だがね、生憎と私ゃその手の仕事は受けないのさ。危険だし、金にならんからね」
「なら誰が請け負う?」
「さてさて。ご同業のカルテなぞ覗かんさ」

にんまりと笑うカレスの背後で、機械の4本腕が患者の脳を緻密に選り分けて、砕けた脳殻オーバルの破片を取り出す。整復用ジェルが注入され、人工神経フレームが失われた新皮質を補填していく。アウターオーサカにおいては、大脳を損傷した程度なら金さえあれば完治する — そして完治しさえすれば、患者が生きて働いている間、治療費を請求することができる。

その意味ではマクスウェリストは落第だ。信仰は病気ではない。それゆえに治ることもない。彼らは己が信仰ゆえに神々廻製インプラントへの換装を拒絶し、都市の暗闇で静かに朽ちていく — もしくは全部をひっくり返すため、派手な復讐を考える。いくら脳味噌を焼かれるとしても、二度と神に繋がること叶わぬとあれば同じこと。

黙り込んだアイストを横目に見つつ、カレスの手術は恙無く進んでいる。

「何人かその手の奴が尋ねてきたことはあったがね、どいつも門前払いした。食い下がってくる奴には知り合いを紹介したが、本当に行ったかは知らないね」
「その知り合いってのは」
「戦争の古馴染みさ。テンノウジにいるって話だが、今じゃ生きてるかどうかもわからん」

よりによってテンノウジ — アイストは心中で舌打ちする。ナンバ・サカイに次ぐアウターオーサカ第三都市、エー・ヴェー地区ディストリクト随一の汚点。H.R.K.と市政府に公然と反旗を翻した独立勢力が支配するテンノウジは、あらゆる犯罪が蔓延る行政未達区ノンガヴだ。ネオンサイン煌めく繁華街の中心部にありながら、その全貌はあのトリスメギストスを含め、誰一人把握していないだろう。

「その知り合いの住所、売ってくれ。言い値で構わない。あんたにもそいつにも迷惑はかけないと約束する」
「本気かい? 随分羽振りがいいじゃないか」
「俺の金じゃない。スポンサーが誰だか当ててみるか?」

額から顎下まで、仮面を下ろすジェスチャー。この業界で長い経験があれば、誰だってその意味を知っている。呆れたように溜め息を吐いて、カレス医師は小さく首を振った。

「昔から危ない橋を渡る奴だと思っていたけどね。まさかTttスリーズと連むとは」
六頭体制ヘキサドの中じゃマシなほうだろ」
「連中は疫病神だよ。例外なんてない」

肩を竦めてポケットから腕を出し、老医師は傍らのデスクに向かう。手術は終わり、機械の腕は畳まれ、浄化用の除菌ガスが吹き出して手術台の上の労働義体をすっぽり覆う。

「人の縁を金で買い上げようってんだ、悪いが遠慮はしないよ。雇い主への言い訳を考えるんだね」
「H.R.K.の思し召しだとでも言うさ。O/Oイェンは神託の代替だ」
「若造が知ったような口を」

鼻で笑い、デスクの上に乱雑に積まれた書類をひっくり返しているカレスの後ろ姿に目を遣りつつ、アイストはホログラムの小切手を取り出す。指先で弾いて名前を入力、金額と支払人名義を空欄に。書式自体は市政府標準だが、よく見れば3つのTトライクロスの透かしが権力の在り処を主張する。何度見ても慣れることはない — 普段は日々の食事にも事欠いて培養昆虫のフライを食っているのに、仕事となれば企業の威光を笠に着て馬鹿みたいな金額を動かすのだから、背搬者バックランナーは因果な商売だ。今一度確認のためにホログラムを持ち上げれば、透過した書面から背景が見えている。

僅かな違和感。

後頭部を突き刺す危険な感覚。耳の後ろで何かが鳴っている — ぶんぶんと蜂の羽音がする。インプラントに埋め込まれた警報だ。姿勢を変えないまま、アイストは素早く視線を走らせる。狭い室内。何かぶつぶつ呟く老医師。切れかけの電球。宙を舞う紙切れ。閉じているドア。晴れていくガスの靄。空っぽの手術台。


何だって?

視界の端に何かが動く — 咄嗟に飛び退き、身体を浮かせて衝撃を逃がす。試みは部分的に成功し、真横から胴体を狙った薙ぎ払いは目標を外れて、空中に残った右腕を捉えた。奇妙なほど軽い破壊音は、骨を通じて直に耳へ届く。

警句も制止も、驚愕の叫びすら放つ暇もなく、アイストは横薙ぎに吹き飛ばされた。



打擲のエネルギーは一瞬遅れて知覚された。

「ッ!」

舌を噛み切らないように、予め奥歯を噛み締めておく。すぐさま再びの衝撃。薬棚に叩き込まれ、コート越しにガラス片が雨のように降りかかる。猛烈な刺激臭 — 耐酸性の軍用被膜が薬品を弾き飛ばしている。闇医者が死体を溶解処理していないことを願いながら、アイストは素早く立ち上がる。

身長3メートルの労働義体レイバーアームは診療所の低い天井につかえかけている。頭部は取り外された脳殻オーバルの代わりに透明な保護カバーをかけられたばかりで、ピンクと灰色のまだらになった中身が見えている。人工脳液に僅かな泡が浮く — 絶対安静のはずの患者は目を閉じて、鼻から千切れた酸素チューブを垂らしたまま、猛然とこちらに突進してくる。

今度は回避が間に合った。薬棚に突っ込む肉体労働者ボディ・ワーカーの姿に既視感を覚えつつ、アイストは壁際を走り、部屋の隅で呆然と座り込んでいたカレスを書類の山の中から引き起こした。

「先に聞いておく。あんた、俺か雇い主に恨みはあるか?」
「くそったれが — ツケを払うまでは恨み骨髄さね!」
「まだ覚えてたのか」

呆れつつも舌打ち — 右腕が鈍く痛み、指先の感覚が弱い。先程の衝撃で明らかに折れている。仕方なく左腕でカレスを出口に向けて引っ張りながら、アイストは小さく頷いた。「藪蛇だったな。あんたの企みじゃなさそうだ」

「当たり前だ!」腰を抜かしたまま機械の腕を使って器用に後退りしつつ、老医師が元気に喚き散らす。「あの患者、あと半日は麻酔が効いて目覚めないはずなのに。呼吸中枢を停めてるんだよ。チューブを抜いてどうやって動いてるんだ」

「麻酔......」

アイストは診療所の奥を見る。壁に空いた破孔から上半身を引き抜き、巨大な影がゆっくりと向き直る。背骨を軸にして肩を大袈裟に振り回すような不安定な動き。目の前の照明に頭からぶつかるが、歯牙にもかけない様子で弾き飛ばす。揺れる脳みそのパッチワーク。外れた脳殻 — インプラント施術済み。

"爪"の感染者は複数いる — 脳が真っ黒に溶けるまでの間は、どんな堅固なシステムにも侵入できる即席の超抜級ハッカー。手術のために機能停止させられたインプラントは裸同然で、敵にとってはあまりにも無防備だ。

遠隔操作。インプラントに侵入され、身体を乗っ取られている。

義体憑依ボディハックだ」舌打ちしつつ、アイストはカレスを戸口に放り捨てる。「脳は寝たまま身体を奪われた。呼吸はしてないし、見えても聞こえてもいない」

「冗談じゃないよ — 患者を使ってあたしを殺す気か!」

老女の悲鳴。アイストは無言でドアを蹴り開ける。驚くほど機敏に這って逃げるカレス — その後に続いて路地に出た次の瞬間、戸口ごと壁が内部から崩壊。轟音とともに飛び出した巨体は勢い余って向かい側の掘っ立て小屋に突っ込み、壁も柱も粉砕して、さらに奥の建物に激突した。

アイストは左手で銃を抜く — 耳の後ろで羽音がする。ぶんぶんぶん。脳に埋め込まれた危険のサイン。こういうとき、直感は理性に勝っている。勢いよく身を投げ出すと同時、風切り音と鈍い打撃音。適当に撃ち返しつつ見れば、先程まで立っていた路地の壁には親指ほどの太さの矢が深々と突き刺さり、着弾の衝撃で震えている。対人狙撃用の鋼芯矢。メハニストの四肢換装者セミボーグがよく用いる、大型クロスボウの質量弾。

「本当に冗談じゃないな」突撃と狙撃の二段構え、明らかに計画された襲撃。土煙の奥で影が揺らめく。巨体によるチャージで押し潰されるか、矢に射抜かれるか — あの手の大型クロスボウは動力車輌ランド・カーの防弾装甲を貫通して中身を破壊する設計だから、人体へ被弾した場合は千切られるといった方が適切だ。

「反撃しな!」通りの向かい、雑貨屋の店先に隠れて老医師が喚く。「あたしの城をめちゃくちゃにしやがって。くそったれ刻み屋ティッカーを血祭りに上げてやれ!」

「片方はあんたの患者だろ。殺していいのか」
「生け捕りに決まってるだろ! できなきゃ取引はなしだ」
「無茶言いやがる」

舌打ちと共にアイストは飛び出す。即座に風切り音。空中で硬質の衝撃音が響き、不自然に軌道を逸らされた矢が周囲の家屋に次々と突き刺さる。視界の右隅に仮想表示されたアイストの口座の預金額が、音と連動してごっそり減っていく。Ttt社が提供する身体保険ボディケアサービスのひとつ、西風の加護の最上位プラン。飛び道具避けには最適だが、命の代価は高くつくのが常だ。

保険料が経費扱いになることを祈りつつ、路地を横断し瓦礫の山に飛び込む。頭を下げた瞬間、粉塵の中から巨大な義腕が飛び出した。鼻から酸素チューブを垂らしたまま突進する巨体を素早くいなし、アイストは物陰から観察する。大暴れしているにもかかわらず労働者の顔面は蒼白で、目も口も閉じきっている — さながら欲求剥奪刑ボディッシュメントに処された菩薩ボサツのごとき柔和な死相。

センサーは閉回路だ。肉体の主はまだ寝ていて、このまま暴れ続けて体内の酸素が付きたなら、二度と現世に帰ってこないだろう。問題はひとつだけ — 義体の意識が消えているのなら、敵はどこからこちらを見ているのか? 可能性は無数にあるが、推測は簡単だ。"黒い爪"を使っているならば、これが最も容易い手段なのだから。

「当然、こいつを使うだろうな」

独り言ちながらアイストは蟀谷を叩く — 皮下に埋め込まれた硬質の端子。僅かな振動が思考を加速させる。第三の目がゆっくりと開いていく。それはイメージであり一種の比喩だ。人間が手に入れたもうひとつの瞳。電子網イントラのネットワーク構造、本来ならば人間の脳では理解できない連環多層構造を解釈可能な形態に翻訳し、拡張された身体知覚として提示することで、思考と直結した操作を可能にする。

それこそが神経インプラントだ。H.R.K.ヒ-ル-コが信徒に齎す祝福。

アイストは走るラン — ふたつの意味において。肉体の世界では、彼は突進してくる義体をすんでのところで躱し、慣れない左手で銃を抜き放ち、右脚の関節に打撃を与えている。そして瞳の奥で、彼は電子の海にいる。そこは赤熱したジャンク情報のホワイトホール、反転した三重渦だ。

サードアイが走査するラン。奥行きのないのっぺりとした光の羅列が、人間の脳に認識可能な格子状の相互接続に変換される。現実に存在するポートから伸びたトラフィックは消滅と復号を繰り返しながら絡み合い、大量の毒性ミーム广告アドスと擬態電魔デーモンが放つ無差別の攻撃性通信が、インプラントの内蔵フィルターによって速やかに切除されていく。

極彩色の光景が機械と視神経の二重翻訳を通してアイストの視覚に送り込まれ、眼前の労働義体から伸びる暗号化されたトラフィックもまた、途切れ途切れの螺旋となって映る。現実と電子情報の座標は相互にまったく対応しておらず、隣り合う建物の通信ポートは、電子網ではしばしば認識できないほど離れていることもある — だが今回は足掛かりがあった。アイストが渡し損ねた小切手の転送先は闇医者の偽装された個人口座のポートで、小さな病室の屋根裏にある物理コネクタと紐づいており、システムの鍵は開きっぱなしだ。

アイストは潜入ダイヴする。病室に設置されたカメラは侵入の痕跡をありありと伝える。暴力的に改竄された基礎ルーチンから映像の転送先を読み出し、仮想サーバーと中継局を追跡。乗っ取られた義体のポートを特定し、電魔デーモンへの拮抗コードを投与する。それらの負荷は全てインプラントによって脳に分散処理される。舌先に乗った金属の苦味、遠く聞こえる布地の擦過音、視界に瞬く黒緑の閃光。どれも現象としては仮想だが、ある意味では本物だ — 電子的実存が人体に落とす影。そして程なく、ゴールに辿り着く。

再開発中の基礎層に張り出した違法建築の雑居ビル。壁面に埋め込まれた風量計の粗雑なカメラが、屋上に屹立する影を捉える。夢遊病者のごとく動き回る、右側が大きく膨れたシルエット。肩から先を対装甲クロスボウに換装、身長よりも長い重狙撃弩バウショットで義体憑依と長距離狙撃を同時に敢行 — だが生身の制御が疎かになり、固定されていない左半身が周期的な電気刺激に飛び跳ねている。並列思考の訓練を受けたことがない人間の特徴、典型的な素人ハッカー。

敵が見えた。そして同時に、敵もこちらを見つめている。

空中を殺意が這う。アイストのインプラントがフル稼働し、狙撃手の座標と環境データとクロスボウの狙撃精度から、大まかな危険地帯を推定する。コンマ5秒ごとに切り替わる予測線レッドライン。瞬く間に上半身が真っ赤に染まり、アイストが身を捻った次の瞬間、矢が右耳を掠めて地面に突き刺さる。悲鳴のようなエラー通知 — I.C.E.アイスの防壁が一瞬で突破され、加護を提供する認証システムが"爪"に侵食されている。舌打ちしつつ必死に身を起こした矢先、眼の前に迫る白い影。

奇跡的に防御が間に合った。骨化コンクリートの柱がまるで玩具のように振り回され、三重に展開した緩衝術式の上からアイストの肉体を強かに打ち付けた。衝撃を殺しきれず、打ち出された白球のごとく宙を舞う。運良く壁面に叩きつけられることはなかった — ガラス窓を粉砕し、劣化した擁壁を砕いて、アイストは再び路地裏に投げ出された。土の味を噛んで即座に立ち上がる。打撲、擦過傷、明滅する意識。ますます悪化する右腕の痛み。雑貨屋の角から外を伺えば、即座に予測線が街路を赤に埋め尽くす。

「アイスト、この馬鹿野郎」いつの間にか近くまで這いずってきていたカレスが叫ぶ。「あんたともあろう者が、何を梃子摺ってるんだい! クソ野郎を早くぶっ殺しておくれ」

「そうしたいのは山々なんだがな」
「怪我ごときが何だ! 私の現役時代はもっと酷かった。朝から晩まで薬漬け、腰から下がない連中を戦車に突き刺して、腹に爆弾を詰めて前線に」
「先生」

溜め息をついて、アイストは呼びかける。「そんな名医を見込んで頼みがある。この右腕、今すぐ治せるか?」

まだ腰を抜かしている老女の眼前に、だらりと垂れた腕が差し出される。最初の一撃で折れて捻じ曲がった骨は、先程のホームランの衝撃で皮膚とシャツをまとめて突き破り、異形のシルエットを作っていた。挫滅した筋肉が青黒くすり潰され、流れる血の中に見え隠れするのは白と桃色のコントラスト — 神経と腱がまとめて千切れ、血液とともに魔法の基礎となるEVEがとめどなく流れ出している。

もはや再建の望めそうにない惨状 — しかしアウターオーサカの救急基準では、この程度の傷は重症とは言い難い。十分な額のO/Oイェンを持っていれば、スィーア地区ディストリクト被保険者病棟プルーヴアウトは3日で痕もなく傷を消し去るだろう。だが貧民街に病棟はなく、敵はすぐそこまで迫っている。必要なのはスピードだ。3日ではなく30秒。

この老医師ならばそれができると、アイストは経験から知っている。

「高いよ」カレスが舌打ちする。「アンタには到底払えないさ。だけど負けてやる。ツケでいい」

機械の腕が跳ね上がる。 患者アイスト ×ばつ6本 — NISSO純正の最高級瞬間治癒剤ウェルパッチ。猛烈な勢いで再生する組織はそのままに、神経と腱を縫い合わせて、膨れ上がる肉の中に安置する。癒合する骨の切削と矯正、伸びすぎた血管を切り取って繋げ直し、再生の過程で癌化した腫瘍をレーザーで焼灼し取り除く。

それら全てが無麻酔で行われる — インプラントによる軽減を遥かに上回る原始的な苦痛。

悲鳴を噛み殺してアイストは銃を抜く。もはや聞き飽きた破砕音とともに、眼前の掘っ立て小屋が紙のように引き裂かれた。瓦礫を踏み越える巨体の動きはひどく鈍っている — 義体に内蔵された酸素が尽きようとしているが、それでもアイストと、ついでにカレスを殺すには十分だ。

轟音、粉塵、飛び散る建材片。後退りしそうになりながら耐える。右腕の痛みに涙が溢れる。滲む視界の奥、義体がタックルの姿勢を取る。あと何秒だ? すべての音が遠のいていく。耳の後ろで蜂の羽音。危険のサイン。ぶんぶんぶん


突然、軽く弾かれたような衝撃とともに、右手の感覚が戻ってくる。

何を考えるよりも先に、アイストは自由になった右腕を跳ね上げる。銃が手のひらに収まると同時、左手でリロード。シリンダーに輝く6発の弾丸。弾を込めるとはすなわち魂を込めること — 神秘学の基礎、意味付けと紐付け。類似しているなら同じである。同じであるならば操作できる。両腕で銃把を握り込めば、人体と銃とが円環を成す。循環する力。転換する意識。魔法の始まりはいつだって円だ。始まりも終わりもないウロボロス。

筒先にEVEが流れ込み、咆哮とともに弾丸が撃ち出される。狙いを定めている時間などない。低い位置に飛び出した巨体に対し、まるで見当違いの方向に飛んでいき — ×ばつ6発。空中で折れ曲がった軌道を描き、インプラントを正確に破壊。

だがまだ終わってはいない。塵が吹き払われ、崩壊した家屋を通り越して路地に光が差し込む。殺意がアイストを照準する。敵がトリガーに指をかけているのが手に取るように感覚できる。

アイストは動かない。落ち着いて、静かに、丁寧に、撃ち尽くしたばかりの銃の筒先を向ける。狙撃手の方向にではなく、倒れ伏したばかりの巨体の頭に。

「何をしてる!」老医師がわけもわからず喚く。「そいつは私の患者だ! 殺したらただじゃ済まさないよ」

「こっちの方面には素人だろ、先生」アイストは笑い、迷いなく空のトリガーを引いた。

カチリという軽い音 — しかしそれは間違いなく銃撃だ。二重になった視界の奥、雑居ビルの屋上で、狙撃手の身体が苦悶に跳ね上がる。神経節のひとつひとつが引き裂かれ、すり潰され、捏ね合わされて奈落に投げ落とされる。狙撃手はなんとかトリガーを引こうとするが、肉体は精神を無視して苦痛の反射に踊り狂い、目的を果たすことは叶わなかった。やがて意識を手放したのか、影はぴくりとも動かなくなり、アイストのインプラントへの干渉もまた、さざ波のように引いていく。

「終わったのかい」周囲を見回して老医師が囁く。「クソ野郎はどうなった?」

「夢の中だ」右腕をさすりながらアイストは呟く。

「命を質に入れたって素人は素人だった。呪い破りのひとつも準備してないとは — それで、注文通りにした方がいいのか? 血祭りに上げてやったほうが?」
「生きてるなら何よりさ。吹っ飛ばされた壁の修理代を払わせないとね」
「勝手にやってくれ」

未だに腰を抜かしたままのカレスだが、倒れた義体に取り付いて酸素チューブを付け直しつつ、早くも金勘定を始めている。職業倫理と矛盾なく一体化したこの商売根性こそがアウターオーサカ精神の顕れだ。柄にもなく感心を覚えたところで、踏み出そうとした足元がふらつく。

「血を流しすぎた。先生、この腕を診てくれないか」
「患者が先さね。診察室で待ちな」
「くそったれ。この廃墟のどこにそんなものがあるんだ」

舌打ちしつつ周囲を見渡せば、先ほどまで気配すら感じられなかった多くの人影がどこからか現れて、瓦礫を避けたり値打ち物を拾ったりしつつ、路地裏に列を作っている。ドブネズミよりもしぶとく強靭な貧民窟の住人たち。これが全部カレスの患者なのだとしたら、自分の番はいつ回ってくるのだろう?

溜め息と共に列の最後尾について、アイストはビル群に閉塞した空を見上げる。先程の光景を思い返す — 呪詛の弾丸に脳天を貫かれ、苦痛に悶えながら倒れ伏す狙撃手は、それでも昏倒する瞬間に、生身の視線をこちらに向けていた。

擦り切れた外套の奥から除くその顔は、ひどく見覚えがあるものだ。

「......本当に、こいつは神託そのものだ」

アイストはそう呟くしかない。

遠い廃墟の最上部に横たわる、身の丈より大きなクロスボウを携えた義体の主。半日前、札束と引き換えにイズミのねぐらへとアイストを導いた浮浪者が、苦悶の表情で固まっていた。



夜半。アウターオーサカの最下層、すなわち経済の最上層からは、都市の輝かしい側面だけが見えている。一面がネオンサインの海。華やかなパーティ会場。紳士たちの見えない手が巡らされた、逆さ吊りの仮面舞踏会。

ナンバシティ中央、連鎖する摩天楼の輻輳した層状都市圏レイヤード・ポリス — 金色に煌めく重経済事業区プロスペクターの外郭。ビルの屋上で冷たい夜風に煽られて、アイストは黙念と待っている。

視線の先には闇がある。企業連メガロの支配する商業ビル群とも、高額納税者向け恩寵住宅地セニョリータとも違う、投影標識ホロサインの使用が制限された、首飾りを拒絶する高架未通区グランドエリア。数キロメートルにわたる建築制限地帯の先に、黒鉄色の重炭素鋼から成る三重螺旋の雄壮な尖塔が、天を割るように聳え立っている。

施政権の独立を守るため高架連絡路の直結を許さず、空力車輌エア・カーの乗り入れをも制限した結果、誰に対しても平等に、伏して地を這い仰ぎ見ることを強要するようになった場所。アウターオーサカ市政府《脳樞クレイニア》 — その枢要が座す中央政庁・本庁舎、《螺旋塔トリロジー》。

かつり、と硬質の足音が鳴った。アイストは振り返り、居住まいを正す。

「お久しぶりです、局長ヘッド
『また面倒事を持ってきたな、サイドマン』

噛みしめるような響きは古臭い合成音声だ。高級官僚向けの官製被服ローブスーツに身を包んだ、赤鉄色の肌の大柄な女性が立っている。チカチカと瞬く旧式の機械義眼アイボールに、金属部分が露出した両足の義足。きびきびとして無味乾燥な態度は、装飾にまみれた都市の有り様とはまるで正反対。

O2PDを始めとする、アウターオーサカの公的な警察機構の一切を指揮下に置く人物。厳格にして冷酷な治安局長官 — 市議会たる《右脳ヨウナオ》から与えられた神経官僚ニューロジェントとしての法定コードは"独裁者ジュリアス"。

『治安局がこの件に関与すべきかどうか、まだ上からは結論が出ていない』かつてと同じように率直に、声は事実だけを伝えてきた。

『心臓省は及び腰だ。連中は神々廻シシバとのパイプが太い。奴らに任せるべきだとまで言っている — 包臓省は逆に積極的だ。連中のバックは東弊アヅマの軍需部門、神々廻の頭を抑えたがっている。交渉材料が欲しいのだろう』
「脳幹省の動きは」
『沈黙を貫いている。"託宣"を待っているのだろうが』

アイストは遠方に聳える塔を見る。脳裏に蘇る情景 — 忌まわしき過去の記憶。塔の中にはまた塔がある。入れ子構造の中心部、異形の者たちが整然と立ち並び、斜めに裂かれた仮面を通して、茫洋と虚空に視線を投じている。

アウターオーサカは神の腹の中だ。小宇宙そのものが地霊ゲニウス・ロキの身体であり、都市と住人は寄生虫にすぎない — それが事実であるかを検証する術はないが、否定する材料も存在しない。ゆえに宇宙が漂流を始め、後にH.R.K.ヒ-ル-コと呼ばれることになる神の意識が"発見"されたとき、人々は神と同調する寄坐よりましを創り出し、その思考を知ろうと試みた。

漂流、安定、再接続、騒乱 — そして現在に至るまで。都市の変遷と共に寄坐もまた洗練され続け、人はより神に近づいていく。《螺旋塔》を舞台に企業が終わりのない勢力争いを繰り広げる中で、彼らだけが超然と神に傅く。百年以上も続く大原則。それが侵されている可能性に、内部の者ほど気付かない。

「脳幹省に注意してほしいのです。特に背後にいるYakushiの介入には」
『必要があるか? これは無差別テロの予兆だ。神々廻と彼らが支配する電子網イントラに対する電子攻撃。この五十年で幾度となく同じものを見た。独立抗争から残る遺恨だ』

ジュリアスの声が怪訝さを帯びる。幾度となく都市治安への攻撃を防いできた、治安局長官の自負がそうさせる。アイストとて何度も助けられてきた — それでも彼はある懸念を抱き、それゆえにかつての上官を頼っている。

発端になった暗号鍵の盗難。些細でありふれた反射屋リフレックスの裏切り。六頭体制ヘキサドの一角たるYakushiの系列企業が委託開発する、新世代の電子防御技術の中核を奪おうとした。

本当に意味はなかったのか — それが気になっているんです。ただの突発的な、衝動的な裏切り行為。そんなことが有り得るんでしょうか」
『誘導されたと考えているのか。敵の攻撃の一環だと』
「推測です。イズミと再構築主義者リアセンブリストの繋がりは何も見つかっていないし、彼の口座は空っぽだった。"爪"に侵されている以上、思考走査ナルコメトリーは危険すぎる。目覚めない限りは裏の取りようがない」
『だが彼が意識を取り戻し、我々に協力する保証もない』

チカチカと紅く瞬く義眼。ジュリアスに送られた資料の中には、イズミの健康状態に関するものもある。六頭体制麾下企業のI.C.E.アイスを吹き飛ばして"鍵"を奪い、重力層をハッキングした結果、彼の脳は崩壊寸前だ。自分を生贄に捧げた無茶の結果、当然のように昏睡状態。目が覚めるかは神のみぞ知るところだが、あいにくとこの都市の神は狂っている。


『だからに使ったのか』

ジュリアスがそう呟いた次の瞬間 — 眼下で炎が吹き上がった。

超高層ビルの谷間を縫う、炭素鋼とキチン質が奇怪に絡み合った連絡通路。動力車輌の灯火が生み出す首飾りの中心で巨大な火球が炸裂する。車列を飲み込む炎の舌から猛烈な呪詛が荒れ狂い、光すら歪めて蜃気楼を作り上げる。異変を検知したビルの外壁は瞬く間に耐爆装甲を展開し、壁に阻まれて行き場を失った爆風が上下に拡散して、防護手段を持たない哀れで不運な貧乏人たちを高度数千メートルに吹き散らす。

アウターオーサカでは珍しくもない、呪詛爆弾カナリア・ボムによる爆破テロ。爆発に続いて轟く咆哮は、聞く者の耳介を通り越してインプラントに直接不快な囁きを刻み込む。通路上に蠢く巨大な影が全身から異様な擦過音を響かせつつ、破壊された車輌を掴み取っては己の身体に組み込んで、歓喜の火花を上空に吐き出した。金属と半導体回路を取り込んで無限に増殖する機怪胎ジャンクヘッド精神汚染を振りまく半自律ゴーレムだ。こちらもこの都市ではお馴染みの、安価で不安定なテロ兵器。

銃撃が始まり、祝詛銃ガルガンの白緑の銃火が閃く。全身を白い駆動殻パワーシェルに包んだ市警察の特甲機動隊アンダーカードが、光学迷彩を脱ぎ捨てて次々と路上に現れ、両肩の回転灯を紅く輝かせた。そのまま重盾を構えて一斉に突撃開始 — かと思えば閃光が夜闇を引き裂き、先頭を進んでいた数体のシェルが突然火を吹いて爆散する。

路上で行われる砲火の応酬。殴り合うゴーレムとパワーシェル。吹き飛ばされる車輌も逃げ惑う市民も一顧だにせず繰り広げられる市街戦は、観光都市アウターオーサカの名物と言っていい。悲鳴と歓声、砲撃とシャッター音の連鎖。眼下で展開されるカオスに、ジュリアスが呆れたように呟く。

『相変わらず酷い有り様だ。特機の弱体も目に余る — 仮にもO2PDの精鋭がこれではな』
「随分と派手ですが、治安局はこの件に関与しないのでは?」
『《螺旋塔》近傍における大規模テロの兆候を掴んだ以上、対処するのは当然だろう。仮に神々廻重工の不祥事に繋がる案件だったとしても、この交戦は全くの偶然だ』
「《左脳ヅオナオ》は嫌がるでしょう」
『言わせておけ。シェルを貫通する熱線兵器など、百年前には存在しなかった — メハニストの残党だけではあの火力は到底実現できない。君の言う通り、影で操る者がいるようだ』

溜め息をつき、蟀谷を叩く。コツ・コツ・コツ。辟易とした態度。

『参考人は安全なのだろうな?』
「ウリエルが真面目に仕事をしていれば」
『我々が引き取るまで死なせるな。ここは君に任せる — 私は塔に戻り、面倒事を片付ける』
「状況は報告します」
「最善を尽くせ。どれほど歪んでいようとも、塔は倒されるべきではない。あれは対話のためにあるのだから」


未来のために、進んでゆくために。

それだけ言って、ジュリアスは踵を返す。屋上の階段口に到着するより先に、その姿は背景に滲むように溶け込んでいき、足音も気配も、すべてが掻き消えた。後に残ったのは一枚のホロ書類ドク — 青白く発光しながら漂うそれをアイストが掴むと、治安局の紋章が空中に広がり、承認印が自動的に捺される。

文面を確認する。局長名義で発行された治安局の上位通行証 — 対象はエー・ヴェー地区ディストリクト全域。ご丁寧にテンノウジ外郭の封鎖線司令部に宛てた身元証明の令状付き。

まったく持つべきは良き友、良き上司だ。アイストは再び眼下を見下ろす。蜘蛛の巣のように絡み合う連絡通路は崩落しかけていて、巨大なゴーレムと警官隊が未だに撃ち合いを続けている。閃くのは銃火とカメラのフラッシュ。アトラクション気分の野次馬と逃げてきた被害市民が交錯し、そこかしこで精神を汚染された発狂者が暴れまわっている。渋滞に辟易した車輌同士が衝突し、面罵と怒声、絶え間ない破壊音とクラクションがビルの隙間を通り抜けていく。

それこそがアウターオーサカの日常風景だ。悪徳が栄え、悪法に支配され、悪神に見守られる街。

溜め息をひとつ。屋上の柵を乗り越えれば、ネオンの熱を乗せた焦げ臭い風が吹き寄せる。アイストの両眼はビルの群れを締め付ける光り輝く首飾りを移し、脊髄に繋がった第三の目は、それらすべてに絡み合う権力の眼差し、紳士たちが吐き出した支配の糸が遺す電子の痕跡を捉えている。

ひときわ強く煌めくトラフィックを手繰ると、それは明滅しながら車列の奥へと落ちていく。故障して包囲された装甲バンの中、見覚えのあるフォーリン・グリーンの暗号化された悪罵が流れ込み、アイストは苦笑せざるを得ない。

銃を抜き、身構える。西風の加護がコートの裾を払い、電子の瞳が航路を拓く。敵がそこにいて、答えがそこにある。欲望の街においては、意志を持って進み続ける限り、いずれは出口にたどり着くものだ。

アイストは目を閉じ、息を吸って、遥かな深みへと潜ってゆく。

ページリビジョン: 1, 最終更新: 12 Dec 2024 15:10
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