Posts

士道の本懐

ライラックニシブッポウソウ(どこか孤高の武士っぽい?) このところ泉秀樹先生の作品にぞっこんです。たまたま「てんとう虫(☆1)」の3月号に載っていた「明暦の大火の後(☆2)」というエッセーを読んで、さらに連作歴史小説「士道の本懐」を読みました。 歴史を知らないものは現代も知ることはできない。こういう言葉がありますが、なかなかこの現代に生きる私たちには「日常的に歴史から学ぶ」ことは難しいです。泉秀樹先生の本からは、知らず知らずに時代を超えて私たちが学ばなければならない「人生の真実」というものが、自然と目の前にあぶり出されてくる思いがします。 特に「士道の本懐」では、江戸中期からなんと戊辰戦争の頃までを通して、天皇、近衛家、大石家、そしてはるばる水戸班へ繋がる人間模様が、鮮烈に描かれている。いまも未だ泉岳寺には、赤穂の忠臣にささげる花や焼香が消える事はない。しかしそれが幕府と近衛家との駆け引きの中で、大石内蔵助が勝ち取った「武士の本懐」だったとは。まさに目を開かされる思いです。 しかしこの物語を通じて、感じるのは、だんだん時代を下るにつれて「男子が本懐を遂げる」ということが、難しくなってくるということ。 江戸中期に、水戸班から都への献上物である新鮭の荷を死守した茂衛門は、水戸光圀より手厚く供養され、末代までひとびとの記憶に英雄として記される。赤穂の四十七士も、近衛家よりその顕彰をたたえられ続ける。

手書きでよかった

あの「アラバマ物語」の続編が出版されることになったという。なんということか。新作ではなく、原作者のハーパー・リー(☆1)さんが、大昔に無くしていたと思っていた草稿が残っていたというのだから驚きだ。 「アラバマ物語」より先に書かれたものだそうだが、小説内の時間としては続編ということになるらしい。これは、まるでビートルズが「レット・イット・ビー」の前に、もう一枚アルバムを作っていたというのに等しいくらいの驚きではないだろうか。出版が実に楽しみ。またアティカスに会えるんだ。スカウトはどんな女性に成長しているのかしら。できれば映画化されてほしい。 55年ぶりに発見された原稿とのは、おそらくタイプライターか手書きだろう。だからこそ当時のままで残っていたのだ。もしこれが現代のようにワープロソフトのデータであれば、まるごと消えていたか、残っていたとしても再現することも出来なかったかもしれませんよね。 週末の朝日新聞に載っていたが、豊臣秀吉の手紙は数千と残っているそうだ。戦国時代の武将の中で、秀吉は突出した「筆まめ」だったようで、手紙によって部下を支配し人心掌握していたとか。 現代の経営者が部下に送っているメールも、将来誰かに読み返されるなどということがあるのだろうか。未来には何億通というメールのアーカイブが残る。たとえ残っていたとしても、こんなにも膨大にふくれあがったビッグデータの塊を、誰が掘りかえそうとするものだろうか。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆ハーパー・リーさんの写真も掲載されていて、 まるで「アラバマ物語」のスカウトが、そのままおばあちゃんになったようだった。

どこにでもいる

どこにでもあるカップ JR東日本トレインチャンネルのCM映像「New Unit PROMISE デビュー・プロジェクト(どこでも返せる篇)」の落ちが大好きです。 テレビ局オーディションに売り込みにいったギター男二人組。事務所社長(谷原章介)「千年に一度の逸材」という売り文句も虚しく、TVプロデューサー風の男から「こんなのどこにでもいるでしょ」と一蹴される。 「ん?」ここからの社長のリアクションがいいですね。侮辱されて色めき立つバンドメンバーとマネージャーを制して「どこでもとは凄いじゃないか!」とあくまでポジティブ満載なオーラを発散させる。こんなふうに、むりやりにでも物事を明るく考えてくれるCMは嬉しい。起承転結の結がねじれているけど、それがまた可笑しい。いつでもどこでも、お金が借りられるのもいいけど、いつでもどこでもポジティブで前向きというのがありがたい。当のバンドメンバー、柄本時生と勝地涼も、わけもわからず肩を組んで笑っているではないか。 若者というのはいつも「オンリー・ワン」であったり「たったひとつの個性」であったりすることを求められているので、「君みたいのは、どこにでもいるでしょ」とか「君の代わりは沢山いるよ」と言われるのはつらいこと。受験や就活を通して、自分がいかにユニークかつ優秀かを証明しつづけなければならない。彼らにはなんと辛いことか。 彼らの「個性」は、まだ彼らの内部で静かに眠っているだけかもしれない。同じような価値観を与えられ、同じような教育を受けてきた彼らが、表面的に似たようなベールをまとっているのは、ある程度仕方がない。小さなころにはあった個性を、隠されてしまっただけかもしれない。 うちの大学の4年生もこれから社会に出ていく。とりあえず「どこにでもいる」っていうのもいいのではないですか。とりあえず普通の平均値からはじまっても、いつか社会でもまれていくうちに、たったひとつの自分が輝きだすのではないですか。

マニュアル化できない

ポルトガルの麦畑と農場 北海道十勝にある「共働学舎新得農場」は障害者の自立支援のための農場だ。チーズ作りは、本場のフランス仕込み。仏AOCチーズ協会のユベール会長自身が、この農場を経営する宮嶋望さんの考えに共感して教えてくれた。いまでは、チーズ作りの国際コンクールでグランプリを獲得するほどになったという。(☆1) チーズを育てる菌の働きはその日の天候で違う。経験で培った勘がすべて。このように、簡単にはマニュアル化できない知恵が、本物のチーズ作りを支えているのだろう。あらゆる食品の生産や農作物の育成には、経験から自分で学び取るしかない知恵が必要。これは、ものづくりのすべての現場や、人間が働く社会のどこにでもあてはまることだ。 マニュアル化できない知恵。 昨年秋、中央教育審議会は、大学入試改革の答申案を示した。それは、日本の高等教育における価値観の大転換を要求するものである。「1点刻みのペーパーテストで問う評価」や「画一化された条件で、数値で結果を出せる問題の点数」などで学生を選抜することをやめるという。 「覚える」から「考える」へ。 答申によると、2020年には「生きる力をみる入試」を実施していくということだ。現在の受験システムでは、高校の3年間は「点数による選別への準備」だけになりがち。そこに人間的な経験や、人生について自分で考えるなどするとしたら、これほど素晴らしいことはない。 でも、今の日本の教育で出来るのだろうか。 また、どのように進めるべきなのだろうか? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ☆1:2014年11月29日(土)朝日新聞 be 「世界が認める和のチーズ」より

すべては月の下

ポルトガルのコスタ通り / つきあたりが海です ほんの数日前の宵の口に、空を見上げると月が双子座あたりで輝いていた。ちょうど木星とオリオン座と一直線に並ぶかたちになっていて、不思議な美しい配置になっていた。その月も、今夜あたりは獅子座と乙女座のあいだくらいまで進んでしまい、夜中にならないと見えない。 人間が暮らす地上の灯り。 夜空に輝く月と比べると小さなものだ。 崔洋一監督の「月はどっちに出ている」がいつのまにかDVD化されていた。さっそくAmazon で注文しまして正座して見ました。(ウソ。リラックスして見ました。)いいなあ、やっぱし、この映画。いまでは、日本におけるこうした微妙な状況をこんなにワイルドに描く事は難しくなってしまったと思う。このかっとばしたような表現。突き抜ける思い。90年代には残っていた、日本の映像のバイタリティーと表現への挑戦。 崔監督の解説による発見もあった。中盤に出てくる立ち飲み屋のシーンには、鈴木清順監督や、原作者の梁石日氏まで出ていたのか。もう、可笑しくてお腹が痛くなりました。飲み屋で思い思いの時間を過ごすひとびととして見ると、みんなただの人間なんだ、という思いになる。みんなそれぞれ生きている。 この映画の正しい楽しみ方が分かったような気がする。「こういう迷惑な奴っているよね」とか「そうそう、所詮僕たちってこういうもんだよね」と、自然に思えばいいのだ。そこに映画のリアリティがあるのだし、映画の世界観への共感がある。考えてみれば、映画を見る楽しみというものは、そういうものではないだろうか。崔監督自身もそう語っているし。 夜空の月を見上げるたびに、こう思うことにしよう。「すべては月の下のちっぽけな営み」月から見下ろしてみれば、地上の人間がいがみ合ったりぶつかり合ったりしているのも、ほんの一瞬のちいさなちいさなできごと。

モンブラン

モンブランというケーキは、ケーキのスポンジ生地に、クリのクリームをかぶせたもの。二つのお菓子素材を組み合わせたもので、いわば異種混合タイプのアイデア商品だ。茶色いクリクリームを生地の外側に塗っているうち、それが峻険な山肌のように見えてきた。そのようにしてこのお菓子は「モンブラン」という新しい次元に進んだのではないだろうか。 いま大学は、学期末の繁忙期に突入しており、卒業を控えた大学院の修士二年生にとっては、本当に大詰めのシーズン。どちらかというと、普段は学生の自主性にまかせる自由放任主義の研究室だが、いまだけは教員も学生も顔色を変えて完全臨戦モードにならざるを得ない。 今日もある留学生の学生と長時間のミーティングをしていた。その学生さんは、これまで二つのテーマを別々に進めていて、どちらも中途半端のままになっていた。これでは、どちらのテーマで行っても完成度が足りないな、ということで頭を抱えてしまった。しかし、ふたりで二時間ほどうんうん唸っているうちに、妙案が浮かんだ。 モンブラン! ふたつの素材を組み合わせて、新しいものを作る。これだ! これまで別々に進めてきたふたつのテーマを合体させて、ある別次元の結果を引き出すのだ。これならなんとかなりそうだ。本日の仕事の終わりに、モンブランに感謝する私であった。これも、おとといの晩に、夏休み中に食べたこのケーキを水彩画に描いてみた効能なのだろうか。 しかしこの研究、最後の最後まで気は抜けない。

いつアートを発明したのか

ナショナルジオグラフィックの2015年1月号の特集は「人類はいつアートを発明したか?」である。驚くなかれ、その最古のものは10万年も前の洞窟にのこされた抽象表現ということだ。驚くなかれと言っておきながら無責任だが、僕自身はいったいどのように驚くべきかもわからないほど驚いている。なんじゃこれ? 僕たちがこのように、水彩画などを描いたりするのは、どちらかというと、中学や高校で習った美術や図工の時間の延長のようなもので、いわゆる一般市民の「趣味」という行為の中でやっているに過ぎないのかもしれない。僕自身、絵を描くのは好きなのだが「内側からこみ上げてくる創作意欲をおさえきれず...」というほどの欲求があるわけではない。 その点で、10万年もの前の洞窟で、土の壁にあるパターンを塗りあげた人や、数万年前に動物の骨からオブジェをつくりあげた人、土をこねあげて塑像を作った人たちは、どれだけのチャレンジ、どれだけの精神的飛躍をなしとげたことだろうか。 こうやって、画材屋さんで買い求めた水彩絵の具を、水道水で溶いて、純白の水彩用紙に塗る事ができる僕なんて、なんと恵まれた境遇にあることか。現代文明にお膳立てされている。その分だけ、描くという行為のポテンシャルは低いのかもしれない。あんまりやる気がないってこと?やっぱ、日常の「感動」ってやつを敏感にすくいあげるようにしなければいけませんな。 今日はおそろしいほど大きな満月がのぼるのを見た。こういう感動を洞窟の土壁に塗りたくる、そんな創作というものをしなければならないのだろうな、と、ぼんやり思う。いや、すべて僕たち現代人の生活というものは、原初的感動とは無縁の、文明の習慣によってつくられたパターンにしたがっているだけなのかもしれない。でも、まっいいか。楽しめてればね。