寝坊した。
ほぼ毎週末、まだ暗い内から早起きして、始発のバスや電車で郊外の山城に出かけるというパターンになっていたが、たまに寝過ごしてしまうこともある。
この日は、せっかくの好天だったがもう遠出は無理な時間だったので、近場でどこに行こうかと考え、南漢山城を再訪することにした。一年前に行ったが、南門から西門を経由して北門までの半分の区間を見ただけ。未見の区間と、昨年から発掘調査中の統一新羅時代の大型建物跡を見に行くことに。 統一新羅時代の大型建物跡(53.5m x 17.5m)は既に掘り出されていたが、ちょうどその建物跡から、長さ64cm、重さ19kgの超大型瓦が350枚も完形で発掘されたとのプレスリリースがあったばかりだった。
今回は、南門からスタートして、東門までの区間を歩いた。
甕城が三箇所、暗門数箇所、雉城、砲塁に、水門などなどテンコ盛り。城郭好きには面白い区間だったが、城壁が崩れたままのところがあったり、景色が地味だったりと、前回まわった南西区間に比べると少し寂しい感じである。
統一新羅時代の大型建物跡は、李朝時代の行宮址の発掘現場で見付かった。行宮の復元整備に伴う発掘調査で偶然発見されたものである。南漢山城の初築が何時であるのか不明だが、この発掘成果で、ここが統一新羅時代の晝長城(別名日長城)であったと見て間違いあるまい。それにしても一枚19kgのバカでかい瓦と言い、53.5mという長大な建物と言い、ここが非常に重要な城であったろうことが推察される。
▲さんかく統一新羅時代の建物跡の発掘現場
初築が百済との説もあり、初期百済の遺物も出ているようではあるが、城の立地、規模、プランからして、恐らく統一新羅の初築ではないだろうか。羅唐戦争時、この山城が漢江流域を守る防衛ラインで中心的な役割を果たしていたのかもしれない。
2007年11月18日踏査
ソウルから南に約20km、京畿道儀旺市の慕洛山城を訪ねる。
2002年、2005年に世宗大学博物館によって地表調査が行われ、4〜5世紀の漢城百済期の土器が確認されたとのこと。ネットで調べたところ、城壁跡も一部残っている(下写真)ようなので、行ってみることにPhoto。
ソウルの地下鉄4号線に乗って仁徳院駅下車。バスで5分ほど南下して、ロッテマートが見えてきたところで降り、そこから徒歩。
標高385mで小高く目立つ山である。登山ルートはいくつもあるが、ケウォン芸術大学後門近くの登山口から1時間のコースを取る。
片道一時間のコースはかなりしんどかったが、行ってみて分かったことがいくつか。
山城の案内図や表示は意外にもちゃんと立っていた。
儀旺市記念物第216号。山頂を地形に合わせて石築、または土石混築の城壁で囲んだ鉢巻式山城である。外周820m。
だが、山城のかなりの部分が韓国軍の基地になっていて、一般人立ち入り禁止であった。ネットで見た北側にあるという城壁も、登山客に聞きながら随分探し回ったが、見つけられなかった。残念。
もう一つ分かったのは、ここが朝鮮戦争の戦跡地であること。中国の人民解放軍がここに陣地を築いた。1951年1月30日から2月4日の間、国連軍が二度の攻撃で攻め落としたとの記念碑と解説板が立っていた。 2007_1006_092817aa_1024
「四日間の血戦で韓国軍1師団15連隊は中共軍663名を射殺し、90名の捕虜を獲得した。一方我が軍も戦死70名、負傷200余名の被害を受けた...」とのこと。激戦地だったようだ。
今は登山道がよく整備されていて誰でも登れるようになってはいるが、三国時代から朝鮮戦争まで、重い装備を背負って登るには相当厳しい、天然の要害だった筈である。
韓国に無数に残る古代山城中、ここのように1500年を経ても役割を終えることができず、軍の基地として現役なところがいくつもある。残念なことである。
2007年10月6日踏査
2008年9月23日 (火) ソウル・京畿道の史跡, 山城, 百済の史跡 | 固定リンク | コメント (2)
京畿道華城市にある、唐城を訪ねる。
世界遺産の水原華城がある水原市から、ローカルバスで小一時間かかった。黄海に小さく突き出た南陽半島のちょうど真ん中、九峰山中腹にある。
▲さんかく中央に赤丸で囲んだところが唐城。
三国時代から、中国に海から向かうルートの一つだった要衝地である。最初は百済の地であり、高句麗、新羅と持ち主が移っていった。三国史記にある党項城がこの城であろうと比定されている。 新羅末には唐城鎮が設置され、王京の慶州から尚州、報恩の三年山城を経由してこの地に至る道を、唐恩浦路と呼んだらしい。
国家指定史跡になっているので、道路脇に案内表示(下写真)はちゃんとあったが、その後が何も無い。
何箇所かで枝分かれする道を何度も行きつ戻りつしながら、30分以上かけてやっと城跡にたどり着いた。 事前に調べた古い情報によれば、城壁はほとんど崩壊して残っておらず、土塁や僅かに残る石塁くらいの筈であったが、何時作ったものか、綺麗な石築の城壁(下写真)が数100mも再現(?)されていて、ちょっと興醒めした。
発掘調査の結果、当初は多郭構造の山城と思われていたのが、時代をそれぞれ別にする三期の城郭であることが分かった。そのうち、一番古いものが山頂363mを囲んだ城壁で、基壇補築が確認されている。これは石築のようだ。出土する遺物は6〜8世紀のものが大半とのこと。この山頂式山城を貫通する長方形の包谷式山城が、外周1.148km。こちらは基礎に石築が並べてあって、その上に版築土塁で城壁を作っている。出土遺物は新羅末のものが多いとのこと。
黄海を見渡せる、城の一番高い場所には建物跡の礎石があるとのことだが、夏草ボーボーで見つけられず。しかし、いろいろな模様の瓦片が転がっているのは確認できた。
▲さんかく瓦片。生い茂る雑草の間からでもいくつか垣間見えた。
何となく、山城から海を見てみたかったので、一応目的は達成。山中の栗の木が早くもたわわに実っていて、栗の実がゴロゴロ登山道に転がっているのに驚かされた。韓国の短い秋がもう始まったのを実感した。
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▲さんかく城内最高所の建物跡からの眺め
2007年9月2日踏査
2008年7月13日 (日) ソウル・京畿道の史跡, 山城, 新羅の史跡 | 固定リンク | コメント (2)
「最近発掘された百済遺跡」という本を見て、仁川に面白そうな山城を見つけて行ってみようと思った。仁川市北東の桂陽区にある、桂陽山城だ。初期漢城時代(4〜5世紀)の百済の土器が出ており、百済の初築の可能性があるとのことである。
仁川市は、江華島と仁川国際空港以外、訪ねたことが無い。
電車を乗り継ぎ、まだ新しい仁川市地下鉄に乗ってソウルから1.5時間ほどで目的の桂山駅に着いた。桂陽山は駅から徒歩5分ほどである。たくさんのハイカーが登山口に向かって歩いていたので、後について行った。
この山城はまだ一部しか発掘されていないが、1.5トン・トラック一台分もの瓦片が出土しており、近くに窯跡があるかもしれないとのこと。
また、石築の井戸からは木簡が出土しており、論語の公冶長編の文章が記されたものがいくつかあり、儒教や漢字文化が伝えられた時期を示唆している。 木簡は五角形に削られていて、五面に文字が記されている。韓国では木簡の出土例がまだ多くないが、このような多角形の木簡はここでしか見付かっていないらしい。書体は魏晋南北朝時代に流行した楷書であるが、これを3〜4世紀の百済のものと見るかどうかは異論もあるらしい。
城壁についてはあまり事前情報が無く期待していなかったが、南西側の六角亭前の絶壁に城壁が残っていることが、現地の説明版と写真(下)でわかった。2007_0708_104349aacoloradjusted_800
しかし残念ながら、夏草でびっしり覆われていて城壁全体を見ることはかなわず。かろうじて城壁の端の方に近付くことができて、写真を撮ることができた。小ぶりの四角い切石を積み上げており、古城によく見るタイプである。発掘された土器は今のところ新羅のものが大多数らしい。 Southwallpanorama_1024
この城壁も統一新羅くらいと見るのが無理がなさそうな気がする。他の城壁があったらしきところには、崩れた石塁がところどころ斜面に散乱していた。おそらく北門跡と思われる場所に、特にたくさんの石塁が広がっていた。
この山は水が豊富で、特に緑が濃いと思った。全山、真緑に覆われている感じだ。韓国は岩山が多く、これだけ木々が鬱蒼としているところは久しぶりで、日本みたいだと思った。梅雨空で湿気が多かったので余計にそう感じたのかもしれないが。
曇ってはいたが、それでもなかなかの眺望。近隣住民の人気のハイキングコースのようで、こんな天気でもたくさんのハイカーで賑わっていた。
山城の中は共同墓地になっているのだが、仁川市は墓地の買収と移葬を進めており、ここを2007年中に国家史跡に登録して、2008年から山城の復元事業を本格化させる計画とのことであったが、一年後の今日現在、まだ国家史跡には登録されていないようだ。
2007年7月8日踏査
幸州山城はソウルの西隣、京畿道高陽市の、昌陵川が漢江に交わる河口部に小高く盛り上がった徳陽山(標高124.8m)山頂にある。このように支流が本流に交わる部分の丘陵地形は、少なくとも二方面を天然の堀で守られた要害であり、同時に水上交通の要衝でもあるから、三国時代からずっと重要な戦略地点となってきた。
1593年文禄の役では、権慄将軍が籠城したこの山城を、総大将宇喜多秀家、副将石田三成、吉川広家らが率いる三万の軍勢が攻めたが、落とすことができず退却した。韓国では文禄慶長の役での朝鮮側の三大勝利の一つとされ、映画やドラマなどでも大変有名な古戦場である。
しかしこの山城はそのはるか以前からあった古城である。三国時代の土器片が見つかっており、発掘の結果、統一新羅時代の城門跡も確認されている。しかし、文禄の役以前の文献の記録は無く、初築が何時であるのかははっきりしていない。近くの虎巖山城と共通した土器片が多く出ていることから見て、統一新羅初期に羅唐戦争に備えて初築、もしくは整備・再活用された城址ではないかと考えられているようだ。
▲さんかく漢江流域の統一新羅時代の古城址を、幸州山城を中心に赤丸でマークしてみた。右のほうに青丸で印をつけたところは、漢城百済の王城があったと推定される地域。その下の南漢山城が統一新羅時代のこの地域の中心的山城であったと思われる。黄色で囲った範囲は李朝時代のソウル城郭であり、現在のソウル中心部でもある。
映画などでは、立派な石築の城郭が出てきたりするそうだが、この城は土城である。頂上を囲んだ小規模な鉢巻式山城と、その外郭を大きく囲む包谷式山城が組み合わさった二重構造で、外周約1kmとのこと。しかし現状では、1990年代に入ってから復元整備された西門跡を含む版築土塁420m以外には、城壁跡を辿って確認することはできなかった。
山頂付近の散策路では、色々な模様の土器片がごろごろ転がっていた。
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▲さんかく復元整備された版築土塁による城壁。発掘調査で、基底部に二段の石列が並べられているのが確認されている。日本の古代山城の土塁の基礎にも類似したものがみられる。土塁の基礎石列にはいくつかの種類があるようだが、やはり元祖は朝鮮半島の古代山城であろう。
2007年7月6日踏査
臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)は瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。
▲さんかく隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。
続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。
旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20〜30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、4の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。
最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。
朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500〜600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。
▲さんかくこの哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。
これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。
この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。
2007年6月16日踏査
六渓土城からまた北岸に戻り、臨津江沿いに東に進んで順番に見て行く。最初に見た瓠蘆古壘と同様、川に突き出た三角形の地形に作った城跡が二つ続くが、まずは堂浦城。発掘調査時の写真では見事な石垣の城壁が、階段状に三段に築かれているのが分かるが、現状は残念ながら埋め戻されており、なだらかな斜面にしか見えなかった。
▲さんかく▼木が上にちょっとだけ生えている盛り上がりが、城壁である。
▲さんかく対岸を見ると川に面した絶壁が続いているが、この城も同様の断崖状地形の上に位置している。二等辺三角形の長辺二つが、このような高さ13mの断崖で、陸地側の底辺に当たるところに人工の城壁を築いている。最初に見た瓠蘆古壘、堂浦城それに次の隱垈里城はどれも同様な地形上に築かれており、この特異なプランだけ見れば、どれも同一勢力によって同時期に築かれた可能性を窺わせる。高句麗による対百済の、南侵戦略拠点であったのかもしれない。
2007年6月16日踏査
臨津江沿いに、瓠蘆古壘から始めて東に向かって順番に城址を訪ねた。Yeonchun_map_rev2_1024
瓠蘆古壘の対岸に対峙する位置にある二残眉城は、残念ながら韓国軍の基地になっていて、一般人は入ることができない。その東にある、六渓土城を目指した。蛇行する臨津江が北に大きく湾曲する場所であり、この辺りは浅瀬になっていて、朝鮮戦争の時には北朝鮮の戦車部隊が渡河したところらしい。当然、戦略的に抑えなければならない要地であるが、ここに、平地の土城である六渓土城の痕跡が残っている。
Google Earthで見るとこんな感じである。岸沿いに、楕円形のような地割りが見える。資料を参考に城壁ラインを辿ってみると、下図のようになる。
赤線が残存城壁が確認されている部分。黄色は城壁推定ライン。外周約1.7kmで、城内に220mの間隔を置いて、平行する二本の土塁線がある。推定門址は、東西南の三箇所。また、西門跡には東西に長く、南城壁中央まで伸びる低湿地が確認されており、川まで繋がる水路の存在が想定されている。臨津江から直接船で城内に入れるようにしてあったのではとのこと。
このような平地の土城は、三国時代のごく初期に作られたものと見られ、初期百済の王城と推定されている、ソウル市の風納土城が最も有名である。風納土城は規模こそ外周3.7kmと六渓土城の約二倍であるが、川沿い、漢江の南岸に立地している土城で、プランはよく似ている。平地に版築土塁で囲んだ城というのは、中国で発生した城郭という文化が、まだ直輸入状態のようでもある。
2007年6月16日踏査
2008年6月 8日 (日) ソウル・京畿道の史跡, 百済の史跡, 臨津江沿岸の史跡 | 固定リンク | コメント (2)
持病の腰痛で一月程山城巡りを中断した後、リハビリ程度に、平地の古城をまとめて見に行った。
京畿道漣川郡。大韓民国の最北端、北朝鮮の開城から車で僅か10分ほどの国境地帯である。朝鮮戦争の時にはこの漣川郡を縦断する3号国道を、北朝鮮軍がソ連の戦車T34で南進した。そういうわけで朝鮮戦争の史跡ももちろん多いのだが、ここは遥か1500年以上昔の三国時代に、百済と高句麗が対峙した最前線でもあったようだ。
▲さんかく漣川の観光地図に、古城跡を赤丸で書き込んでみた。クリックして拡大して見ていただきたい。漢江の北を東西に蛇行しながら流れる臨津江(イムジンガン)に沿って、その南北の両岸に10数箇所の要塞や山城跡が残っている。面白いことに、北岸に築かれた城には石築のものが多く、南岸には版築土塁で築いた土城が多い。同じ地域であり、入手できる建築材にも違いがなさそうなところから見ても、築城の先進国であった高句麗が北岸の城を石築で作り、南岸の土城は百済の手によるものではないかと思える。
まず訪ねたのは臨津江北岸の一番西側に位置する、瓠蘆古壘。これはこの地帯に独特な地形を活かした変わった形の城跡である。臨津江沿いは古代の火山活動で形成された火山岩でできた奇怪な形状の断崖や絶壁が多いが、この城も臨津江に突き出した細長い二等辺三角形のような玄武岩の絶壁上に築かれている。ちょうど三角形に切り取られたケーキそっくりの地形で、河に面する約20mの断崖はほぼ垂直である。
城壁はこの二等辺三角形の底辺にあたる、陸側を塞ぐような形で築かれている。なんとも不思議な形状である。
同じような地形を利用した城跡は臨津江北岸にだけ他にも残っているが、それらと対峙するかのように、南岸にも主に土塁による城跡が残っている。これらの遺跡を見ると、この河が国境であったろうことが想像できる。
2007年6月16日踏査
京畿道安城市一竹と忠清北道陰城郡の境界にある望夷山城を訪ねる。標高472mの山頂にある山城で、百済の築城になる小規模な鉢巻式土城を含む谷を、統一新羅時代の包谷式石城が2kmにわたって囲んでいる。
山頂近くに梅山寺という小さな庵程度の寺があり、そこまで麓から車一台がやっと通れる舗装路が続いている。そこからさらに徒歩で数100m上がれば、望夷山城にたどり着く。
統一新羅時代と言われる石垣は、下層部しか残っていない部分が大半だったが、城門跡三ヶ所や、雉城と呼ばれる城壁の突出部も五ヶ所が残っている。城内は水が豊富で今も水を湛える井戸が残っているだけでなく、小川が流れており湧き水が出るところも数箇所あった。 出土遺物は、青銅器時代後期から、百済、統一新羅、高麗、李朝と継続している。注目されるのは、鉄製短甲が出ていること。Photo 日本の古墳からも多く出土する武具である。青銅器時代の遺物が山頂から出る例は多くないようだが、三国時代以前、この山がどのような場所だったのか、興味深い。
また、残念ながらうまく場所を確認できなかったが、この城内の山頂あたりに李朝時代の烽火台跡がある。東蓬、忠州からの直烽と、南海、晋州方面からの間烽の二系統をソウルの南山烽火台に伝える重要な役割を担っていたようだ。
今ではこれという特徴も無い田舎町であるが、有史以来李朝末まで、交通・通信の拠点として重要な役割を担ってきた地であったろう。
2007年4月7日踏査
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