忠清北道忠州市を三度訪ねる。
今回は忠州山城が目的。忠州市街地から車で15分ほど南の、南山(標高636m)にある。外周1.1km、高さ5〜8mの石城である。6世紀中頃以降の新羅の山城と推測されているようだ。 かなりの部分が近年復元されているが、特徴的で非常に興味深い構造部がいくつも見られた。
まず、複数箇所に復元されている排水溝と排水口。城壁外面の排水口は他の新羅系の城で見られるのと同じ、上部が狭い台形。ここでは更に城内の石築の排水溝も綺麗に復元されており、それと排水口の連携がよく分かった。外壁の排水口の中を覗くと、ひんやりと冷たい風が顔に当たった。119_640
城内の上方に向かって、登り階段状に水路が作ってあり、貫通させてあった。124_800
懸門式の城門も、特にこの城では独特である。
懸門式は新羅の城に多く見られる、はしごを掛けないと入れないように入り口を高く作った凹字型の門だが130_800 、ここではさらにその城門の城内側を丸く石築で囲んであり、城門から侵入して来る敵を隠れながら狙い撃ちする為の窪みが2箇所作ってある。107_800
さらに半円形の防御壁で区切られた空間がこの城門内の踊り場のようなところに作ってあって、ここに兵士を隠して侵入する敵を真正面から攻撃できるようにもなっていた。136_800 はしごを掛けて這い上がってきた敵は、この踊り場の中で、真正面と上部2箇所から集中攻撃を受けることになる。徹底的な防御構造だ。
他に、石築の大きな貯水池が復元されていた。水量を調節できるよう、池の排水溝が併設されていた。
南漢江が流れる忠州は、韓国のへそに当たる。陸路、水路共に開け、まさに中心地であったことから、三国時代には百済、新羅、高句麗の争奪戦の舞台となった。その後も元寇、文禄慶長の役、など戦史に事欠かない。また、山城跡以外にも様々な史跡が残り、見所が多いところである。この山城はまだそれほど有名ではないものの、城壁の残存状態も悪くなく、さらに復元城壁から古代朝鮮の巨大建造物がどうであったかのイメージをつかむのに一つの参考になるかと思う。
2007年4月8日踏査
忠清南道論山市、灌燭寺に残る弥勒菩薩像。高麗時代の石仏で、高さは韓国最大の18m。一度見たら忘れられない顔である。高麗時代の仏像の顔は、新羅の石仏に比べると、このように土着化が進んだ個性が出てきて、味があって良い。特にこの灌燭寺の仏像は、ただ大きいだけでなくて、完成度も高いと思う。
ゲゲゲの鬼太郎に朝鮮魔法という回があって、「アリランさま」と呼ばれる妖怪が出てくるが、この仏像が、ほとんどそのままで使われている。水木しげるは、実際にここまで見に来たのだろうか。
論山へは韓国の新幹線、KTXで行ける。駅からタクシーで20分くらいだったか。扶余観光の帰りに立ち寄った。
2006年10月4日踏査
坡州市で統一展望台や月籠山城を訪ねた帰りにこの仏像を見に行った。ソウル・坡州間のバス・ルート上にあって、途中下車したバス停のすぐ近くだった。
これはなかなか見応えがあった。高麗時代の石仏だが、土俗的な顔立ちの中にもかなり洗練された印象を受ける。高さ17.4mで、近くで見るとかなりの迫力。韓国で、他にこれに類した石仏を見たことが無い。
19世紀末の興味深く貴重な朝鮮紀行文である、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」に、この石仏が詳しく描写されている。1895年、ソウルから開城へ向かう道中の記事の中に挿絵付で紹介されている。朝鮮各地を旅行しながら、あまり史跡や遺跡にお目にかかれなかった彼女に、とても印象深かったようである。森から頭二つを突き出すこの仏像の挿絵を見て、実物を探して見てみたところ、このようにちゃんと残っていた。しかし顔面をよくみると、疱瘡の痕のように黒い点がいくつも。朝鮮戦争の時の弾痕かもしれない。
坡州から臨津江を越えれば、開城はもう目の前である。もちろん、バードは開城、そして平壌まで北上しているが、同じように旅行ができないのが100年後の現在かと思えば、実に残念なことである。バードはこの平壌へ向かう旅の途中でいくつかの山城跡も見ているが、うらやましい限りだ。
2007年3月1日踏査
2008年3月 1日 (土) ソウル・京畿道の史跡, 寺院・宗教, 高麗の史跡 | 固定リンク | コメント (0)
2007年2月17日踏査
三郎城は、江華島の南に位置する標高222mの山頂を2kmに渡って石築の城壁で囲んだ山城である。いつ築城されたものか分かっていない。高麗時代の史書によれば、建国の神である檀君が三人の息子に築城させたので、それにちなんで三郎城と呼ばれているそうである。当初は土築で後に石築になったらしい。李氏朝鮮末まで改築・修築を繰り返して使用されてきたためか、城壁の石の積み方は場所によってまちまちな印象がある。三国時代に最初に築城されたのではないかとの説があるがはっきりしない。
城内には高麗時代の仮宮の跡、やはり高麗時代の寺である伝燈寺、李朝時代の王家の史書や族譜を保管する史庫があった。
写真の南門楼閣は、李朝時代の城門を1976年に復元したものだが、ここで1866年にフランス軍との攻防が繰り広げられ、朝鮮軍が勝ってしまった。勝ってしまった、というのは、ここで薩摩や長州のように負けていれば、もっと早く欧米列強の近代化の力に気付いたのではないかということ。1500年以上も築き続け、朝鮮全土に2000箇所も残ると言われる山城。その長い歴史の最後の最後に、外敵を撃退するのに大きな役割を果たしたようだ。しかし、その結果が、近代化に遅れを取った一因になったとしたら皮肉なものである。
2007年2月16日踏査
これを書いている今日は、韓国の数少ない祝日の一つ、開天節である。檀君神話に基づいた、古朝鮮の建国を祝う日だ。この日には檀君が祭天の儀式を行ったという伝説が残る、普段は立ち入り禁止の塹星壇と呼ばれる祭壇が解放される。
この塹星壇は江華島の南部、標高468mの摩尼山の頂上にある。檀君が天を祭るために作ったとの伝説だが、いつ作られたものか明らかでない。史書に残る一番古い記録は李朝初期らしい。恐らく高麗時代に作ったものであろうか。記録上では、醮祭という、道教式の星に関する祭祀を高麗、李王朝が行っていたようである。
岩山のてっぺんに石築で作られているが、下段部は楕円形に、上段部は方形をなしている。円形は天を表し、方形は地を表すとのことだが、こんな様式の祭壇は他で見たことが無い。誰がどういう思想でこういう構造物を山頂に築いたのか、当初はどういう祭祀がここで行われていたのか、非常に興味深い。
遺跡保存のために1月1日の初日の出と開天節の10月3日以外は立ち入り禁止になっており、柵の外から見るしかない。
しかし離れて見ても、古色蒼然として何だか妖しいオーラがむんむんしている気がした。霊気溢れるこの場所は、檀君を信仰する人たちの聖地であり、韓国で一番の強い気が集まるスポットだそうである。
2007年2月16日踏査
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