2005年12月
2005年12月29日
体が資本って
あらゆる選択肢が失われると本当に重く響いてくるね。
この性格にこの体有りか。
この性格にこの体有りか。
人生終了
今日、人生が一気に終わりに近づいた気がする。
クズ人間にふさわしい最期を迎えますかね。
クズ人間にふさわしい最期を迎えますかね。
2005年12月21日
服飾業界の生産者と消費者
先日のエントリに関連して、Kammy+さんの記述から話を膨らませてみる。思うがままに書いた自己満足の典型例のような文なので読みにくいですorz
ちょっと著者も覗いてくれるかもしれないので提案なんですが,どうしてこういうイラストやファッション雑誌もそうなんですが,長身でスラッとして脚長で顔小ぶりの人間ばかり出すのでしょうか? 僕にとってはもうその時点で他人事になってしまいます.自分がどういう服を着たいかを考えるときに,自分に似た人間が着ているのをみるのが一番なんじゃないですか?そもそも,服とは長身でスラッ(以下略)な人間を基準につくってあるので,それが似合わないような体型の人間には着せたくないのでしょうかね.服屋には,「僕に着てほしそうにならんでる服」なんてないんですよ.だからこそ,着る人間を拒まない「スーパーの服」が一番落ち着くのかなあ,なんて考えてしまいました.もちろん,いろいろな理由でもってそこに落ち着いているわけですが.
Kammy+さんのこの疑問に対して、菊池さんは次のように答えている。
ご質問のどうしてファッションイラストや雑誌で『長身でスラッとして脚長で顔小ぶりの人間ばかり』取り上げるのかと言うことなんですけど、それはズバリ、それが洋服という商品が一番似合う体型だからです。服も商品ですから、売れなきゃ意味が無い、かっこいいなーと思ってもらうためにはかっこいい人に着てもらう、それ基本です。商業ベースでは。
私はこの菊池さんの回答が、物凄く「服を売る」業界側の意見に見えてしまう。デザイナー、販売員などの服の生産に携わる人間にとって、作品であり、売り物なのは服それ自体である。そこから菊池さんの上記の発言が出てくるのは当然の流れだと言えよう。服を売る側にとっては、あくまで服を売ることが第一目的であり、服を買った人が幸せになるかどうかまでは責任をもてない。似あわなそうな服を選んだ消費者に服の購入を思いとどまらせようとするような店員を自分は見たことも聞いたこともない。
私は服飾業界の接客があまり好きではないが、美容院の接客だけはかなり真摯さを感じた。それは美容院が、「人間そのものをいじる技術」を商品にしているからだろう。美容師にとって大事なのは、その人がかっこよく仕上がるかどうかだ。人をかっこよく改造できない美容師に商品価値はない。
美容師さんもそのことをよく理解しているからか、私のように元が最悪の人間の髪を切るときは、なんかいろいろ試行錯誤しながら、偏差値30くらいの顔を40とか45くらいに引き上げようと努力してくれる。こっちが満足した仕上がりになった時は、美容師さんも心なしか満足そうな顔をしているし、いまいちな仕上がりになったときは美容師さんも怪訝そうな顔をしている。
服飾店員みたいに余計なものを無理に薦めることもない。ファッションガイドにはやたらと茶髪茶髪書かれているが、仕事やバイトの都合であんまり明るい色にはできないとか染められないとか、アトピー持ちだから怖くて染めたくないとか、そうしたことを全部ふまえた上で話ができる。私は美容院に何回か通って初めてカラーを薦められたし、カラーし始めの頃は料金半額にしてもらってちょっとずつ色を明るくしていった。こっちが眠そうな顔をしてれば寝かしておいてくれるし、眉毛切るときも初回は無料でやってくれる。運がよかっただけかもしれないが、色々美容室には行ったけど、美容院では「サービス」の押し付けをほとんど感じたことがない。消費者の幸せと、生産者の幸せが、いい感じでマッチングしている。
服の場合は、服と人間が分離しているからそうはいかない。まあ働く人というよりは、企業や業界のビジネススキームがそうなっていると思うのだが、なんだかよくわからんデザインで余計なものがたくさんついてて機能性も悪そうで(実際悪い)しかも値段も不可解なほど高い服を店員は次々と持ってくるし、「ジャケットはベルベットが...」とかわけわからんことをいきなり話しかけてくるし(今日の話。美容室では、「(雑誌を見せながら)こういうのがレイヤーって言うんですけど、こうするとずいぶん髪が軽くなりますよー」とか分かり易い説明をしてくれる)。
デザイナーが自分の作った服をモデルに着せてそのできばえにうっとりしようが、販売員が高価な服をたくさん売ってウハウハしようが(これはしないか...ノルマとかに疲れてる人もいたし...)、そんなことは消費者の幸せに関係ない。消費者の幸せと直結しない生産者の幸せを自己満足といい、まともな生産者ならそれを避けるし自己満足に気づくとショックを受けるはずなのだが、適当な事実から勝手に消費者の支持を妄想して自己満足に陥っていることに気づいていなかったりするからたちが悪い。ついでに言っておくと望ましい男性性・女性性のモデル、ファッションのための理想体型を勝手に規定した上で高額な金まで貰っているモデルはオタクにとって邪魔者以外の何者でもない。
服を買う消費者にとって大事なのは、「服そのもの」ではなく、「服を着た自分」である。消費者は別に部屋に飾ってうっとりするために服を買うわけではない。「自分が」着るために服を買うのだ。どんなかっこいいモデルが着ていても、自分に似合わない服、自分に何らかの苦痛を与える服、「服を着た自分」をモテさせてくれない服はゴミクズ同然なのである。実際、服を購入する最大の決め手になるのは試着であるということからもそれはわかる。
一消費者の性格や境遇や懐具合までちゃんと理解した上で、その人に最も合う、最も満足感を与える服を提供し、それに幸せを感じるのが望ましい生産者の姿だろうが、私はまだそんな生産者に会ったことが無い。店員でなく、「商品販売」という文脈から離れたファッションのエキスパートにファッション改造をお願いする人が多いのは、そういう現在の服飾産業のあり方を反映しているのだと思う。ある種の接客をウザいと感じているのはオタクだけではないだろうし、店員さんも疲弊しているかもしれないし、不幸になる人が多いような制度は早くなくなっちゃえばいいのに。
どうでもいいが、私がこんなにサービスにぐだぐだいうのは風俗通いが長かったことが大きい。性産業、水商売でトップセールスを記録するような女の子たちは、瞬時に相手の要望を見抜いて、それを先回りして満たすような行動を取る。彼女達はおそらくそのことで物凄くストレスをためてしまうんだろうとは思うが、至高のサービスを提供してくれていた。彼女達からは学ぶことも多く、自分の対人能力を改善する上でも役に立った。
ちょっと著者も覗いてくれるかもしれないので提案なんですが,どうしてこういうイラストやファッション雑誌もそうなんですが,長身でスラッとして脚長で顔小ぶりの人間ばかり出すのでしょうか? 僕にとってはもうその時点で他人事になってしまいます.自分がどういう服を着たいかを考えるときに,自分に似た人間が着ているのをみるのが一番なんじゃないですか?そもそも,服とは長身でスラッ(以下略)な人間を基準につくってあるので,それが似合わないような体型の人間には着せたくないのでしょうかね.服屋には,「僕に着てほしそうにならんでる服」なんてないんですよ.だからこそ,着る人間を拒まない「スーパーの服」が一番落ち着くのかなあ,なんて考えてしまいました.もちろん,いろいろな理由でもってそこに落ち着いているわけですが.
Kammy+さんのこの疑問に対して、菊池さんは次のように答えている。
ご質問のどうしてファッションイラストや雑誌で『長身でスラッとして脚長で顔小ぶりの人間ばかり』取り上げるのかと言うことなんですけど、それはズバリ、それが洋服という商品が一番似合う体型だからです。服も商品ですから、売れなきゃ意味が無い、かっこいいなーと思ってもらうためにはかっこいい人に着てもらう、それ基本です。商業ベースでは。
私はこの菊池さんの回答が、物凄く「服を売る」業界側の意見に見えてしまう。デザイナー、販売員などの服の生産に携わる人間にとって、作品であり、売り物なのは服それ自体である。そこから菊池さんの上記の発言が出てくるのは当然の流れだと言えよう。服を売る側にとっては、あくまで服を売ることが第一目的であり、服を買った人が幸せになるかどうかまでは責任をもてない。似あわなそうな服を選んだ消費者に服の購入を思いとどまらせようとするような店員を自分は見たことも聞いたこともない。
私は服飾業界の接客があまり好きではないが、美容院の接客だけはかなり真摯さを感じた。それは美容院が、「人間そのものをいじる技術」を商品にしているからだろう。美容師にとって大事なのは、その人がかっこよく仕上がるかどうかだ。人をかっこよく改造できない美容師に商品価値はない。
美容師さんもそのことをよく理解しているからか、私のように元が最悪の人間の髪を切るときは、なんかいろいろ試行錯誤しながら、偏差値30くらいの顔を40とか45くらいに引き上げようと努力してくれる。こっちが満足した仕上がりになった時は、美容師さんも心なしか満足そうな顔をしているし、いまいちな仕上がりになったときは美容師さんも怪訝そうな顔をしている。
服飾店員みたいに余計なものを無理に薦めることもない。ファッションガイドにはやたらと茶髪茶髪書かれているが、仕事やバイトの都合であんまり明るい色にはできないとか染められないとか、アトピー持ちだから怖くて染めたくないとか、そうしたことを全部ふまえた上で話ができる。私は美容院に何回か通って初めてカラーを薦められたし、カラーし始めの頃は料金半額にしてもらってちょっとずつ色を明るくしていった。こっちが眠そうな顔をしてれば寝かしておいてくれるし、眉毛切るときも初回は無料でやってくれる。運がよかっただけかもしれないが、色々美容室には行ったけど、美容院では「サービス」の押し付けをほとんど感じたことがない。消費者の幸せと、生産者の幸せが、いい感じでマッチングしている。
服の場合は、服と人間が分離しているからそうはいかない。まあ働く人というよりは、企業や業界のビジネススキームがそうなっていると思うのだが、なんだかよくわからんデザインで余計なものがたくさんついてて機能性も悪そうで(実際悪い)しかも値段も不可解なほど高い服を店員は次々と持ってくるし、「ジャケットはベルベットが...」とかわけわからんことをいきなり話しかけてくるし(今日の話。美容室では、「(雑誌を見せながら)こういうのがレイヤーって言うんですけど、こうするとずいぶん髪が軽くなりますよー」とか分かり易い説明をしてくれる)。
デザイナーが自分の作った服をモデルに着せてそのできばえにうっとりしようが、販売員が高価な服をたくさん売ってウハウハしようが(これはしないか...ノルマとかに疲れてる人もいたし...)、そんなことは消費者の幸せに関係ない。消費者の幸せと直結しない生産者の幸せを自己満足といい、まともな生産者ならそれを避けるし自己満足に気づくとショックを受けるはずなのだが、適当な事実から勝手に消費者の支持を妄想して自己満足に陥っていることに気づいていなかったりするからたちが悪い。ついでに言っておくと望ましい男性性・女性性のモデル、ファッションのための理想体型を勝手に規定した上で高額な金まで貰っているモデルはオタクにとって邪魔者以外の何者でもない。
服を買う消費者にとって大事なのは、「服そのもの」ではなく、「服を着た自分」である。消費者は別に部屋に飾ってうっとりするために服を買うわけではない。「自分が」着るために服を買うのだ。どんなかっこいいモデルが着ていても、自分に似合わない服、自分に何らかの苦痛を与える服、「服を着た自分」をモテさせてくれない服はゴミクズ同然なのである。実際、服を購入する最大の決め手になるのは試着であるということからもそれはわかる。
一消費者の性格や境遇や懐具合までちゃんと理解した上で、その人に最も合う、最も満足感を与える服を提供し、それに幸せを感じるのが望ましい生産者の姿だろうが、私はまだそんな生産者に会ったことが無い。店員でなく、「商品販売」という文脈から離れたファッションのエキスパートにファッション改造をお願いする人が多いのは、そういう現在の服飾産業のあり方を反映しているのだと思う。ある種の接客をウザいと感じているのはオタクだけではないだろうし、店員さんも疲弊しているかもしれないし、不幸になる人が多いような制度は早くなくなっちゃえばいいのに。
どうでもいいが、私がこんなにサービスにぐだぐだいうのは風俗通いが長かったことが大きい。性産業、水商売でトップセールスを記録するような女の子たちは、瞬時に相手の要望を見抜いて、それを先回りして満たすような行動を取る。彼女達はおそらくそのことで物凄くストレスをためてしまうんだろうとは思うが、至高のサービスを提供してくれていた。彼女達からは学ぶことも多く、自分の対人能力を改善する上でも役に立った。
2005年12月19日
オシャレに「ファッションの言葉」は必要ない
【レビュー】『電車男スタイリング・バイブル』
http://kammyblog.seesaa.net/article/10674255.html
ここの議論が非常に興味深かったので一言。本はまだ読んでいないので(今度アキバに行ったら見てみよう)、内容についてはエントリやコメントから類推しているだけである。
まず思ったことが、「脱オタ」関連本は、まだ「ファッションの言葉」で書かれているのではないかということだ。それではたぶんオタクに届かない。服の購入段階における技術の欠如よりも、着飾ることそのものについてまわる、「ファッションの空気」や「ファッションの言葉」なるものが、オタクをファッションから遠ざけている要因ではないだろうか。
オシャレな店に入りにくい、店員が怖い、美容院が怖い、ファッション用語がわからない...。こうした理由でファッション業界から距離をとるオタクは少なくない。オタクがヨーカドーやユニクロで服を買うのは、そこに置いてある商品が安いという理由もさることながら、気軽さ、威圧感のなさによるところが大きいのではないか。
私はダウンジャケットとかペロアジャケットとかブルゾンとか言われても具体的な商品像をイメージできない。そういう人間が粘着接客の丸井などに行くと、「アウター?インポート?今月のメンズノンノに載ってる?はあ?日本語しゃべってよ」という感想を抱くことも少なくない。
オタクが「自分に似合う服を着る・買う」という目的を達成するためには、こうした「ファッションの空気」や「ファッションの言葉」は必要ない。むしろ邪魔である。私が「こういう店が出来たら行くだろうな」と思うのは、手ごろなブランドから商品をセレクトしてくるなどして商品のレベルは落とさずに、「ファッションの空気」だけを根こそぎ削り落としたような店舗である。アウターを上着と呼んでも、ファッション誌の名前を知らなくても、裏原系を知らなくても、全く違和感を感じることなしに自分に似合う服を選べる店、モデル体型のマネキンだけじゃなくて、いろいろな体型のマネキンが置いてあるような店、威圧感を与えない、決してでしゃばらない店員がいる店...既存のファッション業界の常識を悉く疑い、ぶち壊したような店があると面白い。
丸井の粘着接客はオタク以外にも大変評判が悪く、あれが続いているからにはよほどあの方針が売り上げに直結してるのだろうと予想されるが、非オタクにとって「サービス」たりえる行為が、オタクに対しても「サービス」たりえるという保証はどこにもない。オタクにとってはヨーカドーの売り方のほうが「サービス」だ。優れた店員は、誰に対しても適切な「サービス」を提供できる人間だろう。しかし、ファッション業界がオタクという客層を視界の外に置いているからだろうか、そうしたきめ細かい「サービス」を提供できる店員はかなり少ないように思われる。
ただし、ファッションが差異化の試みである以上、このようにして参入障壁を緩和されたファッションは、差異化の記号としての役目を果たさなくなるだろう。その店舗の名前をとった「○しろまる○しろまる系」という言葉で揶揄される対象になるかもしれない。でも、身だしなみレベルの改善には役立つだろうし、こういうニッチな需要ってあると思うんだけどなー。
ちなみに、Jリーグは開幕前、「あなたが今日観戦したのはどことどこの試合ですか?」という、サッカーファンが「いい加減にしろよ」と言いたくなるようなことまで、観客にアンケートを取ったという。アンケートの結果は、実に半分以上(数字曖昧...かなり多かった)の回答者が、自分の観戦した試合がどことどこのチームによるものなのか把握していないというものであった。新規市場にアプローチするにあたっては、自分が当たり前だと感じていることを徹底的に疑う必要があるという例である。「まったく興味ない業界の商品を自分が買うにはどういう障壁があって...」みたいなことを脳内シミュレートしていくと、興味のない、関心のない、恐怖感を持っている人に届かない物言いがどういうものなのか、わかるかもしれない。
ファッション業界はJリーグと違って(Jリーグ開幕前のサッカーは今をときめく日本代表戦ですらほとんどテレビ放送されないような状況で、既存市場が極めて貧弱だった)、別に新規市場(オタク)に手を伸ばさなくても巨大な既存市場でモノを売っていればいいので、こうしたマーケティング戦略がとられる可能性は薄いかもしれない。客に恐怖感を与えるような店はビジネスとしては論外であろうが、その客がニッチで可視化されていないものならば、ビジネスとしては問題ないし。
でも、完全な商業ベースでなくていいから、例えば同人誌やフリマなんかで、「ファッションをオタクに歩み寄らせる」ような試みが行われると楽しいと思う。
本の売り上げから読者像を類推することについての意見とか、いろいろ書きたいことあるけど、次の機会に回そう...
最後に、kammy+さんのファッション志向が、
http://blog.livedoor.jp/shitamuki2005/archives/50034309.html
で書いた自分のファッション志向と似ている点が興味深かった。着飾ることに消極的な人間がファッションに投資しようとするときは、やはり似たような傾向に収斂するのであろうか。シンプルでリーズナブル(セールなら50%〜80%引き)という点においてコムサデモードはやっぱり優れてるんだけど、ここズボンだけは昔からシンプルなのがないんだよなー。ジュンメンとかはズボンもシンプルなのに。
http://kammyblog.seesaa.net/article/10674255.html
ここの議論が非常に興味深かったので一言。本はまだ読んでいないので(今度アキバに行ったら見てみよう)、内容についてはエントリやコメントから類推しているだけである。
まず思ったことが、「脱オタ」関連本は、まだ「ファッションの言葉」で書かれているのではないかということだ。それではたぶんオタクに届かない。服の購入段階における技術の欠如よりも、着飾ることそのものについてまわる、「ファッションの空気」や「ファッションの言葉」なるものが、オタクをファッションから遠ざけている要因ではないだろうか。
オシャレな店に入りにくい、店員が怖い、美容院が怖い、ファッション用語がわからない...。こうした理由でファッション業界から距離をとるオタクは少なくない。オタクがヨーカドーやユニクロで服を買うのは、そこに置いてある商品が安いという理由もさることながら、気軽さ、威圧感のなさによるところが大きいのではないか。
私はダウンジャケットとかペロアジャケットとかブルゾンとか言われても具体的な商品像をイメージできない。そういう人間が粘着接客の丸井などに行くと、「アウター?インポート?今月のメンズノンノに載ってる?はあ?日本語しゃべってよ」という感想を抱くことも少なくない。
オタクが「自分に似合う服を着る・買う」という目的を達成するためには、こうした「ファッションの空気」や「ファッションの言葉」は必要ない。むしろ邪魔である。私が「こういう店が出来たら行くだろうな」と思うのは、手ごろなブランドから商品をセレクトしてくるなどして商品のレベルは落とさずに、「ファッションの空気」だけを根こそぎ削り落としたような店舗である。アウターを上着と呼んでも、ファッション誌の名前を知らなくても、裏原系を知らなくても、全く違和感を感じることなしに自分に似合う服を選べる店、モデル体型のマネキンだけじゃなくて、いろいろな体型のマネキンが置いてあるような店、威圧感を与えない、決してでしゃばらない店員がいる店...既存のファッション業界の常識を悉く疑い、ぶち壊したような店があると面白い。
丸井の粘着接客はオタク以外にも大変評判が悪く、あれが続いているからにはよほどあの方針が売り上げに直結してるのだろうと予想されるが、非オタクにとって「サービス」たりえる行為が、オタクに対しても「サービス」たりえるという保証はどこにもない。オタクにとってはヨーカドーの売り方のほうが「サービス」だ。優れた店員は、誰に対しても適切な「サービス」を提供できる人間だろう。しかし、ファッション業界がオタクという客層を視界の外に置いているからだろうか、そうしたきめ細かい「サービス」を提供できる店員はかなり少ないように思われる。
ただし、ファッションが差異化の試みである以上、このようにして参入障壁を緩和されたファッションは、差異化の記号としての役目を果たさなくなるだろう。その店舗の名前をとった「○しろまる○しろまる系」という言葉で揶揄される対象になるかもしれない。でも、身だしなみレベルの改善には役立つだろうし、こういうニッチな需要ってあると思うんだけどなー。
ちなみに、Jリーグは開幕前、「あなたが今日観戦したのはどことどこの試合ですか?」という、サッカーファンが「いい加減にしろよ」と言いたくなるようなことまで、観客にアンケートを取ったという。アンケートの結果は、実に半分以上(数字曖昧...かなり多かった)の回答者が、自分の観戦した試合がどことどこのチームによるものなのか把握していないというものであった。新規市場にアプローチするにあたっては、自分が当たり前だと感じていることを徹底的に疑う必要があるという例である。「まったく興味ない業界の商品を自分が買うにはどういう障壁があって...」みたいなことを脳内シミュレートしていくと、興味のない、関心のない、恐怖感を持っている人に届かない物言いがどういうものなのか、わかるかもしれない。
ファッション業界はJリーグと違って(Jリーグ開幕前のサッカーは今をときめく日本代表戦ですらほとんどテレビ放送されないような状況で、既存市場が極めて貧弱だった)、別に新規市場(オタク)に手を伸ばさなくても巨大な既存市場でモノを売っていればいいので、こうしたマーケティング戦略がとられる可能性は薄いかもしれない。客に恐怖感を与えるような店はビジネスとしては論外であろうが、その客がニッチで可視化されていないものならば、ビジネスとしては問題ないし。
でも、完全な商業ベースでなくていいから、例えば同人誌やフリマなんかで、「ファッションをオタクに歩み寄らせる」ような試みが行われると楽しいと思う。
本の売り上げから読者像を類推することについての意見とか、いろいろ書きたいことあるけど、次の機会に回そう...
最後に、kammy+さんのファッション志向が、
http://blog.livedoor.jp/shitamuki2005/archives/50034309.html
で書いた自分のファッション志向と似ている点が興味深かった。着飾ることに消極的な人間がファッションに投資しようとするときは、やはり似たような傾向に収斂するのであろうか。シンプルでリーズナブル(セールなら50%〜80%引き)という点においてコムサデモードはやっぱり優れてるんだけど、ここズボンだけは昔からシンプルなのがないんだよなー。ジュンメンとかはズボンもシンプルなのに。
2005年12月17日
ホンネとタテマエ
ところが、タテマエとホンネの対比には、「あるべき理想」と「あるがままの現実」という対照も含まれているように思う。そうだとすると、「あるべき理想」をタテマエと呼び、「あるがままの現実」をホンネと呼ぶことは、「理想」や「規範」をお題目的なものへと格下げする一方で、あるがままの現実を真実性という聖衣をまとったものへと格上げする作用がある。ここには、規範や理想を蔑視し、あるがままの現実を――たとえそれがどのようなものであれ――それが現実だという理由だけで尊重してしまうという、日本人特有の思考様式が反映しているように思う。あるべき理想とあるがままの現実との間には、多かれ少なかれギャップがあるのはやむをえないが、そのとき現実を理想の方に近づけようと努力するのか、規範を現実に合わせることによってギャップを解消しようとするかによって、社会が進歩するか否かが決まるのではないだろうか。
確かに、社会全体のレベルで考えた場合、こうした議論は当てはまる。しかし、個人の適応や社会の中でのパイ争いというレベルで考えると、現在、タテマエは何の解決策も与えてくれない。これまでも、あふれるタテマエの中からしたたかにホンネを見抜く能力こそが重視されていたといえるだろう。
タテマエを成立させたまま、自分だけがホンネに基づいて行動することで、他者に対して相対的優位を保つことができる。また、ホンネで行動しつつもタテマエに従っていると自己暗示をかけることで、自分の人生を豊かにすることができる。だから、勝者にとってもタテマエは大事だ。タテマエに依拠して(時には盲目的に従い)行動する人間にとっても、タテマエは大事だ。
しかし、タテマエと現実が乖離しすぎると、タテマエに盲目的に従うことは、適応上の不利しか生まなくなる。おそらくこうした流れの中で、「ホンネ重視」の風潮は出てきている。上記エントリで言及されているような自己啓発本は、有効な適応戦略のための処方箋を与える(少なくとも読者にそう思わせる)ことを商品価値としているため、そうした分野でタテマエの権威が失墜していることも当然であろう。
おそらく、理想としてのタテマエを今後も存続させたいと思うのであれば、二つの方法がある。一つはタテマエに盲目的に従う人が存在することを前提として、あまりに現実と乖離したものではなく、彼らの適応戦略の有効な指針足りうるような形にタテマエをデザインし直すという修正主義的な方法であり、現状追認に近い。(もしくは現実をタテマエに合わせる方法。まず無理だろうけど)
もう一つの方法は、あくまで理想であることを明確にしつつ、タテマエを語ることである。常にタテマエの相対化とセットにしつつタテマエを語る方法である。
おそらく、日本ではタテマエは理想としてではなく、現実という形で流通してきた。タテマエを語る際には、「これは理想である」とか、「これはタテマエである」とか決して語られることはない。
現実という形をとって流通するタテマエは、その虚構性が露にならないうちは、一定の説得効果を持ちうる。しかし、一旦虚構性、現実との不一致が露になった場合は、説得効果を持たないどころか、強烈な反対にあうことになる。
個人の適応においては、タテマエとホンネをある程度ミックスしたものに依拠するのがベターである。ホンネだけでもいいかもしれない。しかし、タテマエだけをベースに適応戦略を練ることは、おそらく不幸な結果しか生み出さない。
タテマエはおそらく、日常生活よりもメディア上で流通することが多い。そして、メディア上で流通するメッセージには、おそらく商売上の理由から、明確な結論や、単一の価値観の強調といった要素が求められる。多種多様なメッセージに触れていれば、その分だけ各メッセージを相対化する機会は増大するが、そうではない場合、上記のようなメッセージの構築方法は悲惨な盲信者を生産し続けるだけであろう。この国の教育制度デザインもそうだ。社会適応上の必要要件を漸進的に習得するのではなく、価値観のラディカルな転換を何度か求められるようなデザインになっている(それなのに教育=社会適応という大義名分だけは捨てない)。
個人的には、「〜が理想だけど、今の自分は〜」みたいな、かならず理想と現実を両論併記するような発言のスタイルが一番好みである。理想だけを延々と並べていいのは、ロンブーの番組のような人間のダークサイド増幅装置に接しても、なお良識を保てる人物だけだ。そうした稀有な人間以外は、30%であったり70%であったり、自分の中のタテマエの割合を正確に表現できるような形でタテマエを語って欲しい。
ホンネとタテマエの関係なんて、0−100の関係じゃなくて、複雑に入り組んだ関係なんだから、その辺の複雑さをちゃんと表現する言葉が見つかればいいのかなと思う。少なくとも私のような人間に対しては、そうした表現のほうが「届き易い」。
言行不一致は、少なくとも説得という局面では、必ずマイナスに作用する。言説による現実構築なんて、そう簡単にできるプロジェクトじゃないのだ。
最後に述べておくが、私はタテマエが大嫌いな人間である。ホンネを認めたがらない人間も大嫌いである。善人の仮面をかぶった悪人より、悪人面をした悪人が好きな人間で、隠されたホンネがあると思われる人間からは、あの手この手でホンネ(実際の行動)を引き出そうとするような人間である。特に、ホンネで動きながらタテマエを生産して生計を立てている人間が大嫌いである。新聞の社説には、必ず「ただしわが社で不祥事が起こった場合は必死で隠蔽活動を行います」と付け加えて欲しいくらいである。政治家にソープ奢ってもらった記者は偉そうな顔で政治家批判とかしちゃいけないでしょ。やっぱり。
確かに、社会全体のレベルで考えた場合、こうした議論は当てはまる。しかし、個人の適応や社会の中でのパイ争いというレベルで考えると、現在、タテマエは何の解決策も与えてくれない。これまでも、あふれるタテマエの中からしたたかにホンネを見抜く能力こそが重視されていたといえるだろう。
タテマエを成立させたまま、自分だけがホンネに基づいて行動することで、他者に対して相対的優位を保つことができる。また、ホンネで行動しつつもタテマエに従っていると自己暗示をかけることで、自分の人生を豊かにすることができる。だから、勝者にとってもタテマエは大事だ。タテマエに依拠して(時には盲目的に従い)行動する人間にとっても、タテマエは大事だ。
しかし、タテマエと現実が乖離しすぎると、タテマエに盲目的に従うことは、適応上の不利しか生まなくなる。おそらくこうした流れの中で、「ホンネ重視」の風潮は出てきている。上記エントリで言及されているような自己啓発本は、有効な適応戦略のための処方箋を与える(少なくとも読者にそう思わせる)ことを商品価値としているため、そうした分野でタテマエの権威が失墜していることも当然であろう。
おそらく、理想としてのタテマエを今後も存続させたいと思うのであれば、二つの方法がある。一つはタテマエに盲目的に従う人が存在することを前提として、あまりに現実と乖離したものではなく、彼らの適応戦略の有効な指針足りうるような形にタテマエをデザインし直すという修正主義的な方法であり、現状追認に近い。(もしくは現実をタテマエに合わせる方法。まず無理だろうけど)
もう一つの方法は、あくまで理想であることを明確にしつつ、タテマエを語ることである。常にタテマエの相対化とセットにしつつタテマエを語る方法である。
おそらく、日本ではタテマエは理想としてではなく、現実という形で流通してきた。タテマエを語る際には、「これは理想である」とか、「これはタテマエである」とか決して語られることはない。
現実という形をとって流通するタテマエは、その虚構性が露にならないうちは、一定の説得効果を持ちうる。しかし、一旦虚構性、現実との不一致が露になった場合は、説得効果を持たないどころか、強烈な反対にあうことになる。
個人の適応においては、タテマエとホンネをある程度ミックスしたものに依拠するのがベターである。ホンネだけでもいいかもしれない。しかし、タテマエだけをベースに適応戦略を練ることは、おそらく不幸な結果しか生み出さない。
タテマエはおそらく、日常生活よりもメディア上で流通することが多い。そして、メディア上で流通するメッセージには、おそらく商売上の理由から、明確な結論や、単一の価値観の強調といった要素が求められる。多種多様なメッセージに触れていれば、その分だけ各メッセージを相対化する機会は増大するが、そうではない場合、上記のようなメッセージの構築方法は悲惨な盲信者を生産し続けるだけであろう。この国の教育制度デザインもそうだ。社会適応上の必要要件を漸進的に習得するのではなく、価値観のラディカルな転換を何度か求められるようなデザインになっている(それなのに教育=社会適応という大義名分だけは捨てない)。
個人的には、「〜が理想だけど、今の自分は〜」みたいな、かならず理想と現実を両論併記するような発言のスタイルが一番好みである。理想だけを延々と並べていいのは、ロンブーの番組のような人間のダークサイド増幅装置に接しても、なお良識を保てる人物だけだ。そうした稀有な人間以外は、30%であったり70%であったり、自分の中のタテマエの割合を正確に表現できるような形でタテマエを語って欲しい。
ホンネとタテマエの関係なんて、0−100の関係じゃなくて、複雑に入り組んだ関係なんだから、その辺の複雑さをちゃんと表現する言葉が見つかればいいのかなと思う。少なくとも私のような人間に対しては、そうした表現のほうが「届き易い」。
言行不一致は、少なくとも説得という局面では、必ずマイナスに作用する。言説による現実構築なんて、そう簡単にできるプロジェクトじゃないのだ。
最後に述べておくが、私はタテマエが大嫌いな人間である。ホンネを認めたがらない人間も大嫌いである。善人の仮面をかぶった悪人より、悪人面をした悪人が好きな人間で、隠されたホンネがあると思われる人間からは、あの手この手でホンネ(実際の行動)を引き出そうとするような人間である。特に、ホンネで動きながらタテマエを生産して生計を立てている人間が大嫌いである。新聞の社説には、必ず「ただしわが社で不祥事が起こった場合は必死で隠蔽活動を行います」と付け加えて欲しいくらいである。政治家にソープ奢ってもらった記者は偉そうな顔で政治家批判とかしちゃいけないでしょ。やっぱり。