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際限もなく

植木屋さんがゆったりと枝を切る「パチン、パチン」という音を聞いた。 清々しい気候のせいか、とてものんびりした音に聞こえた。ハサミを使って植木を剪定するという仕事が、とても優雅で楽しそうに感じた。そこで、こんなことを思った。仕事や人生、時間の締め切りなど気にせず、作業に集中できればどんなことでも楽しめるはず。 これが過密スケジュールに追われる身だったら、そうはいかないだろう。次の仕事の段取りや賃金のことが気になったら、「パチン、パチン」と優雅にはいかない。気ぜわしくこなす仕事は味気ない。でも出世のためだろうか、人は時に際限なく仕事を詰めんでしまう。 リスが口いっぱいにエサを詰め込んでいる動画を見た。 ほほ袋に詰め込めるピーナツの量にも、さすがに限界があるらしい。顔が2倍に膨らんだあたりで諦めて逃げていった。際限なくピーナツを詰め込むリスなんかいたら、これは見ていられないな。しかし、生きるということはまさに執念だ。 たまに自分の何倍も大きい獲物を飲み込んでしまったヘビの写真も見る。だが、さすがのヘビも、大きな獲物を飲み込んだ後は消化できるまでしばらくじっとしている。その点、リスやヘビのさらに上を行くのが人間だ。お金がある限り美術品や有価証券に大量に投資してその蓄財には際限がない。万物の霊長と言われるだけはある。

ウォーターガーデン

ついこの間まで、キャンパスの花壇ではたくさんのバラが咲き誇っていた。それが今はすっかりアジサイのシーズンとなった。近所を歩いていてもあちらこちらで、薄紫色や水色の丸い花が咲きこぼれている。 先週末、たまたま用事で小平を訪れた。小平駅から花小金井駅まで続く緑道は、鬱蒼とするほどの豊かな緑で溢れていた。その緑道の脇には、ホタルの里となる清流や公園が整備されていて、武蔵野の緑地を堪能できる。この絵を描いたアジサイ公園もその緑道の脇に続く窪地に広がっていた。 アジサイは水の花。周りが少し乾燥するとすぐに水が欲しそうにうなだれる。このアジサイの群生を見ると、日本は本当に恵まれた国だと思う。特別な灌漑施設を作らなくとも、こうして公園いっぱいにアジサイが広がって咲いている。豊かな水が空から降ってくるということの幸せを感じつつ、傘越しに今日の雨を見上げた。

映画館にはいかない

ガムラ・スタンの古い街並み 映像に関する授業を担当してつよく感じるのが、今の学生さんたちの「映画離れ」のことである。「理科離れ」「勉強離れ」などいろいろな「離れ」があるようだが、この「映画離れ」現象というものは、非常に急速に進んでいるように感じる。 そもそも、映画の黄金時代というのは、ルミエール兄弟やエジソンによってその基礎が作られてから50年ほどのこと。その後は「映像の王」の座はテレビに譲ったまま、独自の路線をたどってきた。真四角な箱のようなテレビの画面に対抗して、シネマスコープやビスタビジョンといった、横長の大画面の迫力ときめ細かい高解像度の美しい映像に特化していった。 しかし、テレビの画像もいまや映画の表現力に迫るようになった。そのため映画作品というものは、DVDやBDコンテンツの前段階として劇場にかかるだけという存在になりつつあるのでは。まだまだ映画の方が映像の表現力に勝るとはいえ、その差は年々縮まっている。そのためもあってか、今の学生さんたちが、あえて映画を映画館に観に行く必然性は、急速になくなっているようである。 さらに映像を見る環境の激変。映像を観るという行為は、もはや映画館に100分座っていることではない。電車の中や教室の最高列で、10分以内で観るもの。細切れの時間の中で、チャチャッと見られればそれでいいのだ。まさに映像コンテンツの、ファーストフード化である。 外食産業に起きていることと、ほとんど同じことが映像業界に起きているのだ。早く安く美味しい映像コンテンツが、これからの主流。見やすくて、手っ取り早いコンテンツこそ便利でおいしいのだ。考えてみれば恐ろしいことだが、これとそっくりなことが音楽業界を襲った。 一方で作り手側にも変化が起きている。新作のプロモーションのために来日している、ジョディ・フォスター監督が、インタビューで語っていた。ハリウッド映画も今や、映画館で「非日常的な体験」を味わうためのアトラクション化している。人間ドラマはほとんど作られることもない。あと10年もすれば映画から人間ドラマは消えてなくなってしまうのではないか。 不肖私も、学生さんたちに接していてつよく思う。映画は彼ら世代にとって、もはや物語を味わったり、人生の不思議や美しさを味わうようなものではない。TDLやUSJのアトラクション、あるい...

Flash王国ふたたび

ことしも花をつけたシャリンバイ 職場の慣例なんだけど、今年のゴールデンウィークもしっかりとお休みをいただくことができた。といっても、とくに出かけるあてもないし、出かけたとしても人混みは嫌いなのですぐ帰ってくるに決まっているので、引きこもり三昧の10日間であった。 ふと気がつくと、庭のシャリンバイが、白い小さな花をつけていた。このシャリンバイは、どこからか飛んできた種がひとりでに芽を出して大きくなったもの。今では大人一人くらいの大きさに育った。 成果はあった。それもかなり充実した成果かもしれない。Swiftを本格的に勉強し始めたのが昨年の暮れだったので、これで5ヶ月。やっとの事で、思うようなコードも書けるようになった。以前、Flash Action Script で書いていたアルゴリズムが、大体おなじように書けるのが嬉しい。このことに気づいている人は、どれくらいいるのだろうか。ADOBEの心変わりに愛想を尽かして、Flashを見捨てた人も多いとは思うが、おそらくFlashの財産は、そのままSwiftの開発で使えるのではないかと思う。 もちろん、すっかりおなじAPIが揃っているわけではない。でもSwiftがオープンソースとなった今、Flash用のライブラリを作っていた猛者たちが、もう一度腕をふるうということも期待出来ると思う。 シャリンバイは、毎年繰り返し花を咲かせる。おそらくコンピュータプログラムの世界でもそういう繰り返し盛衰する勢いというものがあるのではないだろうか。僕としては、あのFlash王国が、敵国Appleのお膝元で、もう一度建設されて、かつての夢が再現されることをまぼろしのように想像している。

マネー・ボール

私を野球に連れてって 映画「マネー・ボール」は実話に基づいている。実話に基づいているどころか、主人公のビリー・ビーンはいま現在もなお、オークランド・アスレチックス現役であり、映画に描かれたままに仕事を続けている。(☆1)アメリカ大リーグで、運営費がもっとも少ないチームでありながら、地区優勝の常連にまで上昇させた稀代のGMだ。 ベースボール。そこは素人にはわからない魔物が潜む。前途ある若者を誘い込み破滅させる迷宮ワールドである。誰もが確かなことはわからないまま人生をかけた戦いが繰り広げられているのだった。経験と勘がものを言う、男のスポーツ野球界とはそういうものだった。 そこに、オークランド・アスレチックスは、経営学的データ野球を持ち込んだ。野球の勝利の方程式。全選手の詳細データを分析し、徹底した野球経済学を貫くことで球団を地区優勝へと導いた。弱小で最小予算チームだったからこそ成し遂げられたとも言える。この映画以来、野球界だけでなく市場取引やビジネスの世界でも「これまでの経験と勘」などというものは意外に役に立たない、ということが証明されつつあるらしい。 主演のブラピが惚れ込んだというだけある実に痛快なストーリーだった。人はなんのために人生を生きるのか、人生にとってお金とは何なのか。根源的な問いを見るものに投げかけてくる映画でもある。そして、真実の物語は、時にフィクションよりも何倍も不思議で美しい。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:ビリー・ビーンは、現在は再び成績低迷するオークランド・アスレチックス上級副社長

非認知スキル

ドーナツでも食べて 楽観的に... 3月22日ニューズウィーク日本語版は「教育特集」だった。「世界の教育 学力の育て方」というタイトルで、さまざまな教育理論や取り組みが紹介されていた。世界中どこの国の親も、子供の教育にはとても熱心なのがわかる。 「宿題の時間と成績の関係」や「フィンランドの小中学校プログラミング教育」といった記事にまじって「将来を左右する非認知スキル」という特集が謎で面白かった。非認知スキルというのは、学力試験やIQテストなど数値化できる「認知スキル」と異なる「認知できない一連のスキル」のことらしい。 具体的には、どんな能力? 何かを最後までやり抜く力、好奇心、誠実さ、楽観主義、自分をコントロールする自制心など。これらの能力が高かった人ほど、大人になったときにさまざまな成功を経験する可能性が高いことがわかったのだそうだ。つまりは、ストレスへの対処能力が高く、社会に順応できる大人になるのだ。(☆1) これまで数年間の教員の仕事で、たくさんの学生さんたちを見てきた僕としては、この話は実にうなずける。まったくそのとおりだ。しかし「認知できない」能力をどうやって「認知」したらいいのだ? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1: 成功する子 失敗する子――何が「その後の人生」を決めるのか

ぼんやりとした心

古い洋館の窓 どんな景色が見えるのだろう 今月はじめにNHKの「ブラタモリ・熊本篇」を二本立て続けに見たばかり。阿蘇の草千里の景色を思い出しつつ、いつかまた訪ねてみたいなどと考えていたところ。まさかその熊本に直下型地震が発生して、毎日テレビで心配するようなことになるとは思わなかった。 驚いてぼんやりしたまま、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」、そして東山彰良の「流」を続けて読んだ。本屋で何気なく手にした二冊なので特に並べてみる理由もない。だが考えてみれば、どちらも家族の絆の話であり、長い時の流れと複雑で難しい人間関係の物語だ。 知能が高く教養レベルが上がるほど、人は人間関係に失敗する。「アルジャーノンに花束を」の主人公チャーリイ・ゴードンは発達障害の青年だ。だから、人からどんなにいじめられても平気。そもそもいじめに気付いてもいない。恨みもなければ、怒りもない。ただ時々寂しく悲しい気持ちに沈むだけ。 「流」の主人公、葉秋生は、最愛の家族が巻き込まれた報復殺人の謎を追う。戦時下の内戦。密告と粛清。明晰な頭脳に焼き付けられた復讐心は、時が経つほどに冴えわたっていく。罪が許されることは決してなく、どんなに時間が経っても怨念は消えなかった。 明晰な知能と高い教養は闘争社会を生み出す。 ぼんやりとした心なら他人を許容し協調する。 どちらがいいのだろう。