2013年12月19日

原発被害と司法書士」(講師 菅波佳子司法書士)

講演会「原発被害と司法書士」(講師 菅波佳子司法書士)に参加しました。
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以下は僕のメモ。

菅波氏は、福島第一原発から4kmの大熊町で司法書士事務所を開いていた。
原発があって人が集まる地域ということもあって、いわき市出身の菅波氏は大熊町で独立開業した。
震災当日、事務所で執務をしていた。電話は通じず、実家が心配になり自動車でいわき市に向かった。
いわき市に向かう道は道路が陥没し、渋滞で何時間経っても富岡町から出れなかった。そこで、大熊町の事務所に引き返した。
一晩、自動車の中で過ごした。
深夜、いきなり防災無線がなり、原発から3km内の人達に避難勧告が出た。4kmはどうなのかと思ったが、避難先が近くだったことや、ラジオは津波のことしか言わないので、大丈夫だと思って、そのまま自動車の中で過ごした。
朝方、防災無線で消防団員が呼び出され、その30分後の防災無線で、住民全員、集会所に避難せよと流れた。
念のための一時的な避難なので手荷物だけ持って下さいとの指示だった。自動車には乗って行かないようにという指示。観光バスを待つようにという指示。指示を出している消防団員も、バスがどこに行くのかすら知らない。観光バス30台で、どうやって1万1000人の町民を避難させるのかと思ったが、一時的な避難と繰り返し言われ、特に原発が危ないとは思っていなかった。危機感はなかった。
バスは1台来たっきり、後は来なかった。
昼過ぎに自衛隊のトラックが来て、帆付きの荷台に乗って大熊町を離れた。
受け入れ先がなく、山の中をグルグルと走り、深夜12時過ぎになってようやく郡山市の避難所にたどり着いた。通常1時間半程度の距離を10時間以上かかった。
すぐには避難所には入れてもらえず、スクリーニング検査を受けてからしか建物内に入れなかった。
翌朝、大熊町民は別の場所に移動するという指示で、バスに乗ることになったが、この間、何も食べていない。
近所の方々が炊いてくれたおにぎりを食べた。塩もついていなかったが、ガスも水道もない中で、おにぎりを握ることがどれだけ大変だったろう。
高校の体育館に移動し、そこは、毛布もなかった。2日くらいして自衛隊が毛布を持ってきたが薄くペラペラで、しかも人数分もなかった。
ストーブは夜だけしかつかず、とても寒かった。
寒くて起きてられず、スーツのまま毛布に包まって知らないおじさんの隣で寝た。
実家に迎えに来てもらい避難生活は1週間で終わった。

被災証明書をFAXでもらった。
広島原爆の時も、被災証明書が発行された。これがないと配給が受けられなかったらしい。

福島にはいたるところにモニタリングポストがある。
福島市に移転した事務所の近くのモニタリングポストは、除染をした後にも関わらず、0.885μSv/hあった。その後、2度目の除染がされた。
公園の看板には「公園の利用は、1日あたり、1時間程度にしてください」と注意書きがある。

スクリーニング検査を受けると、白紙のスクリーニング済証がもらえる。中身は自分で記入する。
このスクリーニング済証がないと、県外の施設などでは入れてもらえないことがあった。

いわき市は、原発事故から2週間目に、40歳以下の市民に安定ヨウ素剤を配布した。
しかし、1年くらい前、使用期限が切れるということで、保健所が回収し、すぐに新しい安定ヨウ素剤が配られた。つまり、これからも放射性物質を大量に浴びるという危険があるということ。

実家に戻った後、司法書士業務をどうするか、特に後見人になっていた寝たきりの認知症の方々のことが気になった。
事務所に記録を見に行くこともできない。
病院もない、役所もない、連絡のつけようがない。
裁判所に問い合わせても、裁判所も機能していない。
インターネットの避難所情報を辿って、避難所に電話をかけまくって、一人一人を探した。

公益性がある事業所のみ一時立ち入りが下りるということで、5月になって許可をもらった。ちなみに初めて公益性がある事業所と認められたのは歯科医院。身元が分からない遺体の身元確認のために歯型を照合するため。

東電の社員が一緒に付いてくるし、しかも、自己責任で立ち入るとの同意書に署名した上で、全身防護服に身を包み、2時間しか立ち入れない。持ち出す荷物はすべて東電の検査を受けなければならない。首からは積算線量計とトランシーバーを持って行く。

1年後に一時帰宅した時、線量を測ると、自宅室内は9.4μSv/h、外は9.99(検出限界オーバー)。この時の被曝量は2時間で13μSv。
推計積算被曝量は3ミリSv(マイクロではない!)。

事務所の近くの双葉病院は、高齢者が入院していたが、線量が高く救助に行けず多くの方が亡くなった。
依頼者の夫もここに入院していて、避難ができたが、避難先で亡くなってしまった。
その連絡も何日も経ってから。
避難所なので線香もあげれず、写真もない、納骨もできない。

クルマは廃車すらできない。業者が引き受けない。

県外への避難のピークは原発事故から1年後。つまり、避難するかどうか決めるのに1年かかっている。
福島から県外に避難した人達は「福島に背を向けるようなことをして申し訳ない」と後ろめたい気持ちでいる。
では、福島に残っている人はどうか。避難したがっている。
体育や部活をするのにも、親の承諾を要求される。子どもに将来影響が出るかどうか。給食を食べるかも親の判断。福島市でも郡山市でもそういう状況。

賠償は固定資産を基に決められているので、他の地域に家を買うには足りない。
新しい家はそこそこの賠償が出るが、それは住宅ローンの返済に消える。そして、その人が再び住宅ローンを組んで家を建てるのは困難。

生活拠点が決められない。
働きにくい(賠償金が下りて良いねなどと言われる)
広域避難者の後ろめたさ。強制避難じゃなくて申し訳ない。
賠償に意味がない。お金では解決しない。例えば、ペットを置いてきたことの心の傷はお金をもらっても解消しない。

地元の人の意識(国の発表を信じていない)
水道の水は飲まず、ペットボトル。
福島の野菜は買わず、他県のものを買う。
山菜やキノコは食べない。

避難者がいたら、福島からとか関東からとか線引きせずに接して欲しい。

同じような経験は私たちだけで十分。
九電の社員には、事故が起きた時に私達のような被害を受け止める心づもりはあるか聞いてみたい。
訴訟で原発を止めてください。玄海訴訟は多くの人数で裁判所を変える。
posted by 後藤富和 at 20:42| 環境

諫早湾開門をめぐる現状

1997年、諫早湾奥部は、国営諫早湾干拓事業潮受け堤防によって締め切られた。それと前後して、諫早湾そして有明海の環境は悪化し、有明海全域で大規模な漁業被害が頻発している。そのため、有明海沿岸地域では、漁業者の自殺があとを絶たない。
2010年12月、福岡高裁は、漁業者の訴えを認め、判決確定の日から3年以内に諫早湾干拓潮受堤防の南北両排水門を5年間にわたって開放するように命じる判決を下した。当時の菅直人政権は福岡高裁判決を受け入れ、同判決は確定した。その結果、国は、2013年12月20日までに潮受堤防を開放する法的義務を負うに至った。
それから3年、国は何もしてこなかった。開門にむけた対策工事には3年の期間がかかると国は主張しておきながら、この3年間、国は、長崎県の反対を口実にして対策工事に着手してこなかった。
11月12日、長崎地裁は、新旧干拓地農業者や長崎県農業振興公社らが起こした仮処分において、潮受堤防の開門をしてはならないとの仮処分決定を行った。
開門を認めない決定の根拠となったのは、国が対策工事を怠ってきたこと、そして、国が有明海における漁業被害を主張しなかったことの2点である。つまり、このような確定判決と一見矛盾するような仮処分となったのは、国が、福岡高裁判決を真摯に受け止めず、判決の主文には従うが、開門の根拠となった有明海における漁業被害について認めたわけではないとの不遜な態度に終始したためである。
国が福岡高裁判決を真摯に受け止め、諫早湾干拓事業の過ちを認め、有明海漁業者や干拓地営農者に向き合って自らの非を認め謝罪し「有明海の再生のために国も真剣に努力するので、漁業者も農業者も協力して欲しい」という態度に出たのであれば、今回のような混乱を招く仮処分は避けられたはずである。そればかりか、福岡高裁判決確定以降、遅々として開門が進まない状況の中で漁民たちが自ら命を絶つという事態も防ぐことができたはずである。
また、本来、紛争の解決を目指す裁判所が、確定判決と矛盾する決定を出したことで、事態をさらに混乱に陥れたことに対しては、司法の役割を見失ったものとして憤りを禁じ得ない。しかも、11月19日、長崎地裁は、開門差し止め訴訟の原告である営農者側に対し、開門を求める漁業者側を相手取って国に開門を強制しないよう求める訴訟を起こす意向があるかを確認する求釈明を行った。本来、誰を相手にどのような訴訟を提起するかどうかは、処分権主義の下、当事者の専権事項であって、そこに裁判所が関与すべきでない。しかも、本来は対立当事者ではない農業者と漁業者を争わせる新たな紛争の火を点けることとなり、紛争解決の機関としての裁判所の役割を完全に放棄したものであると言わざるを得ない。
もっとも、長崎地裁仮処分は、福岡高裁の確定判決の効力を失わせるものではない。国が負っている諫早干拓排水門を開放する法的義務はいささかも揺らがない。11月19日に参議院議員会館で行った「諫早干拓排水門の開門を求める緊急集会」には超党派の議員と220名を超える市民が集まり、開門を求める国民の声はさらに大きくなっていることを示した。
開門を認めない仮処分決定の根拠の内、農業用水や湛水被害などの対策工事に関するものは、しっかりした準備工事を行うか否かの問題にすぎない。漁業被害に関するものは、現に存在する漁業被害を直視し、開門調査の意義を踏まえ漁業被害を主張するか否かの問題にすぎない。つまり、長崎地裁の仮処分決定は、福岡高裁確定判決と矛盾するものではない。
国は、諫早湾干拓事業がもたらした漁業被害と開門確定判決を軽視し、開門確定判決が命じた開門義務の真摯な履行をサボタージュしてきた態度を真摯に改め、直ちに、対策工事について改善すべきは改善し、開門義務を履行すべきである。
今後上級審の審理と本案の審理を通じてようやくその内容が確定する仮処分決定があるとき、相反する2つの義務のうち、国が従うべきは開門確定判決である。
私たちは、国が福岡高裁の履行期限である12月20日に開門できなければ、直ちに、間接強制を申し立てる予定である。
国は、確定判決をみずから守らなかったという憲政史上かつてない事態、そして、間接強制まで受けるという事態を恥ずかしいものと受け止めるべきである。そして、国の無策のために、長年苦しめられてきた漁業者たちをさらに苦しめる事態を招いた現実を直視すべきである。
潮受堤防排水門の開門と開門調査は、有明海異変とまで言われた深刻な環境破壊のなかで不漁に苦しむ有明海漁民の悲願である。有明海沿岸4県にわたる深刻な環境破壊と漁業被害をもたらした有明海異変は、被害の広域さ、深刻さ、破壊された環境のかけがえのなさにおいて、歴史上希に見る環境破壊であった。不漁のなかで多くの漁民が陸に上がった。自殺に追い込まれた漁民も少なくない。漁業によって成り立っていた地域社会は破壊された。被害はもはや極限状態まで来ている。宝の海・有明海の再生は、待ったなしの急務である。
posted by 後藤富和 at 16:22| 有明海

朝鮮学校無償化除外問題

本日、国が朝鮮学校だけを高校無償化(就学支援)の対象外としたことに対し、九州朝鮮中高級学校高級部の在校生、卒業生ら67名は、国賠訴訟(九州朝高生就学支援金差別国家賠償請求訴訟)を提起しました。
私も弁護団の一員として参加しています。

すべての子どもには学びへの権利があります!

訴状の結びを引用します。

原告らは皆、日本で生活する一人の高校生であり、または一人の高校生であった者たちである。多くの日本の高校生たちにとってそうであるように、原告らにとっても、高校時代は忘れられぬ青春時代である。
被告による朝鮮高校無償化除外は、朝鮮高校に通う原告らの高校生活を、高校生活とは認めないという「差別」の意思表示である。この被告による「差別」の意思表示は、原告らの青春に大きな傷跡を残し、今もなお傷跡を残し続けている。
高校時代、青春時代に民族も国境も関係ない。特に原告らは、日本で生まれ、日本で育ち、そして、これからの日本社会を担っていく大切な人材である。これからの日本社会を担う原告らに対して、「朝鮮高校に所属している」という不合理極まりない理由で「差別」という傷跡を残し続けることは許されない。
国際連合や日弁連、各弁護士会が声明や意見書等で指摘するように、被告が朝鮮高校だけを無償化の対象から除外することは、違憲・違法である。このように国際的な見解、法律家団体の見解が多方面から示されているにもかかわらず、被告はその姿勢を一向に改めようとしない。
被告による良識ある対応を期待できない以上、原告らの傷跡を癒すのは、司法しかない。人権最後の砦である裁判所の適切な判断によって、朝鮮高校に通う原告らの傷跡が少しでも癒されることを切に願う。
posted by 後藤富和 at 15:23| 平和

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