桃園天皇
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| 桃園天皇 | |
|---|---|
|
桃園天皇像(泉涌寺蔵) | |
| 即位礼 | 1747年10月24日(延享4年9月21日) |
| 大嘗祭 | 1749年 1月5日(寛延元年11月17日) |
| 元号 |
延享 寛延 宝暦 |
| 時代 | 江戸時代 |
| 征夷大将軍 |
徳川家重 徳川家治 |
| 先代 | 桜町天皇 |
| 次代 | 後桜町天皇 |
| 誕生 | 1741年 4月14日(寛保元年2月29日) |
| 崩御 | 1762年 8月31日(宝暦12年7月12日) |
| 陵所 | 月輪陵 |
| 追号 |
桃園院 (桃園天皇) |
| 諱 | 遐仁 |
| 称号 |
八穂宮 茶地宮 |
| 父親 | 桜町天皇 |
| 母親 | 藤原定子 |
| 女御 | 一条富子(恭礼門院 ) |
| 子女 |
英仁親王(後桃園天皇) 貞行親王(第十七代伏見宮) |
| 皇居 | 京都御所 |
| 親署 | 桃園天皇の親署 |
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桃園天皇(ももぞのてんのう、1741年 4月14日〈寛保元年2月29日〉- 1762年 8月31日〈宝暦12年7月12日〉)は、日本の第116代天皇(在位: 1747年 6月9日〈延享4年5月2日〉- 1762年 8月31日〈宝暦12年7月12日〉)。諱は遐仁(とおひと)。幼名は八穂宮(やほのみや)または茶地宮(さちのみや)。
桜町天皇の第一皇子。生母は権大納言 姉小路実武の女で桜町典侍の藤原定子(開明門院)。父の嫡妻の二条舎子(青綺門院)の「実子」としてその御所で育てられた。
生涯
[編集 ]延享4年(1747年)、立太子、同年、父の桜町天皇の譲りを受けて践祚 [1] 。
延享5年/寛延元年(1748年)、即位。寛延に改元 [1] 。
柳原紀光の随筆『閑窓自語』には、天皇の漢学への造詣の深さが示されている。また、蹴鞠の作法の優美であることも伝えられている[2] 。
宝暦7年(1757年)、一部廷臣が垂加流神道説を進講。たちまち天皇は神道説に傾倒したため、関白などが進講中止を諌奏するも聞き入れず、翌年、宝暦事件として表面化[3] 。朝廷内の尊王論者の若い公卿が幕府によって大量に処罰された。ちなみに宝暦3年(1753年)12月には、金毘羅大権現を勅願所として日本一社の綸旨を出している[4] 。宝暦12年(1762年)、22歳で崩御。
系譜
[編集 ]| 桃園天皇の系譜 |
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系図
[編集 ]后妃・皇子女
[編集 ]在位中の元号
[編集 ]陵・霊廟
[編集 ]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府 京都市 東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵 (つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
[編集 ]- ^ a b 山本 2007, p. 122.
- ^ 米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』吉川弘文館、2019年8月20日、324頁。ISBN 978-4-642-08357-7。
- ^ 米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』p323
- ^ "金刀比羅宮 | 由緒". www.konpira.or.jp. 2025年11月27日閲覧。
参考文献
[編集 ]- 宮内省 図書寮 編『桃園天皇実録』全3巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4843320358
- 見る、読む、調べる 江戸時代年表. 山本博文編. 小学館. (2007年10月). ISBN 978-4-09-626606-9
関連項目
[編集 ]ウィキメディア・コモンズには、桃園天皇 に関連するカテゴリがあります。
桃園天皇
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| 日本の皇室 | ||
|---|---|---|
| 先代 桜町天皇 (昭仁) |
皇位 第116代天皇 1747年6月9日 - 1762年8月31日 延享4年5月2日 - 宝暦12年7月12日 |
次代 後桜町天皇 (智子) |
| 伝承の時代 古墳時代 |
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